第7話 3大翁、ここに集結
762号室はi翁しか居なかったところに私が入り、その後”s翁”と”o翁”が入ってきた。この2人の翁もi翁同様、カーテンの向こうの音だけの存在である。私が小学生の頃、扁桃腺の手術をした時は仕切りのカーテンもなく同部屋の子と友達になったりしたが、このご時勢ではプライベートだの個人情報だのと人と人の繋がりをどこで線引きしていいものかわからなくなってきている。昭和40年代、隣のおばちゃんの家に上がりこんでお菓子を貰ったりした頃はもう帰ってこない。
話は2人の翁に戻るがs翁はどうやら隣の県から救急車で転院してきたらしい。なんでも前の病院が検査してもちっとも結果を出さず、痺れを切らしてこっちに移ってきたような話が聞こえてくる。自分の娘さんが身の回りの世話をしてくれているようで娘さんはとても可愛らしい声をしているが、やはり音のみの存在。転院が急だったのか必要なものがまだ準備できておらず、看護師さんから説明を貰っていた。娘さんが必要なものを用意するために一旦外出すると、s翁と看護師さんのなにやら噛み合わないやり取りが始まった。どうやらs翁は耳が遠いらしい。実に不思議なのだが、娘さんの囁くような声は聞こえているのにどうして看護師さんの大きな声は聞こえないのだろう。(便宜上、”選択式聴力”と命名する。)
s翁はパジャマは各自で用意して病院では貸し出していないことを理解できていなかった。そしてやけに病院のパジャマに固執していた。戻ってきた娘さんから同じことを言われても理解し切れていないようなので選択的聴力だけが問題じゃない。
そしてs翁は手術当日、腸内をきれいにするために術前の浣腸をしていた。看護師さんからは我慢しなくてもいいですから、早めにトイレに行ってくださいねと言われていたが、選択式聴力が機能してしまったか一向に動く気配がない。大丈夫か?
数分後、ようやくこっちも忘れかけた頃にゴソゴソ動き始めた。するとその直後に『ぶびぃ』と残念な音が響いた。s翁はぶびぶび鳴らしながらトイレに向かっていったが時既に遅しだった。その結果、s翁は本来貸し出しされないはずの病院のパジャマを入手した。
もう一人のo翁はs翁の選択式聴力とは異なる”空想式自動連想聴力”の持ち主で、家族との会話も噛み合っていなかった。薬剤師さんが薬に関する確認をするためにo翁のベッドを訪れた時のこと、
薬「今、何かお薬は使用していますか?」
翁「あんた達、若い人がこういう命を預かる仕事を・・(中略)・・本当にありがたい。」
薬「今までにアレルギーなどを起こしたお薬はありますか?」
翁「俺は昔、組合の役員をやってな・・(中略)・・ズボンを見ればそいつの仕事ぶりがわかるんだ。・・(後略)」
薬「何かお薬で聞きたいことはありませんか?」
翁「(前略)・・(中略)・・(後略)」
薬「わかりました。お大事になさってくださいね。」
翁「昨日、3番目の娘が見舞いに来てくれてな、女の子の孫が2人おってな・・(田各)」
薬「すいません、次の仕事があるのでもう行きますね。」=3
薬剤師さんは薬に関して3つの確認がしたかっただけだった。薬剤師さんが一瞬の隙をついて脱出した時、私はカーテンの向こうで小さな拍手を送っていた。所要時間20分の出来事であった。
こんなことを書いていると高齢者を馬鹿にしているのかお叱りを受けるかもしれないが、これが病院の現実であり実態である。病院に入院してくる高齢者は直接入院することになった病気以外にも違う病気や障害を持っている。しかし今この日本を築き、我々が生活していけるのも高齢者である敬うべき諸先輩方の努力のおかげである。
そしてそれを支える医師、看護師、薬剤師の方々がいることを忘れてはならない。
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