第二部「覚醒」 第六章「大忙し」

「鷲又課長、これ、精留プラントの現場事務所に届けて欲しいんですけどぉ。社内便に出し遅れちゃったんですぅ」

「よっしゃ、任しちょけ!」

「鷲又課長、お願いしまーす」

彼女が黄色い声を上げた時にはもう、彼ははるか先を走っていた。女の子に頼まれたら断れない性分だったし、考える前に身体が反応している。そして、その彼の反射神経たるやすこぶる付きで敏捷なのだ。本当に調子のいいやつだなあと自分でもあきれるが、鷲又自身どうしようもない第二の天性と観念している。

彼は事務所を出て、精留プラントへ向かう角を曲がったところで立ち止まり、あたりを見まわした。誰もいない。工場は殆ど自動化されているので、トラブルでもない限り路上を歩く人間はあまりいないのだ。

彼は再び走り始め、同時に両手を広げた。地面を蹴って大きくジャンプするとそのまま腕を大きく羽ばたかせた。次の瞬間、腕から長大な風切り羽根が伸びてくる。鋭い風が巻き起こり、鷲又はその風と一体化する。翼は、腕の動きに敏感に反応して彼の身体を一気に空中に持ち上げた。彼は一瞬にして巨大な鷲に姿を変え、空を飛んでいたのだ。

人間が鳥に姿を変える?

もし、その鳥をそばで見ていた人がいたとしたら、様子がおかしいことにすぐ気づくだろう。それは確かに、見るも見事な大鷲の姿であったが、なんとその鷲は作業服を着ていたのだ。

実は鷲又は急いで変身する場合は服を脱ぐのを省略する。つまり、服を付けたままの鷲が封筒を掴んで超低空でプラントの間を飛んでいることになる。この姿をこれ以上、どうコメントしていいものやら……。

鷲又課長は某化学会社で特許関係の仕事をしており本来は事務所のデスクワークなのだが、申請の相談で現場にまめに足を運ぶ必要があり、会社では殆ど作業服で過ごす。そのため彼は今回のような急な変身に備えて、その作業服を変身の邪魔にならないよう、伸縮自在、変身と同時に袖が肩までまくれ上がりズボンも縮むようにこっそり改造していていたのだ。スーパーマンのユニフォームほど目立たず、着替えるのにも電話ボックスは不要の優れもの、と彼は密かに誇っていた。

精留プラントのそばに着地した時にはもう人の姿に戻っていた。事務所の入り口のメールボックスに封筒を入れて女の子の用事は一件落着だ。

彼は周囲の人間に、特に女の子に喜ばれるのが大好きで、彼女たちにサービスするためには気軽に変身する。鷲に変身出来る能力が世間に知れたらえらい騒ぎになるのは確かだが、そのことをあまり真剣に考えたことはなかった。“ある人が聴くものを酔わせるようにギターを弾けるように、百メートルを10秒で走る人がいるように、自分にも独特の能力があるだけのことで、それを活用するのは罪ではない。だから、もし見つかれば見つかった時のこと”と割り切っていたのだ。見世物にされるのは嫌だから、もちろん知られることを望みはしなかったが。


彼が自分の特殊能力に気付いたのは、学生の時だ。

彼の反射神経の素早さについてはすでにクラスメートの間で伝説になっていたが、何故こんなにも鋭い反射神経が備わっているのか、彼自身にも分からなかった。スリルを求めてバイクに乗ってふっ飛ばしても、周りの景色はまるで静止しているように見えていたし、部屋でナイフ投げをして来訪者を驚かせることもあったが、彼の目には空中を滑るナイフがコマ送りで見えていたのだ。

ようやくこの反射神経の意味が彼に分かったのは、卒業間近、友人たちと下宿の部屋で飲んだ夜だった。

彼はいつもの調子でにぎやかに酔っ払い、場を盛り上げ、その勢いで「二階から飛ぶ」と宣言したのだ。普段から友人たちに、その反射神経ゆえに「スーパーマン」というあだ名を頂戴していたのだが、その時はなぜか自分でも本当に空が飛べるような気がしたからだ。そして仲間たちも同じように酔っ払っていたので、止めるどころか一緒に囃し立てたのだ。もちろん、鷲又がその気になれば、止めようとしても彼の動きを止められるはずは無かったが。

一瞬の後、彼は空中に飛び出していた。

ところが身体は、彼の予感に反してそのまま真っ逆さまに落下した。振り返ると彼に必死に指を伸ばそうとしながら叫んでいるクラスメートの凍りついたような顔が見えた。前に向き直ると地面が少しづつ近づいてくる。全てはまるでスローモーションのようだった。

「こんなはずはない。ボクは飛べるのだ。飛べなくてはおかしい。羽ばたけ」

彼は両腕をすばやく動かした。

鷲又は腕に異様な感覚を覚えた。そしてガクンという減速感と同時に落下にブレーキがかかった。身体を立て直すのは間に合わずにそのまま地上に衝突してしまったが、殆ど衝撃は感じなかった。腕を見ると、なんと肩から先が翼になっているではないか。

仲間たちが上から、大丈夫か?と声を掛け、階段を駆け下りてきた。

もちろん、大丈夫。

「ボクは空を飛べるのだ」

そう叫びたい嬉しさで一杯の気持ちだった。しかし、その気持ちの中に驚きは含まれていなかった。彼は無意識のうちにこの日がくるのを待っていたのだ。反射神経が鋭いのも、鳥になって空を飛ぶためには当然必要なことだと分かった。

駆け寄った音澄が彼を抱えあげた時、羽根は消えていた。


翌日の深夜、鷲又は素っ裸で寮の屋上に立ち、静かに呼吸を整えていた。

これからやろうとしていることに恐怖はなかった。やっと自分本来の居場所に戻れる、自分の反射神経を最大限に発揮する超速の世界に飛び込んでいける。限りなく穏やかな心で彼は空中に飛び出した。

その瞬間、彼は変身を終えていた。彼の姿は一羽の巨大な鷲になっていたのだ。彼は寮の上空で一回りすると一気に海まで飛び出した。不安は全くない、完全に解放された最高の気分、それが彼の最初の飛翔体験だった。


彼の人生において「変身」はあまり重要なことではなかった。

「これで世界が変えられる訳でもないし、大金持ちになれる訳でもない。もちろん、見世物とかモルモットになるのを嫌がらなければ別だが。しかし、こんな能力がボクだけにあるのはどう考えてもおかしい。世の中にはいろいろな人間がいるのだから、いろいろな能力を持つ者がいてもおかしくない」

そんな風に割り切りながらも、誰ともこの能力について話したことはなかった。なんとなく億劫で、大騒ぎをするようなことではないと自分に言い聞かせていた。親にも何も話さなかったし、結婚して家族が出来た後も秘密は明かさなかった。

「時々、自由な飛翔を楽しめて、女の子にいい格好ができればそれでいいじゃないか」

 それが鷲又のスタイルだった。だから家族や会社の女の子たちが急ぎの用事と頼んでくるのを気軽に片付ける、便利で素敵なオジサンという役目を楽しんで、のんびり人生を送っていたのだ。

 勿論、秘密を守るための工夫は凝らしていた。変身に便利な服の発明は自慢の一つだ。伸縮自在の繊維で作った服は変身と同時に肩まで巻き上がり羽ばたくのには邪魔にならなかったし、ズボンも足と尾羽の動きに自在に追従していた。だから、鷲に変身する際に服を脱いでしまうという面倒なことは不要だった。変身のたびに毎回、服を脱いだり着たりしなければならないとしたら変身は恐ろしく面倒なものになってしまうじゃないか。

 

「鷲又くん、例の特許出願書類、まだ届かないぞ、一体何やっているんだ!」

20時過ぎに本社から電話が入った瞬間、鷲又は嫌な予感がした。

案の定だった。例の件、と催促されるのはあれしかない。一昨日、彼はその書類をチェックして部長に上げていたのだ。部長が承認すれば、自分のところに戻ってくるか、部長秘書から直接本社に送ることになっているのだが、自分のところに戻ってこなかったので、てっきり秘書が送ってくれたものと思い込んでいたのだ。

「明日の朝一番、提出しないと東洋化学に先を越されるのは君もよく分かっているはずだろ」

 本社の課長は怒鳴りだす寸前でこらえていた。彼も鷲又がこんなミスをするとは思っていなかったからだ。

「部長か?」

相手はこっちの心を読んだように口走り、しまったと言うように黙った。鷲又の上司であるその部長には強烈なコネがあって、将来、取締役は固いと噂されている人物だったので不用意なことを言って睨まれてもしょうがないという計算が働いたに違いない。

「何とか間に合うよね。鷲又くん?」

 殆ど不可能に近い期限の仕事を鷲又がこれまで何度もうまくこなしていることを知っている本社の課長は機嫌を取るように優しく言った。ミスったら共同責任になることを悟ったのである。

「すぐ確認します」

鷲又はそう応えるしかなかった。急いで部長の部屋に駈け上がった。主のすでに退社した机の上にその出願書はぽつんと置かれていた。

「何でまだこれがここに……」

 鷲又は絶句した。部長が期限も確かめずに机の上に置いたままにしていたに違いない。

 確認しなかったボクの失敗だ。この男は実務をわかっていない上に、もともと能天気な奴で……。ああ、こんなことを言っている暇はなかった。大至急、運ばなければ。せめてあと1時間早ければ……。

 宇部空港発最終便は出てしまった後だ。広島まで飛ぶしかないな。それでもギリギリだ。すぐ出かけなければ。鷲又は書類をつかむと部屋の窓からそのまま飛び出した。

 鷲又は東を目指して進んだが、急に降りだした雨と逆風でスピードがあがらず、どんどん時間が過ぎていく。このままでは、広島に着いても搭乗手続きしている時間はないかもしれない。馬鹿部長のせいで……。いや、何としても間に合わせてやる!

彼は全力で羽ばたいた。

 その瞬間、不思議な感覚が背中を貫いた。突然、空気の巨大な重さを感じた。

鷲又はこれまでどちらかというと上昇気流に乗って高空でのんびり眺めを楽しんだり、普通の鳥と変わらぬスピードで散歩するように飛ぶだけだったが、今回は初めて極限まで力を振り絞ったのだ。

彼の羽ばたきと共に信じられないくらい強力な風が背後に渦を巻き、鷲又の身体は前に激しく打ち出されるように突き進んだ。

周囲の景色は彼の目にもぼやけるほどの高スピードで後に飛び去り始めた。

 彼はこれまで経験したことのない速さで飛んでいた。鷲というよりこれは昔のあだ名の通り、スーパーマンだった。こんな力が自分の中に隠されていたとは。

初めて空を飛んだときに湧き上がったのと同じくらい強烈な喜びを全身に感じた。彼は東京を一直線に目指した。


「もしもし、もしもし」

 鷲又は出願書類をこっそり本社ビル地下の郵便集配室に置いた後、やきもきしながら待っているはずの本社の課長に電話を入れた。しかし、驚いたことに課長はすでに退社しているらしく、留守番電話がメッセージを残すように繰り返すだけだった。

 あまりのいい加減さに鷲又は愕然とした。

何のためにボクは雨の中、全力でここまで飛んできたと言うんだ。課長はおそらく鷲又に頼んだ時点で、何とか彼がしてくれるだろうと安心して飲みにでも行ったに違いない。どいつもこいつも調子いいばかりで人任せ、一体何様のつもりだ。

 ボクはいままであまりにお人よし過ぎたかな。鷲又はさきほどの興奮の裏返しで、大きく落ち込んでしまった。大げさにいえば、今回の仕打ちで人生を学んだような気がした。

人がいいだけのオジサンは卒業しなくてはいけないのでは……。

「例の書類は本社の郵便物集配室の中にあります。よろしくお願いします」

 虚しい思いで伝言を残した後、鷲又は東京で酒でも飲もうと思った。新しい力を使えば、1時間で徳山に帰れる。せめてそれくらいしなければやりきれない気持ちだった。

 その時、ふと今夜、木更津で日隈たちが飲んでいるのを思い出した。昼間の友人たちのメールに月例会のことがあったのだ。

「久々に顔を出してみるか」

 彼は独り言を言いながらふわりと空に浮かんだ。木更津まではほんの一飛びだ。


「おい、一体どうしたんだ。こっちに来ていたのか?」

 鷲又の突然の登場は大河、日隈、悟を驚かせた。

「急用で午後から飛んできたんだ」

 文字通り、飛んできたとは誰も想像もつかないだろうと思うと、鷲又は無性に可笑しかった。これからは時々こんな芸当も出来る。

「ママ、ビール頂戴」


 しばらくは昔の仲間の話で盛り上がった。しかし、鷲又はなかなか調子に乗れず、仲間内で冗談の種になる駄洒落の冴えも今夜は今ひとつだった。

「どうしたんだ、妙にしんみりした顔をして」

 大河が鷲又の様子に気づいて問い掛けた。

「いいおじさん、便利人間はそろそろ卒業しないといけないな」

 鷲又は今日の部長たちの仕打ちを思い出してもう一度、ポツリとつぶやいた。部長も課長も女の子もみんな、都合のいい時だけボクに頼って……。

「何か会社で面白くないことがあったか。飲んで忘れるしかないぞ。ところで、今夜はどうするんだ?もう帰れないだろう」

「都内に泊まるつもりだよ」

 かつて、同級生たちに自分の能力について打ち明けてみようかと考えたこともあったが、反応が怖くて言えなかった。ボクの秘密を知ったら、仲間は大騒ぎするだろうな。やっぱり鷲又はスーパーマン、空飛ぶ男だったと囃したてるだろう。

今夜もやはり言えそうになかった。


 その時、ママがテレビのボリュームをあげながら叫んだ。

「ちょっと見て、山口の方で事故らしいわよ!」

大河たちが集まる日は必ず何か事件が起きると信じ始めているママは、昔話で盛り上がる鷲又たちから少し離れて時々、テレビをチェックしていたのだ。

 自分の読みが当ったママの声は少し弾んでいるように日隈には聞こえた。

「山口曹達の化学プラントで発生した火災の範囲はますます拡大しています。公設消防隊が出動していますが、火の勢いが強くて近づけません。これまでのところ、人的被害はない模様です。……」

 鷲又の会社だった。

「現在、燃料系統のメインバルブを閉止して炎を弱めるよう準備していますが、消火作業は長引きそうです。風向きによっては市街地への影響も考えられ、早急な対応が求められています。現場から酒井が中継しています」

 テレビはあちこちで小爆発を繰り返しながら燃え続けるプラントをクローズアップした。

 しかし、鷲又は友人たちの予想に反して殆ど反応を見せなかった。

ボクには関係ないことだ。ボクは特許グループの便利オジサンなんだから。今夜の鷲又はとめどなくいじけては落ちていく、そんな気がした。

 日隈たちは鷲又の態度をショックの大きさから来る茫然自失状態ととらえ、燃えさかる工場を目にする鷲叉の悲しみを想像して、声が掛けられなかった。

鷲又の会社の工場と知らないママだけが一人興奮気味で、盛んに話し掛けてきた。

「油が燃えたり、薬品が燃える火事ってなかなか消えないのよね。こんなのを爆弾を仕掛けて爆風で一気に吹き飛ばして消す映画を見たことあるわ」

「湾岸戦争のときのクウェートの油田もそうやって消したのよね」

「でも、日本にそんなプロがいるのかしら?」

 その時、鷲叉がぴくりと身体を動かすのをみんなが見た。

「そうか、強風で一気に吹き飛ばせば消えるのか」

 鷲又はぼそぼそと呟くと立ち上がった。

「みんな、スマン。ボクは帰ることにするよ。今からでも急げば何とかなるかもしれない。自分の会社の事故だもの、何かボクにも出来ることがあるかもしれん」

 そう言うと、みなが言葉を発する前に鷲又の姿は消えていた。残った仲間は鷲叉を思って静かになり、ママもやがてテレビのスイッチを切った。


 一時間後、事故の経過を確かめようと再び付けたテレビは、けたたましい叫び声を上げていた。

「全く信じられないことが先ほど起こりました。火災の中心付近でものすごい突風が発生して、一瞬で炎が消し飛んでしまったのです。炎源近くにあった何らかの化学薬品に引火して爆発、奇跡のような爆風が発生した可能性があるとのコメントが出ました。本当に幸運です。あとは消防隊の放水で鎮火していく模様です。

なお、現時点で同事業所に勤務する鷲又さんの所在が確認できないことから鷲又氏の安否が気遣われています。以上、現場からお伝えしました」


「案外、あの会社もいい加減だよな。鷲又がこっちに出てきていることも把握できていないなんて。彼はまだ、電車の中だよ」

 全員でどっと笑った。

「それにしても、何だよ、一体?奇跡的な突風なんて」

「これなら鷲又も帰らなくてもよかったのに」

「いや、いずれにしても後片付けなんかもあるから帰るだろう。それにしても、行方不明にされるとはけっさくだな」

 笑いながらも皆、同じようなプラントをもつ会社に勤めているので他人事とは思えず、早めに鎮火したことを不幸中の幸いと、この場にいない鷲又に向かってグラスをあげた。

「それにしても、原因不明の強風で事故が収まるなんて。不思議なことだね」

 ママは何か思い当たることがあるように、一人頷いていた。

「あなたたちが集まっているときに起こる事故っていつも、こんな不思議な結末になるのよね。ひょっとしたら、この奇跡の爆風もなにか関係が……」

しかし日隈たちは鷲又のことを思い、ママの言葉は耳には入っていなかった。

「鷲又は今ごろ、どこかなあ」


山口の空はさっきまでの大雨が上がってウソのように晴れ渡っていた。だから目のいい人が夜空を見あげていたら、ひょっとしたら煌々と輝く満月を背景に飛ぶ一羽の鷲を見たかもしれない。

「ボクは初めて、自分の力を意味のあることに使えたのだ」

いま、鷲又は自分の力で成し遂げたことに満足しながら、最高の気分で大空を何処までも何処までも自由に飛翔していた。



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