第3話

 スマートフォンを耳に当て、イーノック=トンプソンは口を開く。


「どうやら始まったみたいだ」


 イーノックの言葉はスマホを通じて相手に届く。


『そう』と相手は言った。女性の声だ。


「もう少し喜んだらどうだ。俺は君のために手回しをしてあげたんだ」


『とても喜ばしいよ。これで七人が揃うのだから。というより、あなたは私のためと言うよりも、面白いからやっているだけでしょう?』


「まあ、そうなのだけど」


『そういえば』と電話越しの相手は言う。『うちのが迷惑をかけたね』


「ん? ああ、俺のことをアド・アボレンダムに売ったことを言っているのか? それなら仕方のないことだ。あの状況なら俺の名前を出すほかなかっただろうしね。それにアド・アボレンダムなら今さっき潰したところだよ」


『うわー、それは可哀想だ。あなたにやられてしまうだなんて』


「まったく哀れだよ。俺に刃を向けるなど、祓魔師のすることではない」


 イーノックの足元にはアド・アボレンダムのジルベール=ギーが転がっている。イーノックは倒れているジルベールを足で弄びながら言う。


「だいたいこいつら俺の正体を知ってなおも襲いかかってきたんだぞ。まったく失礼な奴らだ」


『そうなの。祓魔師も結構バカなのね。――天使と知りつつあなたに刃を向けるなんて』


「そうなんだよ。俺は天使なのに、襲いかかってきてさ。そもそもの話、人間が天使に勝てるわけがない」


『まあ、あなたも天使のくせにわたしと話しているんだけど、大丈夫なの』


「悪いが俺は神様なんて見たことはない。そのくらいに下っ端の天使だからさ、好き勝手やっても誰も俺を咎めやしないさ。それに俺は俺のやっていることが悪だなんて思っていない」


『屁理屈もいいところだね』


「屁理屈だらけなんだよ、この世界は」


『違いない』


 さて、とイーノックのスマホのスピーカーからそんな声がする。


『あなたの目にはどんな光景が見えているのかな?』


 言われてイーノックは聖ジョージ教会の方を見る。


 そこには黒々とした霧が渦を巻いており、悪を体現したような光景が広がっている。


「とても禍々しいものが広がっている」


『それはさぞ素晴らしい光景なのでしょうね』


「そう思うのは君たち悪魔憑きだけだろ。まったくひどい。今すぐにでも浄化してあげたい」


『本当に? それ以前にあなたは面白がっているでしょう』


「まあ、確かに面白い。これほどまで愉快なことは初めてだ。まさか俺のような下っ端がこの目でかの悪魔をこの目に入れることになるとは」


『ああ、いいな。私も見たかったな。その光景。怒りを溜め込み、それが吐き出された瞬間を』


「怒り、か。今思えば、俺にアド・アボレンダムの拠点を探させたのもその下準備だったんだな」


『あら、わかってたの』


「ああ。別にわざわざアド・アボレンダムを経由させずとも、俺の手にかかれば祓魔師協会に攫われた灰ヶ峰椿姫の居場所なんてすぐにわかった。にも拘わらず、お前は彼らに俺を頼らせアド・アボレンダムの拠点を探させた。そもそもお前は知っていたんだ。アド・アボレンダムが悪魔憑きを利用して悪魔を見つけ出していたのを。それを彼ら、いや彼に見せつけることで怒りを溜め込ませた」


『怒りがキーになるのはわかっていたからね。怒りこそが彼の本当の力を奈落の底から引き出す術となる』


「アバドン、か。奈落の主と言われる悪魔で、その毒針に刺されれば死さえ許さぬ苦痛を与える。奈落の主であるアバドンは奈落を管理する鍵を持っており、そしてその奈落にサタンを閉じ込めた。それゆえにアバドンはサタンと同一視される。――つまり、アバドンの悪魔憑きとは同時にサタンの悪魔憑きである」


『そう。アバドンの力はサタンの表面的な力でしかない。奈落の主たるアバドンからサタンを引きずり出すには怒りが必要。七つの大罪において、サタンは怒りに対応する悪魔だからね』


「どうして君はそんなにも七人目を欲する」


『どうして? そんなの決まっているじゃない。《大罪セブン》っていうのは七つの大罪に対応した七人の悪魔憑きにより構成される組織。いつまでも六人で《大罪セブン》を名乗るのはダサいでしょ』


「ふん。今のところはそれで納得してあげよう」


 目の前では轟々と黒い霧が濁流のように渦巻いていた。イーノックからすればそれはとても禍々しいもので、見ていて気持ち悪いものであった。


 莫大な悪の力。


 これほどまでの力がいったい彼に制御できるのだろうか。


「しかしなあ、これほどまでに大きな力。彼に、黒瀬夜刀に扱えるかな?」


 イーノックがそんなことを言えば、電話相手の女性――甘木遊楽はこう言った。


『扱えるかどうかなんて問題ではないのよ。力に飲まれて死ななければ私はそれで構わない。彼がサタンであるとわかれば、それで私は彼を《大罪セブン》に組み込める』


 通話はそこで終了した。


 スマホを耳から離し、ディスプレイを見てみるとそこに通話時間が表示されていた。別に通話時間に興味はないので、イーノックはそこから目を離し、眼下に広がる景色を見た。目の前には聖ジョージ教会。黒い霧はいつまでも渦巻いている。


「まったく、この世界は面白い」

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