一章 小説家カサンドラ1
浅い眠りの中で、何度か呼ばれたような気がした。
誰の声だったのか、よく覚えていない。知人のそれに聞こえたり、まったく知らない相手のものに聞こえたり。
ただ、悲しみを帯びた呼びかけに、私は吸い寄せられた。
吸い寄せ、たぐり寄せられて近づくと、自分の身体がゆっくりと重さを増していくのがわかった。
ああ、覚めてしまう。
目が覚めてしまう。
あと少しで近づけるのに。
手を伸ばそうとして、それがなかなかに難しい行為だと知る。重たくて、持ち上げることのできない指先。
最後の浮上。
――目の前に飛び込む、タレ目。
「っ!」
驚きの小さな叫びを飲み込む間に、その青いタレ目はすっと身を引き離れていった。
「メーグちゃん……やあ、起きた? もうすぐ着くよ」
にこやかに笑うと、彼は口の端を人差し指で叩く。
初めは何を意味するのかわからなかったが、思い当たって自分の横に置いたカバンからハンカチを取り出す。恥ずかしさに顔を赤くしながらよだれの跡をぬぐう。幸い洋服にまでは浸食していなかった。一緒に出した鏡を見て、自分の姿を確認する。鼻の頭に散らばる高校時代からのそばかすはいつも通りとして、栗色の髪の毛が乱れに乱れていた。これじゃあ今年で二十二なんて信じてもらえない。まあ、幼い顔立ちのせいで普段から五つは若く見られるがこれでもしっかり大学を出ているのだ。
それにしても、いったいどんな寝方をしたらこんな髪になるのだろう。ショートボブははねるとやっかいだが、手櫛でなんとか元通りに直す。ついでに、洋服のしわもチェックした。ベージュのシャツにチャコールブラウンのニッカボッカー。長時間バスに乗ると聞いたのでこのスタイルを選んだ。黒のショートブーツに押し込まれた足が、むくんでいてちょっと辛い。
「長旅だったからね、呆れるほどよく寝てた」
最後に大きく体を揺すって笑うと、彼――バート・ケンブルは自分の席へと戻っていった。体格のいい彼が腹の底から笑うと、空気がびりびりと震える気がする。短く刈り込んだ茶色の髪が座席の上にひょっこりとはみ出している。彼は規格外に体がでかい。バスの椅子が窮屈そうでバートの周りにあるものはみんな小さく見えた。本来ならメグが近寄ることを警戒せねばならない人だ。こちらの幼さが強調されてしまう。
通路をはさんで向こうに座るチャールズ・タンディが紙コップに入った珈琲を差し出した。
「メグさん、飲むかい? 水分補給に」
よだれで流した分とまでは言わないが、意図するところは明らかだ。
少し口をとがらせて、ありがたく受け取った。茶髪に茶色の瞳の彼は、見かけはどこか冷たく陰のある感じなのだが、実際は良く気が利く人だ。髪が全体的に少し長めなのが、彼の顔に影を作って暗く見えてしまうのだろう。せっかく同行者三人の中でも一番見目が良いというのに、もったいない。背格好も体格も、標準的で実はメグの好みのタイプだ。並んでも良い感じの身長差というのが大事なポイントだった。
熱すぎず、それでいて冷めていない。ちょうど良い温度の珈琲を口に含むと、窓から見える深い森へと視線を走らせた。
どこまでも続く長く細い道は、小さなバスが一台通るのがやっとの広さしかない。その代わり、きっちり道路として舗装されている。そうしておかないと、普段行き来のないこの一本道は、二ヶ月もしないうちに森に飲み込まれてしまうそうだ。
真っ直ぐどこまでも続く道を、時速百五十キロのスピードですでに六時間走り続けている。最初ははらはらしたが、考えてみればこの森から急に人が飛び出してくるわけもなく、また、普段から住み着いているウサギやタヌキ、シカといった動物たちは道の向こうから聞こえてくる音の正体を熟知しており、そのときばかりは道から離れじっと過ぎ去るのを待つ。
反対に、アクセル全開で走り続けなければいつまで経っても目的地へたどり着けないのだろう。つくづく不便な場所にあるなとため息をついた。
「ミトラくん、ほら、見えてきたよ」
青い顔をした三人目の同行者アーサー・クルーズが顔を覗かせる。黒縁の眼鏡の奥に疲労が滲み出ていた。黒髪をきれいになでつけ普段ならスーツにまったく隙がないだろう彼は、三十分も走らないうちに乗り物酔いでダウンしてしまった。メグは乗り物には強くて、本当によかったとつくづく思う。ひょろりと背が高く色白で、普段から栄養のある食事を摂っているのか少し心配になる風貌だ。
彼の示す先には、こんもりとした森の中に突如として現れた人工物があった。
自然とメグは立ち上がり、通路をふらふらと前へ進む。バートのにやにやとした表情を目の端にとらえながらも、感無量といった感じで胸の前に手を組んだ。
赤い煉瓦を積み上げた森の中の大きな建物は、魔女(カサンドラ)の館と呼ばれる。
その名の通り、魔法使いカサンドラの住まいだ。
魔法使いが魔法を使えないこの【禁猟区】に、百年以上も前、大変な苦労をして建造したと聞いている。
今回の目的地であり、憧れの地である魔女の館。
メグは幸福感に酔いしれ、息を大きく吸い込んだ。
幸運の始まりは、他人の不幸だった。
良い悪いは、よっぽどバランス感覚に優れているらしい。
原稿をいただきに伺う途中、居眠り運転に巻き込まれたメグの先輩ジム・ローチは、全治三ヶ月の複雑骨折で入院した。
これでもかなり運の良い方だ。目撃者によると、こりゃ死んだなと誰もが思う惨状だったらしい。瓦礫の下からヘルプヘルプと力強い声が聞こえたときは、何かの悪い冗談だと思ったそうだ。後から現場の写真を見せてもらったが、目の前でベッドに縛り付けられている人物が、この下に埋もれていたというのが嘘みたいだ。
「鍛え方が違う」
「どんな鍛え方をしたんですか。もう、私が一緒に行ってたらこんなことにはならなかったかもしれないのに。先輩抜け駆けして先に行っちゃうからですよ」
お見舞いに持って来たフルーツを窓際に置くと、代わりに置いてあったお土産のクッキーをつまんだ。
顔色は悪くない。内臓に損傷がほとんど見られなかったからだろう。濃い茶色の髪に白い包帯が痛々しいが、頭を打ったのではなく切った傷で、脳に問題はないそうだ。いつも明るい緑色の瞳が健在だったので、メグもほっとする。
顎や腹に付いたお肉に守ってもらったんだと指摘したい衝動にかられるが、怪我人に追い打ちをかけるのは可哀想なのでやめた。病院生活で痩せればいいのにと思うが、花より食べ物が多い見舞い品では無理かもしれない。メグにできることは少しでもそれを減らして行くことだ。
「出せばベストセラーなくせに、書けない書けないで三年すっぽかされていた先生が、できたから取りに来てくれと言いだしたら、未だ俺の後を追いかけるしか能のない後輩の存在なんて忘れちまうのも無理ないだろう?」
「その先輩の後ろを追いかけるしか能のなかった私が、今は先輩の穴を埋めようと必死に頑張っているのに。あんまりです」
よよよと泣き崩れてみるが、その先にあるのは固いギブスに覆われた、天井から吊されている足だ。同僚たちに書いて来いと言われている恥ずかしい言葉リストを嬉々として取り出す。ジムは、待て! と泡を食って止めるが、身動き取れない人間の言葉の暴力など何も怖くない。
実際、有能な編集者であったジムが抜けたせいで、それぞれの負担が増えていた。それに対して文句を言うこともなく、皆、彼の復帰を待っているのだから、これくらいは許されるだろう。本当は自分たちで見舞いに来たいのだがその時間すらない。一番戦力にならない新人のメグが、この大役を仰せつかったのも自然な流れだ。
ああ、とか、うう、とか手の届かないもどかしさを様々な言葉で言い表すジムを尻目に、全体的な配置や色遣い、トータルコーディネイトを心がけて託されたコメントを余すことなく書き上げた。
最後にソウガーズと社名も添えておく。
「おまえ、容赦ないな」
ちらりと覗きに来た白衣の天使がくすくすと笑っていた。
マジックをカバンにしまうと、それではと言って立ち上がる。実際、使いっ走りしかできないメグではあるが、それでも仕事は山ほどあった。想像していたよりもジムがずっと元気そうだったということもあり、あまり油を売ってはいられない。
「あー、待て待て」
帰ろうとするメグを、ジムが手招きし、棚に置いてある鞄を指さした。事故当時持っていたものらしく、かなりずたぼろになっている。鞄としてはもう機能しないが、戦友感覚で取ってあるのだろう。崩壊を起こさないよう細心の注意を払って渡すと、ジムはその中を漁って封筒を一通差し出した。ジム宛てのものだった。
「こんなになってはさすがに行けない。課長にも許可は取ってあるから、お前が行って来い」
突然のことに眉をひそめながらメグは封筒の中味を広げる。
「お前も噂には聞いてるだろう? 『魔女の宴』だ」
途中から、ジムの言葉が耳に届くことはなかった。メグは驚きが胸に広がるのを感じる。
「魔女の宴といっても、別段怪しい集まりなわけじゃない。カサンドラが毎年懇意にしている出版社の担当を呼んで、食事と軽い世間話、今後の予定なんかをあくまで彼女から話があるだけだ。今年はうちの他に三社、呼び出しがあって、俺がよく知る奴らだから連絡は入れておく……って、聞いてるのか? メグ! マーガレット・ミトラ?」
招待状を持って震えるメグの様子を不審に思ったジムが、おい、と彼女に手を伸ばす。その瞬間、メグは両手を振り上げて喜びを表した。腕が何かに当たったがそんなことはどうでもいい。
「やったーっ!」
あまりのはしゃぎように何事かと看護婦たちが駆けてくる。五分後、病院ではお静かにと、追い出されたメグの姿があった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます