第5話『ほんのり』

 4月8日、水曜日。

 今日も由貴の周りにはたくさんのクラスメイトが集まっていて、こちらから話しかけられるような雰囲気ではない。

 でも、1つだけ……昨日とは違うことがあった。

 私の机の中に2つ折りの紙が入っていて、それには、


『放課後、円加川まどかがわの河川敷にあるベンチに来てくれるかな』


 という内容が手書きで書いてあったのだ。

 ――明日もゆっくりと話そうね。

 由貴はその約束を守るために、この紙を机の中に入れたんだ。昨日と同じように、学校では禄に話せないと見越したのか。それとも、ゆっくり話すなら学校の外で話したいと思っているのか。いずれにせよ、彼が私のことを考えてくれていることが凄く伝わってきてとても嬉しく思う。

 だから、学校で話せなくても昨日みたいな嫌な気持ちにはならなかった。教室に1人でいる時間は、いつもよりも心地よかった。ただ、当然……その代わりに、早く放課後になって欲しいという気持ちは膨れ上がったけれど。



 放課後。

 昨日と同じく、オリエンテーションだけだったので昼過ぎに終わった。

 机の中に入っていた紙に書いてあった通り、私は1人で学校の近くを流れている円加川の河川敷へと向かう。円加市の中心を流れる一級河川だけあって、芝生やベンチを設けてゆったりとできるスペースが設けられている。

 平日の昼過ぎということもあって、人は全然いない。そのおかげでベンチに座っている由貴のことをすぐに見つけることができた。

「由貴、お待たせ」

「……ううん、いいよ。ごめんね、こんなところまで呼び出しちゃって」

「気にしないで」

 由貴と2人きりで話せるならどこでも良かった。それに、むしろ学校だとあまり機会がないから、由貴の方から呼び出してくれることがとても嬉しかった。

 私は由貴の隣に座った。

 すぐ隣で彼のことを見てみると、制服でやっと彼が男子なのだと理解できる。ぱっと見ただけでは女の子にしか見えない。綺麗な黒髪だったり、チャーミングなくりっとした眼だったり。そんな彼の隣にいると、愛しい男の子と一緒にいるドキドキもそうだけれど、親しい女の子と一緒にいるときのワクワクとした気持ちも湧いていた。

「やっと真央とゆっくりお話ができる。昨日、ゆっくりと話そうって約束もしたし」

「由貴は真面目だな。まあ、約束を守ってくれたことは嬉しいけれど」

「……うん。それに、その約束をしたのは真央と話をしたかっただけじゃないんだ。これを渡したくて」

 すると、由貴はバッグから水色の袋を渡してきた。青いリボンで結んでいるところがまた可愛らしい。

「あの日に僕を助けてくれたお礼がしたくて、クッキーを作ってみたんだ。甘い物は大丈夫だったかな」

「うん、大丈夫。ありがとう」

 本当は甘いものがあまり得意じゃないけれど。でも、彼の作ってくれたクッキーだったらきっと好きになれる予感がした。ううん、確信している。

「一つ、食べてみてもいい?」

「もちろん」

 今の由貴の笑顔を見ながらであれば、絶対に美味しく食べられるはず。

 丁寧にリボンを解いて、袋の中からクッキーを一枚取り出す。その瞬間に香ばしさが加わったバターの匂いがしてきて、食欲がそそられる。

 ――さくっ。

 心地よい音とともに、ほんのりとした甘さが黒の中に広がる。

「美味しい。凄く美味しい」

 これなら、甘いものがあまり得意でない人でも美味しく食べられる。むしろ、これをきっかけに甘いものに興味を持ってしまいそうな。

「良かった。真央に喜んで貰えて」

 由貴はとても嬉しそうだった。私のことを想ってこのクッキーを作ってくれていたことが痛いほどに伝わる。

 私とは違う意味合いかもしれないけれど、あの日の出来事は由貴にとっても印象深いことだったんだ。私に色々な形で感謝の気持ちを伝えたいくらいに。

「私も由貴にお返しがしたいな……」

「そんなっ、いいよ。このクッキーだってあの日、僕を助けてくれたお礼なんだし」

「それでも、させて。これは私の我が儘でもあるんだ」

 こんなに素敵なプレゼントを貰っておいて、ありがとうの一言だけでは足りなすぎる。彼の願いや我が儘を叶えたいと思った。

「じゃ、じゃあ……一つだけいいかな。真央さえよければ、なんだけど」

「うん、言ってみて」

 由貴は頬を赤くしてちらちらと私のことを見ながら、


「明日から髪をストレートにして、メガネを外してくれる……かな」


 髪型変更とメガネ外しのご注文だった。まあ、ポニーテールの髪型も中学の陸上部での名残だし、メガネも黒板を見るためにかけているだけ。それ以外なら眼鏡を外していても特に支障はない。

 というか、ご注文は口づけですか? と、ほんの少しでも期待してしまった自分の顔を殴りたくなった。本当に何を考えているんだか。

「うん、分かった。明日からその通りにする」

 高校生になったばかりだし、気持ちを切り替える良い機会になるかもしれない。

「ありがとう。明日が楽しみだなぁ」

「別に今すぐにでもできるけれど。髪だって纏めているゴムを外せばいいだけだし」

「明日の楽しみにさせて」

「……はいはい」

 控え目で我が儘なんて言わなさそうな感じの子だと思っていたけれど、意外と自分の気持ちとか考えをしっかりと伝えてくると分かった。

「そうだ、あと1つだけ」

「うん。何かある?」

「……連絡先を交換したいな、って」

「そういえば、スマホの番号もメアドも教えてなかったね」

「うん。本当はあの日にでも交換したくらいで。でも、あの時は急いでいたからね。……あと、真央ってLINEとかやってる?」

「やってるやってる」

「じゃあ、LINEのアカウントも教えて」

 そして、私達は互いの連絡先を交換し合った。これで、何時でも由貴と話すことができると思うと嬉しくてたまらない。昨日と今日で由貴との距離が大分縮まった気がする。何だか夢を見ているような感じがして。

 ――これが本当に夢だったら、何時までも目を覚ましたくない。

 ――これが現実だったら、何時までも夢のような時間を送っていたい。

 そう思うほど、私は由貴のことが好きなんだ。

 由貴は私のことをどう思っているんだろう。あの日、自分を助けてくれた恩人? 運命的に再会できたクラスメイトの女の子? 考えれば考えるほど、由貴の気持ちのことがどんどんと気になってきて。

 ただ、1つだけ言えるのは、私と由貴の気持ちがほんの少しだけでも重なっていたら、とても嬉しいということ。

 そんなことを考えながら、私は由貴の作ってくれたクッキーをもう1枚だけ口にする。すっかりと、ほんのりとした甘さの虜になっていたのであった。

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