第四章 風花紲月 PART12

  12.


「……未橙先輩? 大丈夫ですか?」


 隣を見ると、戌飼が小声で呟いている。


「ひょっとして体調が悪いのですか?」


「いや、大丈夫だ。すまない、気にしなくていい」


 ……いけない、意識が飛んでいた。


 すでに勤務中だと気を入れ直す。明善社の一階の和室で、故人の腹に溜まった点滴を取り除いている最中だ。


「……先輩、まだ終わらないんですかね」


 改めて時計を眺める。すでに2時間が経過しているが、まだ掛かりそうだ。


「……そうだな。だがここまで来れば問題はないよ」


 再び戌飼に視線を移す。彼女もまた、昨日の酒が残っているのか覇気がない顔をしている。


 ……余計なことを考えては駄目だ、今は仕事に集中せねば。


 気を引き締め直すと突然襖が開いた。そこには黄坂千月が正座の状態で座っていた。


「すいません、お仕事中だとはわかっていますが、話があります。急を要します」


「用があるのならここで聞こう」


「ここではいえない話です。あなたのためにも」


「私のため?」


「そうです。少しだけでいいんです。私に時間を下さい」


「それは無理だ」


 故人の元に視線を戻す。戌飼一人では心細い。もしここで彼女がミスをすれば大事(おおごと)になる。


「大丈夫です、行ってきて下さい。この作業は一度目を通してます、任せて下さい」


「しかし……」


 一度見たからといって対応策は取れない。何より喪主の気持ちを考えるとここに留まっていた方がいいはずだ。


「大事な話なんでしょう? 何かあればすぐに連絡します。行ってきて下さい」


「……わかった、5分だけ席を外させて貰う」


「それで十分です、ではこちらへ」


 戌飼を留まらせ千月の後をついていく。どうやら斎場の二階と上がるようだ。


 ……急を要する話とは一体何だろう。


 はやる気持ちを抑えながら千月の後ろ姿を追いかける。その奥は昨日弔われた申塚家のホールがあるだけだ。


 階段を登り終えた後、辺りを見回すと、告別式はすでに終わっているようだった。どうやら無事にご遺体は移動したらしい。


 千月の右手に目を向けると、そこにはスーツの袖から重厚な輝きを見せる機械式時計があった。


「いきなりですが、つかぬことを伺います。私は昨日、あなたと話をしましたよね?」


「もちろん。申塚家の担当は君だろう? 確認で事務所を訪れたじゃないか。それがどうかしたのか?」


「そうですよね、それでその時にお願いしたと思うのですが……」


千月は口ごもりながら右往左往し始めた。


「初七日の後、私と一緒に『月の光』を演奏して頂けるのですよね? それで大変恐縮なのですが、練習をご一緒していただきたくて……」


 ……何も聞いていないが。どういうことなんだ、ゆかり?


 千月の発言に戸惑う。もう一人の人格・ゆかりが昨日出ていたことはわかっているが、なぜ私と彼女がピアノでセッションしなければならないのかわからない。


「先ほどのお仕事は白石さんに引き継がれていますので大丈夫です。時間がないので、早い所、練習を……」


「断る」


 斎場の奥にあるピアノを見ながらいう。


「私はピアノが弾けなくなったから、この仕事を始めたんだ。それは君にも伝えてあるだろう?」


「ええ、そうなんですが……ここでピアノを演奏しなければ、私自身も困るのです」


 千月は行き詰った表情でいう。


「どうしてもやらなければならないのです、故人様を救うために。それに別の方の命も救われる可能性があるのです。お願いです、人の命が掛かっています。できなくてもいいので、挑戦だけでもして貰えないでしょうか?」


 ……ゆかり、君は何を考えている?


 昨日の彼女とのやり取りを思い出す。


 ピアノが弾けるようになりたいと彼女はいった。だが私に弾かせる理由はわからない。


「なぜ私がピアノを弾けば故人が救われるんだ? 面識はあるが、ほとんど繋がりはない」


「それは……故人の死があなたに関係しているからです。これ以上、私がいうことはありません。未橙さん、よく考えて見て下さい」


 ……もしかすると花織は本当に私のために彼を殺害したのか?


 不穏な影が自分の体に吸収されていく。もしかすると、あの時いった約束をまだ根に持っているのだろうか。


 故人の棺掛けにはスノードロップの花が描かれてあった。贈呈品として渡す場合の隠喩は『あなたの死を望む』


 もしかして、彼女はまさか……自分と会いたいがために彼氏を殺したというのか?


「いや、そんなことは有り得ない」


 雪奈は大きく首を振った。


「まさか花織が関与しているというのか? 自殺ではなく彼女が……」


「真相はわかりません。ですが彼女があなたに会うためにここに来たのは間違いありません」


 ――先輩と会うためには同じ絶望を味わってからにします。


 目の前のグランドピアノを確認すると、一年前に弾いたものと同じものだった。彼が亡くなって絶望に打ちひしがれていた時だ。


「ありえない、そんなことは絶対にありえない……」


 空になった心に靄(もや)が漂い始める。自分の軽率な一言で彼女の心を壊してしまったのだろうか。もしそうであるならば、本当に取り返しがつかないことをしてしまったことになる。


「雪奈さん、本当はピアニストに戻りたいと思っていませんか?」


「いいや、思ってない。私は自分でこの道を選んだ、だから戻ろうとは考えてもいない」


「じゃあなぜ中酉さんから避けるのですか。彼女はあなたに送って欲しいから、わざわざこの斎場を選んだんですよ」


「それがどうしたというんだッ」


 はき捨てるようにいった後、踵を返す。


「私の席をくれてやったんだ。それで十分だろう。用件がそれだけなら私は戻るぞ」


「逃げるんですか」


「逃げてなどいないっ。ピアニストだけが人生じゃないんだ。他の道だっていくらでもある、湯灌だって立派な仕事だ」


「……本当にそう思っていますか?」


 振り返ると千月は楽譜を握っていた。その楽譜に見覚えがある。メロディラインは頭の中でも常に回っている曲だ。


「湯灌の仕事ももちろん大切です。ですがそれだけでは彼女の心を救うことはできない」


 千月は雪奈との距離を縮めるよう一歩前に踏み出した。


「あなたの仕事はピアノを奏でることです。どうか中酉さんの心を救って下さい。今のあなたなら彼女の心を理解できるはずです」


「私は……」


 私だって痛みがなければ弾きたい。ピアノがない生活は辛い。色がない世界に住んでいるようで常に虚ろな感情が心に潜んでいるのだ。こんな生活には飽き飽きしている。抜け出せるのなら抜け出したい。


「未橙さん」


「私には……」


 ……無理だ。


 演奏している途中の恐怖が蘇る。締め付けられるような頭痛。自分の感覚がどこに向かっているのかすらも迷い始めていく。耳鳴りが聞こえ始め鍵盤に迷いが生じる。無音の中で溺れていくことが怖い。


「故人を悔いるだけが葬儀ではありません。周りの人の心を弔うことだって葬儀の一環です」


 彼女のことを考えるだけで心臓が暴れ回る。呼吸ができない。苦しい。


 花織、君は本当に――。


「……雪奈先輩」


 見覚えのある声が後ろから聞こえる。


 雪奈が振り向くと、中酉花織が遺骨を抱えて立ち尽くしていた。

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