第二部「覚醒」 第五章「サビル」
週末にかかる出張は家族と過す貴重な時間が減るわけで、決して望むところではないが、サラリーマンとして会社の命令とあればNOとは言えない。それに今回は、そのあとに楽しみがあったのでいくらかましである。仕事が片付いてから木更津の飲み屋で、大河や日隈と会うことになっていたからだ。
それにしても大企業は平気で無理を言ってくるものだ。自分たちが休んでいる週末に工場設備の腐食劣化診断をしろとはね。埼玉から東京に出て、さらに内房線に乗り換えて一時間以上、近くて遠いところだよ、千葉は。ホント。
時間をかけて出かけてきたのに、仕事はあっという間に済んでしまった。防食技術の専門家である僕にとって、これは診断以前の問題である。ほとんど全ての港湾構造物で潮風による腐食が進行しているにもかかわらず、適切な手当てがなされていない。もう少し早く、わが社に相談してくれていたらなあ。
しかし設備の担当者は、補修にかけるお金がないので当面様子を見るとの判断で(ほとんどの会社が本当に壊れるまで手を打たない)、とりあえず僕の開発した腐食センサーを何箇所かに設置して傾向を管理することになった。
こんなに早く仕事が終わるんだったら待合せ時刻をもっと早くしてもよかった。変更しようにももう遅い。昨日のメールでは、大河は昼間は遊びに出掛けているはずだし、日隈は子供の相手で忙しいだろう。
出張の多い僕にとって、今回のように出張先で突然時間が空いたときの過し方を用意しておくのは大事なことだ。近くに美術館や博物館があれば充分時間はつぶせるのだが、この辺りではそれも期待できない。そんなとき僕は、趣味と実益を兼ねて海岸沿いにある構造物を見て廻ることにしている。潮風に晒される構造物の劣化状況を勉強すると共に商売につながるものがあるかもしれないからである。
僕は調査に立ちあってくれた担当者から情報を仕入れ、富津岬に行ってみることにした。彼の話では、富津岬は東京湾の入り口に神奈川県三浦半島と向かい合うようにせり出している砂州で、松林の緑と砂浜の白さが際立つ、風光明媚なところらしい。風が強く、ウインドサーフィンのメッカでもあるとのことだった。
実際に岬に立った僕の前には、なかなか見事な光景が広がっていた。
岬の先端から少し離れた海上に、富士山を背景に岩場が二つ並んでいる。戦争中に作られた要塞の跡とのことだが、今は魚礁として魚たちに住処を提供しているだけで、上部は完全に風化している。航路の障害になるので近々撤去されるらしい。
視線を手前に戻すと、そこには高さおよそ30mはあろうかという巨大な鋼鉄の展望台が、要塞と同様に潮風と年月に晒されて朽ち果てるべく齢を重ねている。かつては訪れる者に頂上から素晴らしい眺めを提供していたであろうが、現在は鉄骨が完全に錆びて崩れ落ちる寸前になっており、立入り禁止の縄張りで囲われていた。
僕はこのような建造物を見ると、どうしようもない怒りが込み上げてくる。適切な防食処理がなされないことで、毎年どれだけ多くの国民の財産が失われていくことか。そして何の反省もないまま、同じ物がまた築かれる。こうして無駄な税金の投入が永遠に続くのである。
そんな僕の怒りを知ってか知らずか、さわやかに晴れ上がった秋晴れの下、遊びにきている多くの家族連れや若者たちの歓声が耳に届いていた。子供たちは波打ち際で砂遊び、若者たちはウインドサーフィンを楽しんでいる。僕も家族と来ていればこんなつまらない怒りにとらわれることもなかったのだが……この前、家族と一緒に海に来たのはいつ?
僕はぼんやりとそんなことを考えながら、海上を疾走するサーファーを眺めていた。
その時、突然、女性の悲鳴が上がった。
「澪奈! 澪奈! じっとして。動かないで」
展望台のほうで激しく動き回る人の気配。僕はそちらを振り向いた。岬にいた多くの人も同時にその声に気づいたようで、たちまちのうちに辺りは黒山の人だかりとなった。僕が人垣を掻き分けて半ばまで進んだときには、人々は展望台の上を指差して口々に叫んでいた。
僕がその先に目をやると、何と、展望台の頂上に女の子が立っていたのだ。
下からでははっきりとは分からないが、2歳くらいか、ようやくヨチヨチ歩きを卒業して歩くのが一番嬉しい頃、母親が目を離した隙に階段を上って、立入り禁止の展望台に登ったに違いない。
父親らしい男が展望台に駆け上がろうとする母親を必死に押しとどめていた。
「落ち着け。この展望台はボロボロに錆びていてとても大人には登れない。もし崩れたら、お前も澪奈も死んでしまうんだぞ」
父親のほうがまだ冷静だった。専門家である僕の目から見ても、この鉄骨はかろうじて錆びと錆びでくっついて潮風に立ち向かっている状態、とても人の登れるようなしろものではない。展望台の管理者が金をかけて解体する代わりに、風に吹かれて崩れるのを待っていたのだとしても驚かない。しかし本来は、きちんと整備するか、取り壊すかどちらかを選ぶべきだったのだ。
その時、サイレンの音が響いて早くもレスキュー隊が到着した。
僕は救出のプロがどんな判断を下すか、興味を持って見守った。錆びについては僕ほどの知識がなくても、危険な建物には鼻が利くはずだ。彼らは何度か展望台に上りかけ、実際、一段目の踊り場から二段目にかかるくらいまで上がったのだが、やがて全員引き返してきた。
そして、まもなく彼らは両親に、そして周囲の人間にも聞こえるように言った。
「ご両親にはまことに申し訳ありませんが、この展望台は大人が登っていくには危険すぎます。鋼材にほとんど強度が残っていないのです。いつ、倒れてもおかしくない。ヘリコプターを使おうにも、風圧でお子さんが飛ばされる可能性があり危険です。
大至急、大型消防車を要請しますが、足場が砂地なので、どこまでブームが伸ばせるか。とにかくお子さんに呼びかけてゆっくり下りてくるよう言って、いや、あまり動かないほうがいいか、ええい、一体どうしたらいいんだ……」
レスキュー隊も混乱していた。彼らの言葉に周囲の群衆から失望のため息が上がった。それまで何とか平静を保っていた父親も、レスキュー隊による救出も難しいと知ってがっくりと肩を落とした。母親のほうはその場に泣き崩れた。
潮が満ち始めており、もうすぐ展望台の周囲の砂浜は波に洗われるはずだ。そうなったらアウトリガーは張り出せず、おそらくはしご車のブームは届かないだろう。風も少しずつ強くなっている。つまり有効な手立ては見つからない、ということだ。
僕はそこまで事態を見て取ったところで、群衆の中からそろそろと抜け出した。
幸いなことに岬にいる全員の視線は展望台の周辺に集中していて、裏手の雑木林に注目する者はいなかった。
僕はすばやく近くの林に飛び込むと背広を脱ぎ始めた。こんなところで秘密がばれるような危険は冒したくなかったが、このままではあの子は展望台から落ちるか、展望台が崩れるのに巻き込まれて死んでしまう。誰もが自分のできる限りの手段であの子を助けなければならない。そしてこの場合、あの子を救出できる可能性があるのは僕だけだ。
僕は服を脱いでから精神を集中し、変身後の姿をイメージした。
ツルツルのお尻に濃い毛が伸びてくる。足が縮み、その分、手が長くなってきた。もう少しだ。やがて、顔の周りの毛も生え揃ったので、邪魔になった眼鏡を外し、たたんでいた服の上に重ねておいた。
僕は藪に身を沈めてぎりぎりの所まで近づくと、一気に展望台に走った。レスキュー隊員が僕の姿を目の隅に捕らえ、野次馬と思って僕の手をつかんだ。しかし、彼は予想外の毛むくじゃらな感触に驚き、握った手を緩めた。僕はその瞬間、つかまれた手を振り切り、そのまま展望台の上がり口に取り付いた。
「なんだ、あれは」
「サルだぞ。なんであんなところにサルがいるんだ」
そんな群集の声を後ろに聞きながら、僕はそろそろと展望台に登り始めた。
近寄ってみると腐食は下で想像していた以上に進行している。崩壊寸前だ。あの子が頂上まで上がれたのすら奇跡に思えた。僕は一足一足、錆び部分の付着度と部材の減肉度を天秤に掛けながら登坂ルートを選んだ。
「あのサルは何をしようとしているんだ?」
「きっと子供を助けようとしているのよ!」
「頑張れ! サル」
下で見上げる群衆の声援が次第に大きくなってくる。しかし、次の一手をどこに置こうか、自分の錆びに関する知識を総動員して検討しながら進んでいる僕の耳には、ほとんど届いてはいなかった。
やっとのことで頂上にたどり着いた時、僕の集中力はもう切れる寸前だった。でも、やったぞ! 女の子はすぐ目の前だ。僕は大きく一つ、安堵のため息をついた。しかし、油断は禁物だった。
子供は目の前の階段を登ることに集中して進んでいるうちに気付かないまま頂上まで来てしまい、行き止まりになってどうしたらいいか分からず泣いていたのだ。当然、下で叫んでいる母親の声など聞こえるわけはない。お母さん、何処にいったの、どうして私を抱っこしてくれないの……親を見失った恐怖でパニック寸前だった。
このままではまずい。必死で泣き叫ぶ子を抱きかかえて降ろすことはとてもできない。そこで僕は注意を引くために、さっき砂浜で拾ったきれいな貝殻を彼女に差出した。子供はその新しいおもちゃに興味を示して僕のほうに近づいてきた。僕もここぞとばかりに飛びっきりの笑顔とおかしなしぐさで愛嬌を振りまいた。
その子がようやくニコリと笑った。このチャンスに僕は貝殻を頭に載せ、手を叩き、おどけた表情を作って彼女においでおいでをした。彼女は僕の毛むくじゃらな腕に誘われるようにヨチヨチ歩み寄ってきた。
もう少し、もう少し。よし、掴まえた!
彼女も僕をおサルさんのぬいぐるみのようにしっかり抱え込んで、どっちがどっちを抱っこしているのか分からない。でもこれで大丈夫。僕は足場を確かめながら少しずつ下へ降りていった。登るときに安全な場所を見極めていたので、下りは比較的スムーズに進めた。あと少し。
展望台の降り口にはその子の両親とレスキュー隊が固唾を飲んで待っていた。僕が彼女の手を母親に渡した瞬間、両親はガッと彼女を抱きしめ大きな声で泣き出した。レスキュー隊員たちも両親を取り囲んで安堵のため息を漏らし、僕に注意を払う人はいなかった。
と思った瞬間、カメラやマイクを構えて殺到してくる一群に気づいた。マスコミだ。今までレスキュー隊に遮られ、離れたところで待機していたらしい。
「人命救助のサル、実は人間だった!サル人間に独占インタビュー!」
そんな恐ろしい見出しが頭に浮かんだ瞬間、僕はくるりと向きを変え、今降りてきたばかりの崩壊寸前の展望台に、今度は全速力で駆け上がっていった。構造物に衝撃を与えないように気をつける余裕はなかった。
「サルは遂に子供を抱き上げ、地上に連れ戻すことに成功したんだ。下で見ていた全員が歓声を上げたよ。上にいた時は分からなかったが、サルはかなり大きかったんだね。ほとんど人間と同じくらいだ。サルが子供をそっと地面に降ろしたところで、マスコミがレスキュー隊員の制止を振り切って殺到していったよ。
すると、それに驚いたサルはもう一度、展望台に駈け上がっていったんだ。今度は最初のように慎重にではなくて、文字通り一気にだ。ところが、頂上に着いたところで、展望台が大きくゆれ始め、あっという間に崩れてしまったんだ。レスキュー隊やらなにやらが登ったり降りたりして、大分揺さぶられていたからね。
周りにいた俺たちも逃げるのがやっとだった。展望台はそのまま満ちていた海面に倒れこんでいって、そのサルも一緒にドブンだ。しばらくは展望台の崩壊が続いて、そばには近づけなかった。
崩落があらかた収まったところで全員がサルを探したが、見つからなかった。構造物の落下に巻き込まれて海中に沈み、そのまま引き潮と一緒に沖に流されていったのだろうというのがレスキューの見解だ。
その通りなら可哀想なことだが、俺にはどうもあのサルが捕まるのを避けて、自分から海に飛び込んだような気がするんだ」
大河は一気にそこまで話して言葉を切り、ビールをごくりと飲んだ。
「こんばんわ」
悟が約束の時間に遅れてその飲み屋に飛び込んだ時、大河がテレビの映像を指しながら、ちょうど昼間、久しぶりに出かけたウインドサーフィンの後で出くわしたこの救出劇を彼らしい正確な描写で店の客たちに説明していた。
店の中に一気に潮の香りが広がった。
悟を大河たちの待ち人と察したママがすぐ声を掛けた。
「いらっしゃい。遅かったわね、どうしたの、この香り」
「ずっと海岸にいたのでね」
悟は少しはにかんだように答えた。
「よく来たなサトル君」
日隈がグラスを持ち上げた。
「海岸といえば、富津岬の展望台で凄い救出劇があったのよ」
「その通り。ボロボロの展望台に子供が登って、それをサルが救出して、展望台は崩壊して、サルも海に落っこちたんだ。先に始めていたぞ、サトル」
大河が猿渡悟に早口にいきさつを話した。
「へえ、そんな事件があったとは。富津までは行かなかったんだ。それにしても、その展望台もわが社の防食処理をしていればそんなにボロボロにはならなかったのに。ところで、ママもお顔の塗装、ちゃんとやってる?」
「おっサトル、来て早々きつい一発だな。なんだい、その背広、少し湿っぽくないか?」
大河の問いに困ったように悟は答えた。
「現場で潮風に当たり過ぎてね。ところで、なに? このテレビ、話が違うじゃあない?」
悟はすばやく話題を変えた。
「そうなのよ、最近、お客さんみんなに言われるの。だんだんこの店も、何処にでもある当たり前の店に変わってるね、って」
テレビはここしばらく、店に置かれたままになっているらしい。ママはもうすっかり諦めたように説明する。
「私って、不思議な事件があるとどうしても、お客さんと一緒に見たくなるのよね」
この頃、千葉で変わった事件が多すぎるのが悪いというのが彼女の見解だ。
「それにしても最近、この辺りではトラや馬、犬そして今度はサルとやたら動物が登場する事件が多いわね。田舎県と言われるわけよ」
「しかし、このサルはただのサルじゃあないぜ。やつは危険な箇所がちゃんと分かっていたんだ。何処が崩れやすいか、判断して救出劇を成功させたんだ。でもどうやって?」
大河がまだ不思議そうに首を振っていた。
「でもやっぱりサルはサルね。結局最後には、落っこちゃったんでしょ。これが本当の、サルも展望台から落ちるだわ」
ママは再会の乾杯を促すように話をまとめた。
悟は黙ってグラスのビールを飲み干した。
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