第6話 カーテンの向こうの翁
7階の窓から外を見ている。冬空と小高い山の木々の輪郭線はすっかりぼやけて黒一色になりつつある。病室に入ってからもう4時間経った。私の右手首には名前とバーコードが記されているリングが付けられている。患者の取り違え防止のために検査、投薬の時に必ずバーコードを読み取らせてから実施するシステムになっている。このリングがこの病院に来て患者なった瞬間の象徴でもあった。
ここへは自分の運転で来た。いつも走り慣れている道も長く感じ、赤信号につかまる度にホッとしたりする自分がいた。その度に”戦う勇気もまたお前の中にある”とつぶやく様に歌いながらアクセルを踏んだ。
私の戦いのための控え室は一番奥の762号室、4人部屋の窓際だった。明日の手術に必要なものを並べ、病院生活に必要なものはロッカーや引き出しに入れた。
762号室には私の他に”iさん”(以下
主治医の先生から今日は明日に備えてゆっくり休んで下さいと言われ、明日の8時にはシャワーを浴び、8時半にはレントゲンを自主的に済ませておかなくてはならないので、22時の消灯時間にはベッドに入った。しかし予想どおりというかなかなか寝付けない。神経が高ぶっているのはわかるのだが、挨拶以降、カーテンの向こうで音だけの存在となったi翁はやたら屁をこく。それも小刻みに。「日本男児たるもの、堂々と屁をこけ」と言いそうな風貌だが屁は控えめだった。
時間はどれくらい過ぎたのだろうか。一向に眠れそうもない自分に焦りを感じ始めた時、i翁のイビキに異変が起こった。
*「ずぅ~~ ずぅ~~ ・・・(静寂)・・・ ぐひゃぁ ぷぅ~~」
(i翁、睡眠時無呼吸症候群だ!)
息が止まっている時間は30秒から1分、それ以上に発生する頻度が高い。私は自分の手術の心配、そして8時半までにはすべてを完了させるため寝坊はできない心配よりも、i翁の呼吸が止まることが心配になって頭の中で無呼吸状態の時間を測定したり、いざという時はナースコールのボタンを押す状態にあった。
その時点から私は”監察医”ならぬ”観察医”に転職した。それもいきなり夜勤。
そしてほとんど一睡もすることなく、窓の外は木々の輪郭線がふたたびシルエットとなり蘇っていた。8時のシャワーも寝坊することなく(そもそも寝ていないので寝坊しようがないだが)、手術当日の火蓋が切って落とされた。
この病院は歩行訓練の患者のリハビリも出来るようにか、病室がぐるりと囲んで廊下は周回コースになっているため、現在地が把握しにくい。そのためシャワー室がどの一角にあったかわからなくなり彷徨っていると、廊下の向こうからi翁がやってきた。朝の館内散歩なのだろうか。バスタオルを抱えてうろうろしている私を一瞥すると、無言のまま左を水平に挙げその指先はシャワー室を指していた。お礼を言ってi翁の傍らを通り過ぎる時、微かに屁の臭いがした。
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