第41話『向こう側』
『ばらゆり』からの電話があってから小一時間くらい経ったとき、沙織さんが私の家に遊びにやってきた。今日の大学の講義は午前中だけだったらしい。
正体は誰なのか。そればかり考えていたので、昼食を禄に食べていなかったことを口にすると、沙織さんが家にある食材を使ってナポリタンを作ってくれた。ナポリタンを食べている私のことを、彼女は優しい笑みを浮かべながら静かに見ていた。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
「ふふっ、それは良かった」
そう言って、沙織さんは食べ終わったナポリタンの皿を洗い始める。
彼女の後ろ姿を観ていたら、もしお姉ちゃんがいたらこういう感じだったのかな、とふと思った。
「『ばらゆり』様の正体ばかり考えていたなんて、何かあったのかな?」
「え、ええとですね……」
沙織さんの後ろ姿に気が行ってしまったから、急に声をかけられてびっくりした。『ばらゆり』のことだったから尚更。
「『ばらゆり』から電話があったんですよ」
「えっ、『ばらゆり』様から!?」
皿洗い真っ最中にも関わらず、沙織さんは私の方に振り返る。その時の彼女の目は驚きのあまり見開いていたが、その瞳からは好奇心のようなものが感じられた。多分、『ばらゆり』が支えになっていた時期があったからだろう。
「『ばらゆり』様は男の子だったの、女の子だったの?」
「……分からないんです。加工している声だったので」
「そうなんだ……」
「SNSやメールという文字を通してのコミュニケーションだけだった『ばらゆり』にしては、電話なんて随分大胆だと思いました」
「そうね。私も『ばらゆり』様と電話をした、っていうメンバーは聞いたことはないかな」
「なるほど。そんな大胆なことをしていても、『ばらゆり』は自分の正体がばれないようにするためか、声の加工だけではなく喋り方も男性でも女性でも自然な感じにしていました」
「そういえば、『ばらゆり』様の性別はどっちなのかって話になったことはあったけれど、はっきりと男だ、女だっていう話は出たことがなかったわね」
「『ばらゆり』っていう名前だけだと、女性っぽい雰囲気もありますけれど」
「うん。私もそう思うけれど、今までの発言の中で、はっきりと性別が分かるのって全然なかったな」
「そうですか」
コミュニケーションの手段がどんなものであっても、自分のことが推測できないようにしようというポリシーでもあるのだろうか。それとも、正体を隠すならこのくらいのことをするのが普通なのかな。沙織さんの皿洗いの音を聞きながら、今一度考え始める。
「……そこまでしないと正体がばれちゃうからじゃないかなぁ」
沙織さんの呟きが、やけにすんなりと頭の中に入っていった。
「これまでの『ばらゆり』を考えるとこのくらいするのが、普通なんですかね」
「その可能性もありそうだけれど、私には違うと思うんだ。そのくらいしないと真央ちゃんに自分のことが分かっちゃう。きっと、『ばらゆり』様は真央ちゃんの知っている人なんじゃないかと思うよ」
「……通話が切れる直前に、ちょっと遠くから見守っている、と『ばらゆり』は言っていました。それを考えると、沙織さんの言うように『ばらゆり』は私の知っている人である確率がかなり高いと思います」
けれど、それはとてもショックなことで。親しくしてくれる人、話したことのある人……色々な人の顔を思い浮かべ、この中にこれまでのことを画策し、ホモ・ラブリンスのメンバーに命令したと思うと本当に切なくなる。
「本当に、どうしてこんなことをするんでしょうね。『ばらゆり』は私がホモ・ラブリンスのメンバーにさえなれば、これまでのようなことはしない、みたいなことを言ってくるんですけど。でも、メンバーにしたいだけじゃない気がする」
「真央ちゃんに対して何か個人的な理由があるのかも」
「私が知っている人が『ばらゆり』であれば、その可能性は高いと思います」
それに、一ヶ月くらい前まで、私は「暴力女」や「真男」として知られていたんだ。何かあるとすぐに暴力に走る女だったんだ。そんな私に対して恨みを持っている人間がいてもおかしくない。
――プルルッ。
私のスマートフォンが鳴る。
もしかしたら『ばらゆり』からの電話かもしれないと思って、すぐに発信者を確認するとその名前は――。
「ゆ、由貴……」
岡本由貴、だった。
今の私にとって、最も話したくない人物。ううん、話してはいけない人物だった。
「どうして出ないの? 岡本君ならすぐに――」
「……出なさい。これは先輩命令だよ。どうして出ようとしないのか、大体の想像が付くけれど、話さない方がきっと心残りになるって、今の真央ちゃんを見ているとそう思うの。だから、出なさい。今もなお、鳴り続けているってことは……それだけ岡本君が真央ちゃんと話をしたい証拠だと思うから」
由貴と距離ができてしまったことを沙織さんには話していなかったのに、沙織さんの言葉はまるで私のことを全て分かっているようなものだった。それは先輩だからだろうか。私のことが好きだからだろうか。色々な考えが頭の中で駆け巡る。
由貴に馬鹿って言われて、由貴と心の距離が広がってしまって。だから、由貴と話すことがとても怖く思えて。それなのに、由貴と話したい、由貴の声を聞きたいという気持ちも確かにあって。相反する気持ちがどうして、同時に存在してしまっているんだろう。とても苦しいよ。
「……はい、安藤ですが」
『……もしもし、真央』
電話に出ると、向こう側から由貴の声が聞こえた。そのことによって最初に抱いた気持ちは安心感だった。
『真央、体調とかはどう?』
「……大丈夫だよ。由貴は元気になった?」
『うん、体調が良くなって、学校に行ったよ。今、終礼が終わったんだ』
「そっか」
そして、暫くの間……無言になる。それでも、静かなわけではなくて、教室にいる多くの生徒の声が聞こえている。
『……昨日はごめんね、真央。馬鹿って言っちゃって』
しっかりと言う由貴の声は少し、震えていた。
「……気にしなくていいよ。私は色々と不器用で、馬鹿な人間なんだ。今みたいに謹慎処分を受けているのも、私が馬鹿だったから……なんだよ」
もっと冷静になっていれば。もっと周りのことが見られていれば。それは小さなことかもしれないけれど、由貴にごめんねと言わせずに済んだかもしれないと思うと、とても悔しかったのだ。
『……ねえ、真央。これから真央の家に行っていい? 真央に伝えたいことがあるんだ。とても大事なこと、なんだけど』
「それなら、私が由貴に会いに……」
『真央は謹慎中なんだよ。誰かに見つかったら、学校に行けるようになる日が先延ばしになっちゃうかもしれない。だから、僕が真央の家に行くよ。真央は待ってて』
そんなことを言う由貴はとても男らしくて、頼もしく思えた。声だけだと、それまでは見えない部分が見えるようになる気がする。
由貴の言葉に対する私の答えは決まっている。
「……うん、待ってるよ」
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