二章 魔女の課題3
ベッドの上で、本を開く。これを最初に読んだのはいくつのときだったか、忘れてしまった。十になったときにはもう知っていたと思う。懐かしい内容に、自然と笑みがこぼれた。部屋を暗くして、ベッドサイドの灯りだけを頼りに読みふけっていた。
今も同じようにして、あの頃のときめきを心の底からすくってみる。
いたずらをして両親に叱られ、どんなに落ち込んでいようとも、カサンドラの小説を読めばあっという間に元気が出る。魔女の書いた本だから、そんな魔法が掛かっているのだと、一時期本気で信じていた。
ふかふかの枕に頭をのせて、メグは仰向けになりながら胸の上に本を置き、時間を忘れて読んだ。昔、そうしていたのと同じように。
外は真っ暗で、開け放たれた窓から涼しい風が入って来て、メグの前髪を揺らす。
目の端に、ちらりと白い物が映ったのはそのときだ。
背筋の寒さは感じていない。何だろうと、どきどきしながらそちらを盗み見る。
枕だ。
白い枕。メグが今まさに使っているのと同じ枕。
その両端から小さな手がちょこんと見えている。
「ク・ルゥちゃん?」
まさかと思って呼びかけると、今度は枕の横からぴょこんと顔が飛び出した。
ピンクのふわふわしたネグリジェがとても可愛い。ここの枕はかなり大きく、小さな彼女は抱えてくるのにだいぶ苦労したことだろう。二階から降りてくるとき転んで怪我をしなくて何よりだ。
窓は開いているが、その向こう側で止まったままこちらへは来ない。
「ああ。どうぞ、入って」
すると、驚くほど素早く駆けてベッドへ枕を放り投げ、今度は自分がよじ登ろうと頑張っている。器用に足だけで脱ぎ捨てた靴が、ひっくり返って散らばっていた。
代わりにメグは、立ち上がりク・ルゥが入って来た窓を閉める。カーテンは薄いレースの物を引いただけにした。この方が朝きちんと目が覚める。
「もう、十時よ?」
ベッドサイドに置いてある時計を見る。
「良い子はとっくに寝ている時間よ」
メグの指摘にク・ルゥは、両足をベッドの上で投げ出しうんうんと頷く。
そして、持ってきた枕にぺたんと寝転んだ。
「まさか、ここで寝るの?」
それに対しても、ク・ルゥは頷く。決心は固いようだ。
こちらとしてはそれでも問題ない。ベッドは普通よりもずっと広い。小さなク・ルゥ一人が増えたところで窮屈ではない。
メグは別にいいのだ。アレが問題なだけである。
脳裏に白い魔法使いの姿を思い浮かべる。
だがどうも、ここ二日の彼らの行動を見る限り、主導権はク・ルゥにあるようで、まあいいかと思い直した。メグが怒られるいわれはない。
せっかくだし、もう寝てしまおうとパジャマに着替える。編集の仕事はなかなかに厳しい。締め切り前は睡眠時間を削ってサービス残業も当然のごとくこなす。どこでも、どんな少しの時間でも身体を休めることには長けていた。
でも、だからこそゆっくり眠れるときは、自分が一番リラックスできるスタイルで休みたい。
「電気は付けておく?」
もし夜中に起きて恐がりでもしたら困るだろうと聞くと、ク・ルゥは少し眠そうな目で小さく首を揺らす。微妙な動きだが、たぶん肯定だ。枕元の電気を小さくして、横になる。灯りがク・ルゥの金色の瞳を照らし、その妖しげな光になんだか変な気分になってしまった。どこまでも見透かされているような、不思議な気分。そわそわと落ち着かなくて、もう寝なければならないのについ言葉が口を出る。
「格好良かったね、ドナルドさん。あの二人、お似合いだった」
それは素直な感想だった。
どこから見ても幸せそうな二人に、手放しで祝福したいと思ってしまった。
「綺麗だもんね、カサンドラ。私もあんな風に美人だったら、日常が少しは変わるのかしら?」
そう言って、思い浮かんで来たのが予想外のキィの姿で、メグは慌てて首を振った。自分は何を考えてるのかと、両手を頬にあてる。なんだかわからないが、ものすごく恥ずかしくなってくる。確かに顔は良いが、性格に問題がありすぎるだろう。
それ以上は考えまいと、カサンドラのことに思いを馳せた。
「昔、インタビューで言ってたの。カサンドラが、小説家は自分の天職だって。ク・ルゥちゃんは、彼女の本を読んだことある?」
メグの問いに、じっと聞いていたク・ルゥはまた小さく首を振った。
「そうよね。まださすがに難しいかな。もう二年か、三年ぐらいしたら楽しく読める物もあるよ。彼女、児童書で魔法使いとドラゴンのお話も書いてたから。……本当に、長い間書き続けてるんだよね、カサンドラって」
彼女が実際いくつなのかは知らないが、小説家となってからはもう二百年経つ。普通の人間なら絶対にできない。寿命が、足りない。
どこかで安心していたのかもしれない。カサンドラは、魔法使い。自分が生きている間は間違いなく、続きを出してくれる。魔女が死ぬはずがない。だから、寂しくない。
「あんなに素敵な男性が目の前に現れたら、長年続けて来た小説書きもやめてしまえるのね」
と、突然の物音に、文字通り跳ね起きる。
「な、何!?」
見ると窓の外に白い影がある。どうやら窓を叩く音らしい。
灯りを付け、おそるおそるカーテンを開けてみると、忘れたころに保護者登場だ。
ガラスを隔てた向こう側で、開けろとジェスチャーしている。【禁猟区】では、さすがの魔法使いも不法侵入は難しいらしい。
トレードマークの一つでもあるシルクハットを、今は被っていなかった。どこまでも白い髪。柔らかそうな質感のそれが、ふわふわと揺れている。
「もう! あんたたちは普通にドアから来られないの?」
頭ごなしに怒鳴りつけてやるが、見かけよりもずっと年取った彼は、メグを押しのけベッドでバタバタと暴れるク・ルゥを目指す。
「やっぱりここにいたか!」
捕まえようと駆け寄るが、子どもの方がすばしっこい。さっと起き上がりベッドから飛び降りると、キィの手をかいくぐりメグの後ろに隠れる。
あからさまにむっとするが、それ以上何も言えずに彼はテーブルの上の残った紅茶をポットからカップへ注ぐ。我が物顔でどっかり椅子に座ると優雅に口へと運んだ。
偉そうなのはそこまでだったが。
ぬるい、と顔をしかめてカップを置く。食後のお茶を持ってきてもらったのだから、すでに三時間近く経っている。当然だ。
魔法使いが椅子に座ってしまったので、メグはベッドへ座った。ク・ルゥはそんなメグにしっかりしがみついて離れない。帰らないぞとオーラを出しまくっている少女に、彼はどう出たものかと困っているのがありありだ。
みんながだんまりで、いたたまれなくなったメグが口を開く。
「ねえ、魔法使い。あなたたちって、ずっと続けてきたことを、その、好きな人ができたからってやめられるものなの?」
抽象的に表現しようとしてみたが、上手い言い回しが見つからず、結局何のことを言っているのか丸わかりの質問になってしまった。
キィはそんなメグの複雑な心境を知ってかしらずか、一言返す。
「逆だろ」
「え?」
何が? と言外に含ませるが、彼はそのまま黙っている。一分も経たないうちにイライラしてきて、再度問う。
「キィ――」
「魔法使いは死なない。人は死ぬ」
正確には死ぬこともあるが、人間よりずっと寿命があり、多少の怪我はすぐに治してしまう。死なないと言い換えても不自然はない。
「人の時間への感覚と、魔法使いのそれは、天と地ほど違う。人にとって一年は長い時間なのかもしれないが俺たちにとっては、ときにはほんのまばたきくらいにしか思えないこともある。何度かまばたいているうちに、人は消えてしまう。ならば、その間はそいつに付き合おうと思ってもおかしくはない」
そんな風に考えたことはなかった。
なんでも自分の尺度でしか測れない。そんな己に恥ずかしくなる。
カサンドラからしてみれば、自分の人生のほんの通過点でしかないのだ。それも、長い長い生の一瞬でしか。でも、そこに愛すべき人を見つけて、だからこそ彼とともにと思ったのか。
「そっか…………」
「ただ、カサンドラは過去にも何人か恋人がいたからなぁ。断筆理由はそれだけじゃないとも思うが」
イライザから聞いた孫の存在。
魔法使いに子どもがいるというのも驚きだが、さらに孫がいるという。
人と関わらず、人に干渉しないと聞く魔法使い。だが、カサンドラはまるで普通の人間のように、仕事をして、子どもを産み、さらには孫までできた。
時間の尺度が違うと言うが、彼女は一度も締め切りを破ることはなかった。
今までは、もしかしたら人間に合わせてくれていたのかもしれない。
「数年後、愛想尽かして、尽かされて、また小説書くとか、軽く言い出しそうだけどな、あいつなら」
「キィッ!」
魔法使いの台詞にク・ルゥの鋭い声が飛ぶ。どうやら怒っているようだ。
だが彼は謝るでもなく、立ち上がり手を差し出す。
「帰るぞ、ク・ルゥ。彼女に迷惑だろう」
だが、イヤイヤと首を振る。
なんとしても捕まえようとキィが手を伸ばし、間に挟まれているメグはいい迷惑だ。
「ストップストップ。もう夜も遅いし。寝ないと朝起きられないでしょう? ベッドは広いから、私はかまわないわよ」
それ見たことかと、ク・ルゥはベッドの上で飛び跳ね胸を張った。最後はメグに飛びつく。その仕草が可愛くて、こちらも嬉しく、笑顔が広がる。
キィはむっとし、だがすぐに真反対のニコニコ顔になった。
「じゃあ僕も一緒に寝よう!」
メグは一瞬頭が真っ白になり、そして、枕を掴むとキィへ投げつけた。
「なに、何を、馬鹿なこと言っているの!?」
「万事解決の最高の策だって、おい、何する、やめろよ!」
無理矢理彼を押し戻し、最後はどん、と背中に全体重をかける。魔法使いは無様に窓の外に転がり出てこちらを睨むがかまわない。
立て直す暇を与えずに窓を閉め、レースのカーテンの上にさらに厚手のカーテンを閉めてしまった。
窓を叩く音が断続的に鳴り響くが気にしない。
ベッドへ戻る途中投げつけた枕を回収して、ク・ルゥの隣に寝そべる。
「ねえっ! いっつもあんななの?」
顔が真っ赤になっている自覚があって、恥ずかしくて電気を消してしまった。闇の中でク・ルゥが首を小さく傾げるのがわかる。
「一緒に寝るって……」
子どもじゃないんだからと声にならない叫びをうつぶせになり、枕へ吐き出す。
抱きついてきたク・ルゥをこちらも抱きしめ返すと、早鐘を打つような心臓の鼓動が気になって眠れない。
「もう、なんなのよ」
泣きたい気分とは、このことだ。
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