一章 小説家カサンドラ2
魔女カサンドラは魔法使いである。
魔法使いとは、不思議な力を使っていろいろなことをできる者たちのことだ。あまり人に関わらず、独自のルールで人間と共存している。
そんな彼らも魔法を使えない場所があった。それが【禁猟区】で、大昔、たくさんの魔法使いがいた時代、彼らは随分とやりたい放題で世を生きていたらしい。しかし、この【禁猟区】では彼らもただの人となる。魔法使いに狩られることのない場所、と言う意味と、魔法使いが唯一狩られる場所でありそれを禁ずる――後が怖い――場所、と言う意味。どちらが本当なのかは分からない。普通の場所と何が変わっているわけでもない。しかし、魔法使いたちはその場所を避けた。彼らが避けるのでそこが【禁猟区】だとわかる。なぜ魔法使いにそんな風に作用するか、いつからそうなのかは一切わかっていない。聞こうにも、魔法使いに出会うことは滅多になく、日常に彼らの影が忍び寄ることはなかった。
だが、物好きにも人と変わらなくなる【禁漁区】に住む者がいた。それがこの世で一番有名な魔法使いであり、魔女カサンドラだ。
彼女は、二百年以上執筆を続ける小説家だ。本人も、魔法使いである前に一人の小説家だと豪語し、彼女の著書は全世界の人々に愛されていた。手がけるジャンルも様々で、恋愛物から社会風刺、児童書からミステリーまで器用にこなす。執筆速度はそれほど早くはないが、遅筆とまではいかず、現在文庫化も含めれば二千冊以上を出版していた。メグの勤めるソウガーズからも百冊以上出している。そして、ソウガーズの担当はジムだった。
ここ何十年か、毎年恒例となった魔女(カサンドラ)の宴は、彼女が印税で【禁猟区】へ建てた館に編集者を数人招いて行うもので、最近シリーズ物をすべて完結させたカサンドラが、新しい連載を始めるのではないかとささやかれていた。もしそうなら是非自分の会社でと思うのが当然で、メグもジムから頼むと言われている。今回招待を受けたのが、メグ以外に三人。シンツア・カンパニーの編集者バート・ケンブル。カドケル・ブックの編集者チャールズ・タンディ。そしてコーネル・ライブラリーの編集者アーサー・クルーズ。どこもミステリー枠を抱える出版社であり担当だった。メグのソウガーズも推理物を得意としている。
魔女の館は人が越えることのできない危険な山脈を背にし、南へ六時間車を走らせなければ街へたどり着けない森深くに建っている。なぜそんな不便な場所を選んだのかは語られていない。人が読む小説を書き続けるために、人へ近づくためにそうしているのだと誰かが言っていた。
館が見えてから三十分ほどで館の周りをぐるりと巡る堀を渡り、正面玄関へ着く。今回は一週間ほど滞在できるようにと招待状をもらっており、大きな荷物を抱えて降り立つと、彼女たちを乗せてきたバスは建物の西の方へと去っていった。
代わりに、玄関が大きく開け放たれ、いかにもやり手の執事といった風の老人が現れる。服装からして理想の執事だ。幼い頃、彼のようなじいやにお嬢様と呼ばれるのが夢だったのは内緒だ。後ろには年のいった五十代くらいのメイドと、メグよりも若そうな笑顔のメイドがいた。
「お待ちしておりました、クルーズ様、タンディ様、ケンブル様」
一人一人へ深く礼をしながら執事が述べる。その際頭のてっぺんが見えたが、銀色に染まった髪は数を少なくすることなく彼の口ひげとともに健在だった。声も低く落ち着いて似合いすぎで反対に怖いくらいだった。いったいいくつなのだろう? 黒い瞳が優しい色をしている。
「ミトラ様。お初にお目に掛かります。この館を取り仕切っておりますヴィクター・キャロウと申します。以後お見知りおきを。ヴィクターとお呼びください」
「よ、よろしくお願いします」
招待客ではあるが、どちらかというとカサンドラに原稿をもらう身としては、ここまで丁寧なもてなしにどぎまぎしてしまう。
戸惑いを隠すようにメグは館に目を向ける。遠くから見たとおりの赤い煉瓦で作られた二階建ての館だ。築百年以上という割りには、手入れが良いのだろう。古びた様子はなく古い建物にありがちなくすんだ感じはしない。それどころか、細かく意匠を凝らしたレリーフが、壁のあちこちに埋め込まれていて芸術的価値も高そうだ。
左右対称に作られているわけではなく、左手の奥には少しだけ飛び出して塔が作られていた。あれが事前に聞いている、カサンドラの執筆部屋がある西の塔なのだろう。屋敷は凹の形をしており、中央のへこんでいる部分にかなり凝った中庭があるらしい。先ほどのバスを運転していたのが庭師のサイモンで、彼の腕はすばらしいとアーサーが褒めちぎっていた。見せてもらう約束をしており、今から楽しみだ。
「まずお部屋にご案内いたしましょう。カサンドラ様は夕食の時に皆様とお会いになります」
そう言ってバートたちの荷物を持とうとする執事を、彼らは笑って止めた。
「いつもの部屋でしょう? 勝手にさせてもらいます」
「それではお部屋にお茶をお持ちいたしましょうか?」
「私は結構です。夕食まで寝ようと思ってます。少し回復させないと」
青い顔のままのアーサーが言うと、チャールズも同じようにうなずく。
「僕も薬を飲んでいても少し酔ってしまったので」
「じゃあ俺はいただこうかな。ヴィクターさんおすすめのブレンドで」
了解いたしましたと、執事が頭を下げ、年取ったメイドが軽く礼をして下がる。恰幅のよい彼女の後ろ姿が、メグの実家の隣に住んでいた小母さんを彷彿とさせる。くすんだ金髪を後ろでくくっているのもそっくりだ。五人の子どもの躾に追われ、いつも怒鳴っていた。でも、本当は優しく子どもたちを愛しているのをみんなが知っている。小母さんの特製クリームシチューをたまにもらうことがあった。あの味は何年経っても真似できないと母親が言っていた。
「イライザ、ミトラ様をお部屋にご案内するように」
残った若いメイドにそう言うと、彼女も軽く礼をしてメグの大きな鞄に手を伸ばす。
「あ、いいです。自分で運べますから」
「そうおっしゃらずに。こちらです」
細い腕に似合わぬ力でメグの荷物を奪い取り、先に立って歩き出した。メグが慌てて追いかけると、他の三人も中へと移動する。
大きな扉には、獅子のノッカーがあり、メグの中のお金持ちの基準を軽くクリアする。玄関ホールの左右には騎士の像。正面はガラス張りになっていて、中庭が広がっていた。日の光が入りにくい屋敷の中も、そのおかげで驚くほど明るい。
イライザはメグより少し背が高いくらいだった。けれど、驚くほど姿勢が良い。そのせいで自分とはかなりの差があるように思える。
右手に折れると、後ろの三人は階段を上がって二階へ行く。
「ミトラ様は一階奥のお部屋になります。今は一階の客室をお使いになるのはミトラ様だけですので、ご安心ください」
何を安心するのだろう? ピンとこなくて、首を傾げる。
「お部屋にバスもトイレもございますし。彼らと鉢合わせすることもありません」
そこまで言われて、彼女の言わんとすることにようやく思い至った。けれど、男女のなにやらを心配してくれるのなら、余計なお世話という以前の問題だ。ここに来るまでのバスの中で、三人からのメグの位置づけは完全に妹になっていた。どうも二十代後半から三十代半ばの異性からはそういった目でしか見られない。もう少し上の年代は子ども、その先にいくと孫だ。誰でもそうなので、きっと自分の態度に問題があるのだ。今も気付くまでに時間が空いた。ここら辺が原因なのだろう。
突き当たりの扉を開けてメグを中へ誘うと、イライザは荷物をベッドサイドへ置く。
ベッドにテーブルといったシンプルな作りだが、中庭に面した壁が全面ガラス張りになっていた。今はカーテンも横へまとめられて、外からの光がさんさんと部屋へ注ぎ込んでいる。
「こちらの部屋にはユニットバスがございます。どうぞお使いください。タオルなどのリネン類はこちらにございますが、他に必要な物があればどうぞお申し付けください。呼び鈴を鳴らしていただければすぐに参ります。……お茶はいかがですか?」
バスの中で珈琲をもらったので喉はさほど渇いていない。
「もしよろしければそちらのテーブルにご用意しましょうか?」
彼女がそちらといって指したのは、ガラス張りのドアの外。白いテーブルが準備されている。
いらないと言いかけた口が止まる。
「お願いします」
「すぐ準備いたしますね」
弾んだメグの言葉に、彼女もにっこり笑って部屋を出て行く。彼女の後ろ姿が扉の向こうへ消えると、窓の外へ目を向けた。
良い天気の下、きれいに造られた庭を見ながらの午後のお茶は格別だろう。
すぐというのは本当で、メグが部屋から出て席につくと部屋には来ず、庭伝いに外からティーセットを携えてやってきた。
「二時間後にはお夕食ですから、少しだけですが」
といって、小さなクッキーを二つメグの前に並べる。
「食堂は庭をはさんでちょうどこの向かいあたりです。玄関ホールをさっきとは逆の方向へ歩いて行くとございます。また夕食の時間になりましたらお迎えにあがりますが、それまではどうぞご自由になさってください。ただ、二階の西側はカサンドラ様のお部屋になりますので、ご遠慮ください。二階に上がったところに談話スペースがございますので、他のお三方もお暇なときはよくそこにいらっしゃいますよ」
「ありがとうございます」
イライザは小さく礼をして再び元来た道を戻って行った。
彼女が準備してくれた紅茶を一口飲む。良い香りに胸が満たされる。
暇ならと言ってくれていたが、暇を感じることはなさそうだ。庭は、生け垣で迷路仕立てになっているようで、これを飲み終わったらゆっくり探検してみよう。こうやって遠目に見ているだけで、楽しい。トピアリーがいくつもあり、本当に力を入れて庭を造っているんだなとわかった。
祖父が同じように庭に命をかけていた人だったので、心のこもった風景を見ると浮き浮きしてくる。
と、目の端に何かが映った。
なんだろうと、カップを置いて左右を見渡す。だが、特に不審なものは見あたらない。おかしいなと再びカップへ指を近づけたところで、また見えた。
今度はばっちり目が合う。
それはメグの背よりも上にあった。
このテラスは庭に付きだしている形になっていている。二階の部屋はこの部分がベランダで、つまりメグから見たら屋根ができているようなものだ。一階よりも幅はせまいようだが、そのおかげでテーブルの真上は雨露をしのげる。
そこから、顔が飛び出している。
年は五つくらいだろうか? 濃い、褐色の肌にくるくるとした丸い金色の瞳。同じく金色の巻き毛が、今は重力のおかげで逆さまになっている。
思わず立ち上がって下へ行く。
「危ないよ?」
小さい身体が、バルコニーの柵の隙間から身を乗り出しているのだ。
「落ちちゃうよ?」
まったく動じず、少女はそのまま両手を伸ばした。
「ちょっと! だめよ」
慌ててメグも手を伸ばす。
だが、残念なことに身長百五十センチメートルほどしかないメグは、両腕を伸ばしても彼女に届くことはない。
それでも、少女はずるりとそのまま真っ逆さまに落ちてきた。
「だめだめ、だめだってば!」
なんとかその逆さの向きのまま受け止め、抱きかかえると、それ以上ずり落ちないようにその場に座り込む。
「もおおおお、危ないって」
少女を床へごろんと放り出すと、メグは大きくため息をついた。心臓がばくばくと音を立てる。だが、金色の巻き毛の少女はそんな彼女の様子を首を傾げたままじっとみつめる。百センチメートルもない少女は、黄緑色の、巻き毛と同じようなふわふわしたワンピースを着ていた。だが、バルコニーの柵でこすったか、ところどころ黒く汚れてしまっていた。メグもいつまでも座り込んでいるわけにはいかず、立ち上がると彼女の前にしゃがんだ。
「もう、危ないでしょ。だめよ? あーゆうことしちゃ」
めっ! と彼女のちょこんと上を向いた鼻を、人差し指でつまむ。
すると両目をぎゅっと閉じて、口の両端を少しだけつり上げる。笑っているのだ。
自分がどれだけ危険なことをしたのかわかっていないのだろう。
「もー、保護者はどこよ」
と、考えるまでもなくこの真上にいるのだろう。上に届けに行った方がいいかもしれない。
だが、こちらの心配をよそに当の本人はテラスのテーブルに興味をしめし、二つある椅子の一つによじ登ろうとしてる。
「なに? 座るの?」
突然の珍客だが、メグはもともと子どもが好きだ。こんな可愛い子ならなおさらだった。少し無表情で、ずっと声を上げないのが気になるが、そういった性格なのかもしれない。
「まあ、いいか」
子どもがバルコニーに出るのを放っておくような親だ。少しぐらい心配するといい。
少女の両脇に手を入れ、椅子に座らせる。が、彼女には少し高さが足りないようで、そのまま机の上に座ることになった。まあ、転げ落ちなければテーブルは広いので問題はない。少々行儀が悪いが、誰も見ていないから許されるだろう。
「食べるなら食べていいよ」
クッキーをじっと見たまま固まっているので勧めると、待ってましたとばかりに手を伸ばす。この年で許可が下りるまで手を出さないという自制心があるのは、なかなか素晴らしいことだ。ティーカップは一つしかなかったので、自分の飲みかけでいいならと言うと、頷いて飲み干した。よっぽどおなかが空いていたのかもしれない。
「お名前は? 私はね、マーガレット・ミトラ。……ねえ、聞いてる?」
両手でクッキーを持って口をもぐもぐとさせている少女の頬をつつくと、彼女は何度もうんうんと頷いた。
今はお口が忙しいようだ。
「あなたの親もカサンドラに招待されてきたのかな? 写真では見たことあるんだけど、私初めて会うの。ねえ、どんな方? 優しい? それとも、怖い? バスで聞いた感じだと、ちょっと気まぐれで、でも悪い人じゃないって話だったんだけどな」
世間の魔法使いのイメージは、人間離れした感覚を持ち、人を人と思わない態度で怒らせると大変な目に遭う。もともと人に関わろうとしないが故に、何かで会うことがあればわがままで自分勝手だと言われている。
けれど、メグは、実はカサンドラの小説が大好きなのだ。
「私がね、編集者になろうとしたのは、もしかしたら生きているうちにカサンドラ本人に会えるかもしれないっていうすっごい不純というか、単純な動機だったの。ほら、この【禁猟区】を含めた一帯はカサンドラの持ち物で、彼女が許可した人間以外は入れないって言うじゃない? 【禁猟区】が終わるところにそういった魔法を施しているって。彼女は滅多に外に出ないし、入っていけるのは担当者だけ」
だから、運良く就職できて、運良くカサンドラの担当であるジムのいる部署に配属されたのは、もしかしたらと思った。
そして、さらに幸運が舞い込んだ。
夢にまで見た、魔女カサンドラの館。
「小さい頃から彼女の書く小説が大好きだったの。今まで出版されたもの、手に入るのは全部読んでいるし、全部持っているわ。おかげでうちの本棚はあふれかえってるけど」
少女の金色の瞳を眺めながら、メグは笑う。
「本当に嬉しい。憧れの人なのよ」
両腕を枕にして、テーブルの上に伏せるメグに、少女は少し眉を寄せる。
「ん? クッキー足りない? だめよ、もうすぐ夕飯なんでしょ。あ、一緒に食べるのかなぁ?」
それなら汚れた服を着替えなければならないだろう。そろそろ保護者も彼女を捜し出す頃かも知れない。
二階へ彼女を連れて行くかと頭を持ち上げる。
と、メグのおでこに少女のちいさなふくふくとした手のひらが当たった。
「どうしたの?」
尋ねるが、その動作をやめない。どうやら、なでているらしい。自分は何か慰められるようなことを言っただろうか? 彼女の行為がいまいちわからず、とにかくありがとうと言っておく。
そこへ、切羽詰まった男性の声が聞こえた。
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