第二部「覚醒」 第四章「迷犬」

ボクは犬なんだ。

人間はボクを犬と呼ぶし、外見も明らかに犬である。

それなのに時々「ひょっとしたら、ボクは人間かもしれない」って思うことがあるので、悩んでしまう。

何故、ボクが自分を、人間かもしれないと思うことがあるのかだって?

それは、人間の言葉が分るからなんだ。


ボクの記憶は2ヶ月前の、命の恩人であるおばあさんの家の玄関から始まる。

そこでボクは激痛と共に目覚めた。バラバラになるかと思うほどの痛みが全身に走り、手も足も全く動かせなかった。

その時、やさしい声が聞えてきたんだ。

「まあこの子、息を吹き返したよ。お前、しぶといねえ」

ボクは声のする方を見て苦しさを訴えようとしたが、一言も発せないまま、もう一度、気を失った。

次に意識が戻った時には幾分痛みも収まり、気分も良くなっていた。そうなると現金なもので空腹を感じてきた。ボクは誰かを呼ぶように口を開いたが何ともしまらない、かすれた声しか出なかった。

「クー、クー」

 すると驚いたような声が響いた。

「こりゃ、たまげた。動き始めたよ。あんな風に車に轢かれて、命があるのさえ奇跡なのにもう声を上げるなんて。お前はただの犬じゃあないね、ほんと」

 それが命の恩人のおばあさんとの出会いだった。


犬?ボクは犬?

なるほど、そうなのか。車に轢かれた?

そこのところの記憶はなかったが、全身の激痛が事故の事実を証明する。

おばあさんはボクを犬と呼ぶ。でも人間のおばあさんが喋っている言葉が理解できるのだ。犬に人間の言葉がわかるなんて?

車にぶつかった時、脳みそにショックを受けて賢くなったのかもしれない。でもその代わり、事故にあう前のことはすっかり忘れてしまったようだ。

おばあさんが時々掛けてくれる言葉から、ボクは自分が道路で車に撥ねられて瀕死の状態でおばあさんに見つけられ、家に連れてこられたというのが分った。おばあさんは、ボクを見た時、てっきり死んでいると思ったようだ。昔、自分の飼い犬が同じようなひき逃げにあって死んだのでボクを見捨てておけず、墓を作ってやるつもりでボロに包んで運んできたらしい。

ところがボクはまだ息をしていたのだ。そしてボクはおばあさんの看病で回復した。

「首輪がないから飼犬ってわけじゃあないだろうが、野良犬にしては落ち着いた目をしているよ。私のところにしばらくいるかい。それなら、名前をつけてやらないとね。そうだ、クーはどうだい?お前が気付いたとき喋った、最初の言葉だよ」

犬が喋るというのもおかしな言い方だが、おばあさんには真剣に自分の声に聞き耳を立てるボクが人の言葉を理解しているように思えたのだ。そして「人間の言葉が分かる」というのは当っていた。おばあさんに助けてもらったお礼を言いたかったが、おばあさんがビックリして倒れたら困る。おばあさんは心臓が悪くていつも薬を飲んでいたのだから。

「私がいなければこの子の面倒は誰がみてやるんだい」

 弱いものを守ろうとする気持ちが人を強くする。おばあさんは世話をする対象を得て、生きがいを見出したという訳だ。ボクは怪我の介抱をしてもらいながら、ちゃんとお返しをしていたことになる。

寝床でのリハビリはおよそ1ヶ月続いた。何不自由のない毎日だったが、こんなにノンビリしていることに時々、罪悪感を持つこともあった。その理由は分らない。犬が罪悪感をもつということがあるのだろうか?という以前に「罪悪感」という言葉の意味を知っていることが不思議ではあるが。

身体が動き始めると、一日中家に篭っているのは堪えられなくなって(どうやらボクには放浪癖もあるらしい)散歩をねだった。そんな時、おばあさんはボクを放してくれる。ボクは近所を駈けまわり、お腹が空いたらおばあさんの待つ家に戻る、そんな日々が続いた。おかげで体力はみるみる回復していった。

ボクはやがてこの辺りを縄張りにしている野良犬たちと知り合った。彼らの自由さこそボクの望むもので、彼らと一緒にいるとやっぱりボクも野良犬だったのか、と思ったりもする。

最初、新しく仲間に加わったボクのことを胡散臭そうに見ていた彼らも、ある事がきっかけでボクに一目置き、ボクは彼らの客分のような地位を占めるようになった。その出来事とはこうだ。

その日、ボクたちは一緒に山を走り廻っていた。そして一匹が美味そうな肉の塊を見つけたのだ。彼はさっそくボスにご注進。ご馳走はまずボスが味見する。ところが、ボスが最初の一口を頬張ろうとした瞬間、ボクは彼を押しとどめた。その肉の匂いの中に危険なサインを感じ取ったからだった。

野良犬たちに一瞬緊張が走ったが、ボクは構わずその肉をそばの池に蹴落とした。すると直ぐに池から魚が腹を見せて浮かび上がってきたのだ。つまり、その肉には野犬や害獣駆除用の毒が塗られていたということだ。しかし、鋭敏な野良犬たちの嗅覚さえも誤魔化せる毒をなぜボクが察知できたのだろうか?

ボスに、どうして毒が入っていると思ったのだ?としつこく尋ねられたが、こっちにも分からない。きっと以前、同じような薬品の臭いを嗅いだことがあったのだろう。

 こうしてボクは自分の居場所を見つけ、彼らとともに長い時間を過ごした。

しかし、やがてボクは野良犬たちと付合いながらも、本当に彼らが仲間なのかどうか確信が持てずに悩むようになっていた。もっと他に僕のいるべき場所があるのではないか。そんなボクにボスは、決して妥協せず、自分の信じる道を進めと励ましてくれた。

けれどもボクはまだ迷っていた。大恩あるおばあさんを一人置いて、ここを去るわけにはいかなかったからだ。

そんな時、おばあさんが自宅の庭で倒れた。心臓に持病を抱えていて、普段から薬を手放さなかったのだが、その時だけどういう訳か薬を引出しにしまいこんだまま、庭仕事に出て発作を起こしてしまったのだ。

ボクが散歩から戻って倒れているおばあさんを見つけた時、既に顔色は真っ青になっていた。ボクの吼え声に何の反応もなく、緊急事態であることは明白だった。近所の人を呼びに行っても間に合わないだろう。

彼女を救う唯一の手段、特効薬は引出しの中だ。

しかし、どうやって開ければいい?引出しには鍵が掛っているはずだ。

では鍵は何処だ?おばあさんの手提げ袋の中。

もし鍵を開けられたとしてもどれが心臓の薬か分るだろうか?おばあさんは沢山の薬を常用していた。

その薬を見つけたとしても、どうやって飲ませるのだ?彼女は固く口を閉ざしている。一体、どうしたらいいんだ??

命の恩人が目の前で苦しんでいる。ボクが何もしなければ死んでしまう。その恐怖でボクはパニックになった。

どうしたら、どうしたら、どうしたら……。

そこからボクの記憶は飛んでしまう。

ボクは鍵を手に入れた。ボクは家に駆け込み、引出しを開き、薬を取り出した。確かにボクにはどれが目的の薬なのか分かったのだ。そしておばあさんの口を開き、水と一緒に薬を飲ませてあげた。

でも、どうやって?

再び、ボクが記憶を取り戻した時、ボクはおばあさんの顔をペロペロ舐めていた。

やがておばあさんは起き上がり、ボクをしっかり抱きしめた。

「クーや。ありがとう」


 ボクはおばあさんの家を去ることにした。

確かにボクはただの犬ではない。では、一体何者なのだ。それはまだ分らない。しかし、自分を探す旅に出ないといけないことだけは悟った。おばあさんのところを去る前にボクは、自分の代わりになる犬を連れてきた。彼におばあさんの面倒を見ることをしっかりと頼んだ。おばあさんは何もかも承知しているように、黙ってボクを見送ってくれた。


ボクは自分の正体を知るために、何処を目指せばいいのだろうか。

神経を研ぎ澄まして、ボクは心の奥底のささやき、本能に従おうとした。

心の中で「西へ行け、そこに家族が待っている」という声と「東へ行け、そこに仲間が待っている」という声が身体を二分するようにせめぎあっていた。

ボクは自分が何者かという謎を解く方を選び、東を目指した。

ボクは高速道路のサービスエリアに入り込んで、停まっている車の間を歩きながら運転手たちの会話を聞き、千葉を目指すトラックを探した。何故、千葉を目指すのかは分らなかったが、ボクの心の声が確かにそう教えたのだ。

ボクの選んだ車の運転手はサービスエリアで買ったお握りとハンバーグをボクにくれ、助手席に座らせてボクを相手にお喋りをしながら東を目指した。彼はボクから返事が返って来ないことは全く気にせず、ハンドルを握りながら、自分の夢、大切な家族のこと、厳しい仕事などについてずっと話していた。

「お前は不思議な犬だなあ。まるで俺の話が理解できているみたいだ。お前を初めて見た時から、ピンと来たんだよ。ただの犬じゃあないなって。

お前もきっと何処かに家族が待っているんだろう。あちこち放浪するのもいいけど、いつかは自分の愛する家族のところに帰るんだぞ」

 その言葉にふっと懐かしい姿が頭をよぎったが、不思議なことにそれは人間の母子だった。きっとこの旅が終わったら、みんなの元に帰るよ、その母子の姿に向かってつぶやいた。


急ぎの荷物だったのだろう。運転手は東名からそのままアクアラインを目指した。ボクも千葉に近づくにつれ、なぜだか分らないが胸が高鳴った。

しかし、海底トンネルを抜けた上り坂で、車間距離が急に詰まり始めた。前方に渋滞があるらしい。あと一息のところで渋滞に巻き込まれるなんて。

当然、スピードを落としてノロノロ運転にならざるを得ないと思ったのだが、何とトラックはスピードを緩めることなく、最後尾の車に突っ込んでいくではないか!

ハッと隣を見ると、彼はうつろな目で前方を見て座っているだけだった。ぶっ通しの運転に疲れて少し前から居眠りをしていたらしい。みるみる近づいてくる車、追突したら大事故になる。

ボクは大声で吼え、運転手に噛みついて起こそうとしたが、間に合わなかった。ボクはとっさに体当たりで彼を押しのけ、空いている車線にハンドルを切り替えて進み、気づいたら海ほたるの駐車場に入り込んでいた。目の前に歩行者が現れたが必死でブレーキを踏んで、ギリギリのところで事故を回避できた。

何故、ハンドルが操作できたかだって?

ボクがハンドルを握った瞬間、ボクの前足は人間の手になっていたんだ。

ボクがハンドルの上で大きくため息をついた時、運転手が恐怖に震えた目でハンドルの上のボクの手を見つめていた。

ボクは肩をすくめるしぐさをすると、そのまま車から抜け出した。

 アクアラインを渡る潮風のなんともすがすがしい香り。

ここで記憶がまた途切れてしまった。


ボクの短い回想もそろそろおしまいだ。

気付いたら、ボクは木更津の街を歩いていた。

この街がボクの目的地だということは感じていた。でも、何故ここを目指したのかは分らない。内なる声の命じるままにやって来ただけだが、いずれ何かがわかるだろう。ひょっとしてこの街に僕の正体を知る仲間がいるのだろうか。

ボクは木更津を彷徨った末、この店に落ち着いた。

メタモルファという名のこの店はなぜか居心地が良かった。ママが、クーちゃんクーちゃんと可愛がってくれたし(そう、ここでもボクの名前はクーになったのだ)、何より客がみんな、愉快で優しかった。

その中でも時々、一人でやってきて、ママと静かに話していく客が気になった。大河というその男にずっと前から彼のことを知っているような、そんな懐かしさを感じたからだ。


ボクが店の隅のいつもの場所に寝転がっていたら、大河が友人を2人連れてやって来た。ボクはピクリと何かを感じた。

彼らは店に置いてあるテレビを話題にした。ママが、持ち込んだテレビの言い訳を始めたからだ。

「だって、今日の“世界不思議事件簿”でこないだのアクアラインの事件をやるのよ。犬がトラックを運転して渋滞に突っ込むのをかわしたというやつ」

「運転手の夢物語だろ。おおかた居眠りしてたんでしょ」

 常連客の誰かが言った。

ちょうどその時、問題のシーンが流れた。偶然、海ほたるに来ていた旅行客がビデオでトラックと運転席を撮影していたらしい。何度か繰り返し再生されたが、ハンドルの後ろには恐怖に震えるあの運転手が映っているだけだった。番組のコメンテーターも不思議な事件というだけで、なにも答えを出してはいなかった。

「最近、この辺りって変な事件が多いでしょう。東京駅のトラ騒動、富里の牽引馬、成田のハイジャックとか。それでしょっちゅうテレビを持ち込むことになるのよね」

その時、大河たちがそれぞれ、困ったようなしぐさを見せたことに気づいたのは、床から見上げていたボクだけだろう。

それから話題が少し変わった。

彼らはゆっくり飲みながら昔話をした。ボクは彼らの足元で、時々投げてくれる魚のフライや生魚を頬張りながら静かにその話を聞いた。どうやら、かつての同級生同士のようだ。彼らの話を聞いているととても楽しかった。ボクも彼らの仲間のような、そんな気持ちにさえなってくる。途切れること無く続く会話の波にふんわり漂って、ウトウトしかけた瞬間、ショックが走った。

「究は一体、何処に消えたんだろうな」

大河の言葉だった。

何だ、この胸の震えは。今、大河が「究」という言葉を発した瞬間、ものすごい衝撃がボクを襲ったのだ。頭が急に痛くなってきた。

「あいつが単身赴任のアパートから忽然と姿を消して半年だ。奥さんの話では荷物は全部、部屋に残ったままという。パソコンもスイッチが入ったままで、まるでちょっと近くへ買い物に、という様子で消えたらしい」


全部、思い出した。

ボクが「究」なのだ。そして大河たちはボクのかつての同級生だった。

あの日、単身赴任中のボクはコンビニへカップ麺を買いに出ようとしたところで、車にはねられたのだ。

ボクは学生時代、仲間うちで「イヌ」という有難くないあだ名をもらっていたのだが(話せば長い訳がある)そのあだ名のせいかどうか、二十歳を過ぎた頃から時々、真っ白な秋田犬に変身するようになったのだ。最初は恐怖や戸惑いもあったが次第に慣れて、楽しめるようになっていた。

それでその時もそのまま、軽い気持ちで衝動に任せ、変身して出掛けたのだ。以前にも何度か同じことをやっており、犬の姿で愛想を振りまけば、コンビニの店員からカップ麺をただでもらえることもあったからだ。

ところが、あの交差点で車に轢かれ……。

本当ならそこでボクもお陀仏だったろう。ところがどっこいボクは生き延びた。

そして、つい今までボクは人間としての記憶を失っていたんだ。

でもなぜ、ボクはここに来たのだろうか。なぜ家族の待つ、下関に帰らなかったのだろう。ここにいる、日隈、大河、駒園と強い絆があるというのか?確かに寮で学生時代を一緒に過ごしたとはいえ、家族以上のつながりがあるなんて?

きっと何か理由があるはずだ。


お前たちが今、心配してくれている犬辺究はここにいるんだぞ。

どうやら、彼らの話からすると、会社も家族もボクの失踪を大げさにはしていないらしい。

もともとボクの放浪癖は勤めている製薬会社では有名だった。時々フラッと消えて、数週間すると何事もなかったかのように戻ることを時々繰り返していた。

研究者ではなかったが、いくつか斬新なアイデアを出してそれが新薬の開発につながったことがあり、開発部門からも頼りにされていた。だから頼まれた問題の解決策がなかなか見つからない時などしばらく放浪に出てしまうこともあったが、会社は黙認してくれていたのだ。今回も家族を含め、ノンビリしていたのはその前例があったからだろう。

おばあさんの命を救う薬がどれか分ったのも、ボクが製薬会社に勤めていたからなのだ。

 

それにしても、こんなに長い間、しかも人間の記憶を失ったまま、犬として過ごしていたのは初めてだ。事故の後遺症かもしれない。

記憶が回復してきたということは、そろそろ人間に戻る潮時なのかな。

でも一方で、本当に今すぐ人間に戻る必要があるの?という心のささやきも聞こえていた。家族もおおらかに待ってくれているんだ。慌てることはない。もうしばらくこうやって床に転がって、下から社会を眺めながら、人間を休んでいるのも悪くない。

本当だ。それもいいなあ。

 それとも、のんびりし過ぎているかな。

犬のまま過ごしてずいぶん経つけど、ボクはまだ人間に戻ることができるのだろうかという不安がふっと頭をよぎった。ひょっとしたら、このまま、人間に戻れなかったりして。

まあ、そうなったとしても、たいしたことではないような気もするし。

ああ、いい気持ち。

「クー……」



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