三章 突然の出来事5

 虫眼鏡で階段を一段一段調べているアーサーに出くわした。彼は真剣そのもので、後ろ向きに降りてくるその背中に、ぶつからないようメグが気をつけなければならなかった。

「ああ、悪いね。夢中になると周りが見えなくなる」

 階下まで降りてきて、顔を上げた。

「ミトラくんも原稿探し再開かい?」

 問われて、反射的に頭を振ってしまった。

 アーサーはおや? と首を傾げる。

 よく見ると、彼は埃だらけだった。同じように屋敷中這いずり回っていたのだろうか?

「私は、もう詩を解くのはやめます」

 我ながら暗く重い声だ。アーサーもそれを感じたことだろう。

 ふむ、とメグから視線をそらし、中庭を眺める。西の棟の影が大きく伸びて、庭を覆っていた。

「まあ、うん。そうか。残念だけど探そうと思うのは君の意志だしね。無理強いはしないさ」

 予想していた言葉と違う。彼ならもっと、メグの撤退を喜ぶと思っていた。

 先ほどの食堂でのやりとりでメグの中のたがが外れたのか、ストレートに言ってしまう。

「ライバルが減ってよかったんじゃないですか?」

 普段なら絶対こんな聞き方はしない。

 すごく、嫌な聞き方。言ってしまったそばから自己嫌悪にさいなまれる。

 アーサーもそれを感じたのだろう。少し難しい顔をして腕を組む。

 謝ってしまえ、今ならまだ間に合うと、自分の中のもう一人の自分がせっつく。けれど、すみませんの一言が口からこぼれることはなかった。

 アーサーの言葉を待ってしまう。

 失礼だと、怒られるかもしれない。

 怒られるより前に、謝ってしまえば相手の怒りが少し軽減される。自分が悪いと認めてしまえば、ぶつける怒りを手加減してしまうのが普通の人間だ。今までそうやって危険を回避してきた

 わかっているのに、メグは黙りを続ける。

 そうして、口を開いたアーサーの声は普段と変わらぬものだった。

「うーん。カサンドラが探して欲しいと思っているのなら、なるべく多くの人間が思惑に乗っている方が彼女も喜ぶだろうと思うから。ミトラくんが探すのを諦めるのは反対に残念だよ」

 先ほどから、予想外の答えばかりだ。

 なんだか、おかしい。

「昔からあの人は、周りを驚かせたりはらはらさせることが大好きだったからなあ。今回も同じ。彼女の、茶目っ気みたいなものさ」

「でも、結局この詩を残したことはカサンドラの遺志だと言い出したのはバートさんですよね。当たってるなんてわからないし、実際詩を解いたらそこには何もないかもしれないのに」

「それならそれでいいさ。彼女のいたずらに最後まで踊らされたってだけだ。彼女もどこかでそれを見て喜んでると思うよ。右往左往して、結局何もないとがっくりしてる俺たちを見てね」

 あの人はそんな人だとアーサーは笑った。神経質に見える彼が、思いきり笑っているのに遭遇したのは初めてだ。

「五年くらい前かな、雨でぐっちゃぐちゃになった原稿が届いて絶望してる俺の前に、本当の原稿を持ったカサンドラが現れたこともあったよ。あのときは参ったな。驚いた? って笑う彼女が悪魔に見えたよ。こうなることをわかって、でもそれを防ぐことをせずに俺がちょうど頭を抱えてるところへ現れるようにしたんだ。そんな俺を見て嬉しそうに笑うんだこれが」

 そう言いながらアーサーも笑ってる。

 決して笑えるような内容ではないのに。

 彼はとても嬉しそうにしていた。

「詩の場所を突き止めるのが、カサンドラのため?」

「本当に原稿があるかはわからない。五分五分くらいだとおもってる。でも、これが俺なりの追悼だ」

 追悼、とメグはつぶやいた。

「そう。追悼。じゃあ、俺は原稿探しを頑張るよ。ミトラくんも思い直すなら早いほうがいい。先に俺が見つけてしまうかもしれないからな」

 メモを人差し指でなぞると、アーサーは二階へ上がって行った。取り残されたメグは、バートを探しに中庭へ出る。


 咲き乱れる薔薇園の中央で、タレ目のバートはどこか遠くを見ていた。

 種類も色も様々な薔薇が夕焼けに染まり、さらに色を濃くする。深紅の薔薇は、カサンドラが流していた血を連想させた。

「やあ、メグちゃん」

「よく私だってわかりましたね」

 彼が前を向いたまま声を上げた。足音で誰かが近づいていることに気付いたのだろうが、なぜこちらを見ないでメグだとわかったのか。

「だって、足取りが重いもん」

 振り返り、彼女の足を見る。メグも、思わず自分の足を見下ろす。

 バートはそんなメグを見て笑った。

「今この屋敷に、そんな風に重苦しく歩く子はメグちゃんくらいしかいないから」

 風が吹く。

 二人の間を、北東の風が吹き下ろす。

「メグちゃんは、俺たちが原稿探ししてるのが不満?」

 こんな状態で、よくも原稿を探そうなどと言い出せる。

 聞きたくても聞けないその台詞を、目の前のバートが触れる。確信を突く真っ直ぐな言葉に、メグは下を向いて頷いた。

「普通なら悲しんで悲しんで、だよね。うん。それが普通。それが通常の反応。俺もわかってるさ」

 彼の右手が赤い薔薇をなぞる。

「でも相手はあのカサンドラだからなあ。どうも感覚が鈍っているのかもしれない。これが、人間の作家さんなら……、今頃葬儀だなんだって走り回ってるだろうね。でも――、カサンドラだからな」

 それ以上上手い言葉が見つからずに、バートは何度もカサンドラだからと小さな声で繰り返す。

「さっき魔法使いさんも言ってただろ? 【禁猟区】に住むリスクを彼女も承知してただろうって。その通りだと思う。だからこそ、カサンドラはあれだけの作品を書けたんだ。魔女であるというのに、人の心を惹きつける作品を生み出せた」

 リスクを負わねば、作品に深みなど出ない。

 バートはそう言っている。

「己の生を脅かすリスクを負うことによって、彼女の作品はさらに輝いていた。あの人の作家根性はすばらしい。俺はね、本当に小説家カサンドラを敬愛していたんだ。だからこそ、最後の作品を探す。このまま見つからない、で終わりにしたくはない。あの人の最後の作品だ。この世に出してこそ、彼女も救われる」

 そこでここに来て初めてバートはメグの目を見た。どこまでも青い、晴天の色をしている。その瞳に宿るものを、メグは理解できない。

「この世に出してこそ、彼女は救われる。そう思わないか?」

 素直に頷くことはできない。

 メグの反応に、彼は困惑や不快感を見せることなくまた視線を薔薇たちに戻した。

「ここをよく、カサンドラと歩いたよ」

 そう言って歩き出す。

 メグも後を追った。

「こう見えても自宅で薔薇を育てていてね」

「薔薇園があるんですか?」

「イヤイヤ、さすがに無理だよ。植木鉢で細々と、ね」

 花びらを、優しくなでながら、バートは西へ西へと進んでいった。

「俺がせっかく美しく咲かせた薔薇を、あっという間に散ってしまうから、カサンドラに見てもらえないのが残念だと言ったらね、彼女は、『散るからこそ美しい』って言ってたよ。生と死が常に隣にある人間は、とても美しいってね。メグちゃんはカサンドラの作品、結構読んでいるんだろう?」

「はい。ほとんどは」

「ほとんど、か。それはすごい。なら、彼女がこの屋敷に移ってきてからの方が、作品が生き生きしていると言われているのは知ってる?」

「ええ」

 メグもそう思う。

 昔の作品も好きだけれど、彼女は引っ越してからの方がよい。そして年々魅力を増していく。

「当然だと思うよ。【禁猟区】は魔法使いの隣にすら死を住まわせる。影があってこそ光は強く存在できる。命がけで生きている人間は美しい。リスクが、カサンドラに必要だったんだ。だから、彼女の判断でここにいたというなら、俺は悲しむことなんてできない。死と隣り合わせの人間でなく、死から遠い場所にいることができる魔法使いがわざわざ選んだ【禁猟区】だ」

 何か、違う。

 何が違うのか、その答えを得られぬままメグはバートと別れた。


 なんとなく、もう一度カサンドラが落ちた場所を見ようと西の橋、ゼピュロスのそばを通る。昨日から何度となく通ってるこの道も、通るたびに印象が変わる。

 現場が視界に入ってくると、先客がいることに気付いた。

 チャールズだ。

 彼が、じっと上を見上げている。

 こうなればとことん聞いてみるぞと、メグは彼の元へ歩み寄った。

「チャールズさん」

「ああ、メグさんか。どうしたの? 原稿探しかい?」

 彼もまた原稿原稿。

 メグは首を振った。

「そうか」

 そして、二人は黙り込む。

 いつも穏やかで場の空気を気にするチャールズらしからぬ姿だった。もともと影のある風貌ではあったが、のんびりした性格で三人の中では一緒にいて一番落ち着く人だった。今は、とても落ち込んで見える。

 けれどそれがこの場には似合っていて、メグも倣う。

 長い黙祷。目を閉じ、頭を垂れ、目の裏に赤い髪をした彼女の姿を思い浮かべる。

 生前の美しい彼女を、自分の中に思い描く。

 どれだけ時間が経っただろう。いつの間にかチャールズはまた空を見上げていた。

 魔女が落ちた西の塔を見つめている。

「案外あっけないものだよね」

 あっけない。そう。魔女の死は、人間の死以上にあっけなかった。

 そうだ。求めていた単語だった。

 あまりにもあっけなく、魔女の死を受け入れられない。

 魔法使いの死にしては、あまりに人間的なのだ。

 不注意で、誤って、ときには世界を脅かす魔法使いがちょっとした手違いで死んだ。

「死を身近に感じられないと、カサンドラはよく言っていた。この【禁猟区】に住んでいても、そんな風に思えてしまうそうだ」

 ずっと上を向いたまま。

 首が疲れないのだろうかと、こちらが心配になってしまうくらい。

「彼女は今、死を感じているんだろうか」

 詩的で、なんと答えたらいいかわからない。アーサーやバートたちのように彼の考えに賛同するしないではなく、理解できない。首を傾げてしまう。

「ごめん。わけわからないよね」

 ようやく、いつも通りのチャールズの顔になる。

「僕も、カサンドラの死には正直戸惑っているんだ。屋敷の人たちみたいに、大人にはなれないから」

 そうか、やっぱり彼らは大人なのかと少しだけ納得する。

 反対に、自分は子どもだ。

「僕も子どもだね」

 メグの考えを見透かした彼の言葉に少しだけ笑みがこぼれた。カサンドラが死んでから、初めて笑ったかもしれない。

「彼女の作品は常に生と死を扱っていたよね」

「はい」

 それが主題であるかは別として、それでも何かしら生を問う場面が出てくる。

「年々彼女の本に惹かれる人間が増えていったのは、その生と死に関しての記述が真に迫ってきていたからだって言う人もいたんだ。僕もそう思う」

 【禁猟区】に身を置くことによって、人としての生と死に近づいていったカサンドラ。

 だが、魔女は死を望んでいたのだろうか?

 リスクを負い、危険をはらんだ状況に身を置き生を感じる。

 そこまではいい。だが、死ぬことをよしとしていたのだろうか?

「さ、それじゃあ僕は行くね」

「原稿を探すんですか?」

 非難めいた口調にならないよう注意する。

「僕がカサンドラにしてあげられることは少ない。その数少ないうちの一つだと思う。バートの言うことは、案外当たっていると思ってるんだ」

 チャールズはそれじゃあと手を振ってメグを一人置いていった。

 メグは、空を見上げた。

 次第にオレンジから夜の色が迫ってくる空の中に、主をなくした西の塔が真っ直ぐ突き刺さっていた。

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