第2話
ミノリたちが所属している施設は、『海』のただなかにある。
しかしそれは、『海洋』の海ではなく、いわゆる『外洋宇宙』を指し示す比喩としての海だ。
ミノリたちが働いている施設、『808ファーム』――第八辺境方面宙域第0一次産業特務ステーション№8――は、文字通り辺境宇宙に浮かぶ小規模公営宇宙ステーションである。
ステーションによってその任務は様々であるが、彼女たち『808ファーム』に与えられたのは、辺境宇宙での食糧事情の改善に向けての実験および供給施設としての役割だ。
人類が宇宙に進出してから数百年。母星を飛び出した人類は次々に惑星を開拓し、あるいは数限りない宇宙ステーションを建設した。宇宙における人類の版図は絶え間なく拡大を続け、しかしそれでもなお人々のフロンティア・スピリッツは枯渇することはなかった。
そうした宇宙開拓の上で、支障となるほどではないにしても、いささか面倒な問題として浮かび上がっていたのが、開拓民たちの食料事情だ。
もちろん高カロリー高栄養長期保存可の合成食料はとっくに存在しており、それは人々を健康に生き長らえさせるためには十分なものである。
しかし、残念なことにどれだけ風味を良くしようと、味のバリエーションをつけようと、合成食料はいつだって不評の的だった。すなわちこればかりでは必ず飽きてしまうという問題だ。
また、食事の大半を合成食料が占めた場合、開拓民たちの間でストレス値が増昇するという調査結果もでている。
つまり効率の良い作業を生み出すためには、美味い普通の食事というものが不可欠であると科学的にも証明されてしまったのであった。
するとそれを解決しようとする段階で、次に発生してきたのが食料の輸送コストの問題だった。
交通整備がまだ整っていない開拓最前線にものを送ろうとすれば、通常よりもかなりの輸送費が発生してしまう。近年では冷凍保存やパウチの技術が発達し、生の食料のままとはいかずとも、食材はかなりの長期保存が可能になっているものの、やはり新鮮な食料に比べれば風味は格段に落ちてしまうことは避けられない。
何よりも食料とは消耗品だ。どれだけ節約しようとも人々の腹に収まり、消費されてしまう。
そこで最終的に考え出されたのが、辺境宇宙の最前線で食糧を生産してしまえば良いという発想の転換だった。そうすることにより、従来よりもずっと安い輸送費で、新鮮な食料を大量に人々の手元に届けることができる。
つまりミノリたちの『808ファーム』は、辺境宇宙で暮らす人々のため、野菜を生産する畑であり、最後の砦なのであった。
『808ファーム』の若き局長であるミノリ・ハタナカは両開きの扉を押し開くと声を張り上げた。
「ちょっとあなた達、喧嘩はやめなさい!」
「『喧嘩じゃありません!!』」
途端に声の矛先が自分に向き、ミノリは思わず後ずさりかける。しかし、ここで引いては局長の名が廃ると、きっと顔を上げた。
「じゃあ何なの。第二農園まで声が聞こえていたわよ、プラム、シナモン」
普段よりも厳しさを増す彼女の声に、「だって」と言葉を返してきたのはボブヘアーの黒縁眼鏡の女性だった。きっちり制服を身にまとい、しかしどこか着慣れない初々しい雰囲気を残している。
「聞いてくださいよ、局長。絶対におかしいんですって! わたしは不正を見逃せません!」
「ちょ、シナモン。落ち着いてよ」
指先で持ち上げた眼鏡をきらりと輝かせる彼女の、あまりに物騒な物言いに、ミノリは思わず慌てる。
『不正だなんて人聞きが悪いわァ。これだから融通の利かない新人は嫌なのよねぇ』
するとどこからか艶めかしい、一方でどこかわざとらしい口調がため息混じりの嫌味を返す。しかし室内のどこを見回しても、シナモンと呼ばれた若い女性以外の姿は見当たらないのだ。
『だいたい貴女は分かっていないのよ。節約節約って、目立つものをどこもかしこも削ればよいってもんじゃないのよ? お分かりかしら、お嬢チャン』
「あなたのオーバーホール代はきっちり出してあげるから、いったんそのポンコツ頭脳を整備してきたら良いと思いますよ、ロートル・プラムさん。あと、わたしは何も考えずにけちけちしている訳じゃないんですからね」
そういってシナモンが見上げるのは、巨大なディスプレイ。しかしそこには人の姿は映ってはいない。いや、しかしそれこそが彼女――プラムの姿であるのだ。
『んまぁっ! こともあろうに人をロートル扱いするなんて! このヒヨっこ!』
「ヒヨっことはなんですか! そもそもあなたは人じゃないでしょう!」
徐々に本題を外れて低次元な争いを繰り広げる二人に、ミノリは深々とため息を付いた。
「はいはい、そこまでにしておきなさい」
ぱんぱんと手を叩くと、ようやくしぶしぶと言った態でシナモンがミノリを振り返る。
シナモンは数ヶ月前にこのファームに、経理を主とした事務担当として派遣されてきた新人だ。学校を卒業したばかりで他に勤務経験はなく、まだまだ理想に燃えている年頃である。
一方、そんなシナモンと口喧嘩を繰り広げていたのが、プラム。しかし、彼女は『人』ではない。彼女はこの『808ファーム』の全システムを管理するAI。ようするに人工知能なのだ。
彼女はミノリがこのファームに着任する以前からシステム管理に携わっているベテランで、それゆえか普通のAIに比べるとかなり人間臭い。具体的に言うと、口が悪い。
そうしてどういうわけか、シナモンとプラムは犬猿の仲と言っていいほどにそりが合わず、毎日とは言わずとも定期的にかなりの大喧嘩を繰り広げるのであった。
ミノリはやれやれとため息をつく。しかしこうやって従業員たち(片方はちょっと違うが)の行き違いを仲裁するのも局長の仕事だと、ミノリは顔を上げる。
「プラム、あなたは先輩なんだから新人のシナモンにはもっと優しくしてあげてちょうだいね。それからシナモンも。なにか気になることがあるのなら、プラムに噛み付かずに定例会議の議題に挙げるなり、私に報告するなりしてちょうだい」
「そのつもりでわたし、資料も作りました! でも、どこぞの馬鹿AIが管理者権限乱用して、資料ファイルへのアクセス制限しやがったんです!」
ミノリはその言葉に思わず中央ディスプレイを凝視する。
「プラム……、さすがにそれは……」
『べ、別に悪気があってやってる訳じゃないのよ! でも、ほら、シナモンみたいに理路整然とやられると分が悪いというかなんというか……』
もともとが合成音とは思えないなめらかなプラムの声だが、今はなおさらに人としか思えないほど『泳いで』いる。
「機械が口で負かされそうだからって、力技で誤魔化そうとするなああっ!」
呆れたミノリが思わず声を大にして叫んだとき、ふいに奥でひっそりと閉じられていた『開かずの扉』が勢いよく開かれた。
ぎくりとしてミノリもシナモンも、そちらに慌てて視線をやる。
周囲の視線の集まる中、扉の開いた勢いとはうらはらにゆっくりと現れた相手に、ミノリはおずおずと声をかけた。
「ご、ごめん。ローズマリー。もしかして、うるさかった?」
扉の陰から現れたのは、年の割には幼く見えるミノリよりも遥かに幼い、場合に寄ってはハイティーンほどに見える少女だった。しかも王冠のように輝く金髪に紫の瞳の、目を見張るような美少女だ。
染みだらけの汚れた白衣を着ていなければ、いや、着ていてもなお有名雑誌の美少女モデルのように見える彼女は、頬を薔薇色に染め、興奮冷めやらぬ面持ちでミノリたちに向かって言った。
「ついに……完成、したの」
堂々たる美少女振りに似合わぬぼそぼそとした物言いではあるけれど、その言葉の意味をはっきりと聞き取ったミノリは首を傾げる。
「完成したって、なにを?」
「ずっとね……、研究してた……」
ローズマリーと呼ばれた美少女は、白衣のポケットから分厚いレンズの眼鏡を取り出して自分の顔にかける。もじもじと照れた様子でふっくら膨れた桃色の唇を開いた。
「冷凍してもボソボソにならない……こんにゃく……」
「ちょっと待って!」
そのまま再び扉の奥に引っ込もうとする少女に、思わずミノリは待ったをかける。
「あなたには、土壌の改善案と野菜の品種改良をお願いしていたはずだけど……」
一見無垢な少女然として見えるローズマリーだが、その実博士号を持つ立派な科学者であり、ファームのバイオ技術を一手に引き受けている若き天才だ。
ただし、その若さの所為かなんなのか、若干マッドサイエンティストを思わせる言動も少なくない。
「それも……平行して、やってる……」
ミノリの言葉にローズマリーはこくんとうなずく。そしてふと思いついたように、ガラス越しの視線をミノリに向けた。
「あのね、教えて欲しいこと……ひとつ……」
「な、なぁに?」
おずおずとうなずくミノリに、ローズマリーは真っ直ぐに彼女を見据えて、たずねた。
「糸こんにゃくとしらたきの違いって、なに……?」
「そんなもの、知りません!」
「そっか……」
「えっ、あっ、ちょっと……!」
それっきり興味を失くしたように、再び『開かずの扉』――正式にはバイオ研究開発室に戻るローズマリーを引き止め損ね、ミノリはがっくりと肩を落とす。
一旦研究室に籠ってしまえば、ローズマリーは研究が一段落するまで滅多にそこから出てこなくなる。ちなみにローズマリーにはファームにちゃんと自室があるのだけれど、寝食のすべてを研究室で済ませてしまうため、部屋に戻るのは年に数回あるかないかといったほどだ。
彼女と顔を合わせたらいくつか伝えたい連絡事項が溜まっていたのに、うっかり突っ込みを優先してその機会を逃してしまったミノリである。
小さくため息をついて振り返ると、そこでは再びプラムとシナモンが角を突き合わせて激しい言い争いを始めていた。
「ちょっと、だから喧嘩はやめなさいって、あなたたちっ!」
そして気がつけばいつの間にやらソルトは姿を消しており、農場につながる扉の陰からはスコッチが首をすくめて女性たちの言い争いをおどおどと眺めている。
「ああ、もうっ! みんな、いい加減にしなさいっての!」
ミノリは両手を上げて、野菜がたわわに実る己の穏やかな農園にいっそ現実逃避したくなる。
そんなこんなで、ここ『808ファーム』は今日もそれなりに平和であった。
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