第4話
その時食べたパンは、びっくりするほどおいしかった。
クロワッサンだろうか。サクサクの三日月の形の生地は、一口かじるだけで濃いバターの香りが口いっぱいに広がって__わたしでは語彙力が足りないため説明しきれないが、ともかくこれがクロワッサンだというなら今までわたしが食べてきたクロワッサンとはなんだったのだろうと思わせるくらいおいしかった。
そして、あらかじめ用意されていたであろう洗濯された制服に着替えると、まるでわたしだけがこの薄暗い屋敷から切り離されて、独立した形を保っているのではないかという錯覚にさえ陥る。
扉を開けると、等間隔に台座が並んでいて、その上に昨日みた花と蝋燭が並んでいる。
すごく高そうな花瓶だ。これ、わたしのお小遣い何か月分するんだろうと下世話な考えを浮かばせる。
「…………あ」
思い出した。
この花、確か前に佳恋が「高かったけど買っちゃった! 花言葉は【輝くばかりの美しさ】だってぇ!」とそれに似た花を見せてきた覚えがある。
じぃっと見つめていると、大きな星型の、鮮やかな赤色の花は、惑星か何かを切り取って作ったんじゃないかという考えさえでてくる。
そしてそのあと、たしかわたしは、「【××××××】って意味もあるけどね」と言って、「何よ! 絶交するわよ!」といわれたような覚えがある。ちなみに、多分佳恋はきっとその事はすっかり忘れているであろう。
でもなぜだろう。わたしの言った言葉がはっきり思い出せない。それに、この花の名前も。
高校一年生にして早くもボの始まりか。そう思ったが違った。明確に思い出せないと思ったのは、思い出せない部分だけが、ノイズのかかったようにわからないからだ。
首を傾げた。
そして、嫌な考えを取り払うようにあたりを見回す。
そして、赤い表紙の本がある事に気が付いた。
勝手に見るのは不謹慎だろうか。でも好奇心に勝てるはずもなく、ゆっくりと表紙を開いた。
そして、息をのんだ。
「____千幸さま?」
扉の外から声が聞こえて、はっと我に返る。
「はぁい」とだけ返事して、あの本の中身は見なかった事にする。
わたしは、何も見ていない。
そう思うと、記憶の中から溶け出すように、嫌な記憶だけがすっと消えていく。
その感覚に安堵するとともに、どこか恐れている自分がいた。
「____ねぇ、どうして?」
声が聞こえる。
間違いなく、それはわたしのものだった。でも、どこか見たことも聞いたこともない他人のような___おかしな感覚。
声は続ける。
「_____逃げ出したら、いいのに」
__わたしも、逃げ出したかった。
でも、佳恋の赤い瞳が、異常な姿が、脳裏に掠めるたびに、この館の中という安息の地を離れたくなくなるのだ。
でも、今日はさすがに帰らなければならないよ?
お父さんもお母さんも心配してるのに。
いつまでもここにいるわけできない。お金を持ってるわけでもないのだ。
「________だって」
だって? わたしは、どう思っているの?
ねぇ、どうして?
わたしだって、何を考えているのかわからない。
でも、一つだけわかるんだ。
__怖いって。
「__________知ってるんでしょ?」
ざぁっと耳鳴りがした。
朝からなんて嫌な思いするんだ。
きぃ、と若干の音を立てて扉が開き、来訪者を告げる。
相変わらず綺麗だ。うっとりするぐらいに。
「お姉さまを殺した犯人を捜しましょう」
壊れたレコードみたいに繰り返した。
「___ねぇ」
「大丈夫ですよ。確実に。___あそこに日記を置いたのは正解でしたねぇ」
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