第二部「覚醒」 第三章「馬飲馬食」
最後のダッシュがこたえた。
席に座ってずいぶん経つのにまだ、心臓の激しい鼓動が収まらなかった。
年取ったなあ。卓球で鍛えていた学生時代なら……。
勤務番の明けた部下に送ってもらって鹿島神宮駅に着いた時には、既に発車のベルが鳴り響いていた。急いで切符を買い、改札を駆け抜け、やっとのことで飛び乗るのに成功したが、ちょっと頑張りすぎた。でも仕方ない、この電車を逃すと今夜の集まりに行くのはほぼ不可能になるのだから。
予定通りにいったとしても、この電車で鹿島を出て佐原で乗換え、千葉経由の内房線で木更津に着くのは20時を過ぎてしまう。何とも大した週末旅行、ほぼ一直線の行程だが、乗り継ぎ、乗り継ぎで着く頃にはグッタリだろう。
僕がつく頃には、二人はもういい心持ちになっているはずだが、まあそれでも構わない。夜は長いのだし、先に酔払ってもくだを巻くような二人ではない。
九州から単身で転勤してきて、少しは自由時間も出来るかと思っていたが、なかなか忙しく、さらに会社もどうせ単身赴任では休みもすることはないだろうと思うのか、休日、昼夜関係なしで出勤を要請してくる。何とかそれに応えて、どうやら鹿島でもそれなりの地歩を築けた自信もあったので、今日はこちらに異動してから初めて、定時で退勤して木更津まで行くことを計画したのであった。
千葉組の二人は毎月、定期的に会っているらしくてこれまでも何度も誘われていたが、そのたびに突発の仕事でキャンセル、だから千葉で会うのは今回が初めてだった。毎度は無理だろうが、これからは時々、参加するつもりだった。
ようやく窓の外の景色に目が向くようになってきたのは、乗り換えた電車が成田駅を過ぎる頃だった。このあたりは昔、陸軍の軍馬育成牧場などがあったらしくて、いかにもそれにピッタリのなだらかな丘陵が続く。もっとも、今では馬より成田空港で有名だが、競争馬の飼育も盛んで、北海道に次ぐ産地であるらしい。
馬のことを考えるとなぜか心が和んだ。「駒園」という自分の苗字から、馬には昔から親しみを感じていたし、子供の頃はいくらか顔が長かったせいか「馬」という仇名をつけられたりする事もあったが、決して不快ではなかったのだ。馬のあの力強さ、優雅さ、辛抱強さが大好きで、自分も同じような資質を持ちたいといつも思っていたものだった。
そんな事を考えていると急に、何だかとてもいい香りがしてきた。それは妙に懐かしい、妙に元気の出る不思議な香りだった。それと同時に、忽然と僕の身体が温かくなってきた。
この香りには興奮を催すものもあるのか、力が全身に漲るようだった。恥ずかしい事に勃起しそうにもなってきた。まるで二十歳の昔にもどったような衝動だった。
これはどうやら馬の匂いらしい。この辺りで馬の飼育をやっているからだろうか。それにしても、暖房して締めきった車内にまで馬の匂いが届くのは不思議でもある。とにかく、心地よい気持ちの高揚を感じながら、揺れる電車に身体をあずけていた。
ギギギギギーィ!
突然、電車が大きな音をたてて急ブレーキを掛けた。僕は進行方向に向かって座っていたので、そのまま向かいの席に叩きつけられた。幸い、持参していたバッグがクッションになって肩を少し打った程度で済んだ。それですぐ起き上がり、周囲を見渡して、座席から投げ出された何人かの人を介抱した。
車両の中は大混乱となったが、カーブで列車がスピードを落としていたのと、通勤と逆方向で、満員ではなかった事が幸いしてひどい怪我人はいないようだった。
何があったのかと思っているところに、車掌が後方から走って来たので、掴まえようとした。しかし、車掌は既に何度も同じように訊かれていたのであろう、
「済みません、踏切で車と接触したようで、まだ状況はよく分かりません」
と言いながら僕を振りきり、前方に走り去った。
僕の乗りこんだ車両は前から二両目だったので、すぐ窓を開けて前方を見た。すると、いくらかカーブになった線路の前方、一両目のすぐ前にトラックが踏切をふさぐように立ち往生しているのが見えた。どうやら、接触はしていないようだった。
「ギリギリのところで間に合ったようですね」
同じように窓から外を覗いていた男性が声を掛けてきた。本当に一歩間違えば大惨事になりかねなかった。
その時、車両内にアナウンスが流れた。
「お急ぎのところ、大変ご迷惑をおかけします。ただ今、踏切にダンプカーが立ち往生していまして、この電車も停車しているところです。大至急、車を移動させますのでもうしばらくお待ち下さい。なお、急停車でお怪我などされた方がいらっしゃいましたら、車掌が回りますのでお申しつけ下さい。……」
その後も車掌はくどくど説明していたが、どうやら電車のほうには落ち度はない事を伝えているらしい。しばらく待つしかなかった。携帯で大河に簡単に状況を話して、遅れる旨を伝えた。まだ、彼は会社らしいが、日隈にも伝えると言ってくれた。
あとはダンプが移動して、電車が走れるようになるのを待つだけだったが、なかなか段取りが進まないようだった。乗客には最初のアナウンス以降、情報はなくて、窓から踏切の様子を見ているしかなかったが、冬の日の落ちるのは早くて、あっという間に外は真っ暗になってしまった。それが移動作業を一層困難にしているようだった。
そのうち、退屈した乗客達が何も指示の無いのをいい事に、勝手にドアを開けて線路に降り始めた。車の移動作業がどう進んでいるのか見に行ったらしい。そんな何人かが僕の傍を引き返しながら、対応の不手際を批難していた。
「運転手がタイヤの下敷きになっているらしいぞ。踏切で脱輪して、馬鹿なことにジャッキアップして抜け出そうとしようとしたらしい。ジャッキが倒れてそのまま……」
「段取りが悪すぎるぜ。牽引する車さえ来ればすぐどかせるのに。渋滞に巻き込まれているらしい。このままではあの運ちゃん、助からないぞ」
これはどうやら人命にかかわることのようだった。救出を急がなければいけないのに、頼みの牽引車がなかなか到着しない。
僕はさっきから自分の中のよく分からない興奮を必死で抑えていた。
最初は勃起のような、妙に若返ったような力の蘇りを感じただけだったが、次第に筋肉が膨れてくるように感じ始め、服が今にもはちきれそうになっていたのだ。心臓が外に飛び出すかと思うほど激しくドクドク打ち始め、鼻息も荒くなってきた。
何か訳の分らない事が僕の身に起こりそうな、そんな予感がしたのだ。
なんとかこの場から離れなくてはいけない。服が破れる前に、取りあえず脱いで様子を見よう。そう思った僕はトイレに入って急いで服を脱ぎ始めたがこれがギリギリのタイミングであった。ショルダーバッグの中に脱いだ服を押しこんだところで身体が一気に膨れ始め、下着はあっという間にちぎれてしまった。全身の毛が伸び始め、身体はみるみるこげ茶色に変色した。
ふいに悟った。僕は馬に変身している。
最初に襲ってきたのは人間から獣に変身してしまうと言う怖さより、このままトイレの中で膨れ上がって壁との間で潰れてしまうという恐怖だった。僕は必死でドアを開け、そのまま転がり出て、開いたままになっていた列車の扉から車外に飛び出した。
幸運にも乗客の殆どは踏切のほうを見ており、僕のほうを見た者も全身黒っぽい、巨大な男が転げ落ちたとしか思わなかったであろう。
列車の外の暗がりにでた開放感からか、僕の変身は一気に進んだ。
そして気付いた時には僕は首にバッグを掛けたまま、一頭の逞しい黒馬になっていた。僕はそのまま本能に導かれるかのように前進して、踏切の傍に近づいた。運転手を救う手助けが出来るという確信があったのだ。
最初に僕に気付いたのは近くにいた逞しい老人だった。一瞬、僕を見てびっくりしたようだったが、すぐに落ち着いた様子で僕の全身を眺め、大きくうなずいた。そして僕の首筋を優しく叩くと、なでながらみんなの集まっている方に導いてくれた。
「おうい、誰か牽引用のロープと鞍を持っていないか。絶好の牽引役がやってきたぞ」
「おやっさん、こりゃ見事な馬じゃの。オレの車の荷台に鞍があるぞ。しかし、こいつ一頭でやれるかのう」
最初、僕はおやっさんと呼ばれた男も含めて僕の出現にそんなに驚かない事が不思議であったが、やがてその訳が分かった。ここ富里町には馬の飼育場があちこちにあるのだ。彼らもきっとそこで働いている牧場の男たちで、馬を見慣れていると共に、このように馬が外にいるのもよくある事なのだろう。だから、誰かがおやっさんの言った、牽引鞍を持っていても不思議ではない。
「しかし、おやっさん、この馬はサラブレッドじゃないな。もっと逞しい、力の強そうな馬じゃ」
「そうよ、それでないとわしもこんなことは考えん。こいつならこのダンプを引っ張りきる、そんな直感がしたんじゃ」
僕は思わず大きく首を振って頷いた。自分でも不思議だったが、全身に漲る力を感じて、電車ですら引っ張れそうな気がしていたのだ。
アッと言う間に僕の身体に牽引用のロープと鞍がつけられた。そして多くの人間がトラックを後ろから押すようにかまえ、また残りの多くの人間が見守る中、ダンプの牽引が始まった。
僕は昔、西部劇映画で見た、ぬかるみにはまった幌馬車を引く馬のように足を踏ん張り、全体重を前に掛けて引っ張った。おやっさんも首の横を優しくつかんでドウドウと叫びながら僕を励ましてくれた。
綱はピンと張り、肩にダンプの重さが掛った。それでも僕は少しもきついとも痛いとも感じず、ますます溢れてくる力にわくわくしながら、踏ん張った。
「おうおうおう」
周囲で凄い歓声が上がった。その重いダンプがついに動き始めたのだ。一度、動き始めるとあとは楽だった。後ろで押す人たちも歓声を上げて一層力をこめた。一気にダンプは10メートル動いて、踏切から脱出した。運転手も直ちに救い出され、救急車に運び込まれた。
「偉いぞ、すごいやつだ。お前は」
おやっさんは本当に嬉しそうに、誇らしそうに僕をなでてくれた。僕は大声で叫んだ。
「ブヒヒヒーン!」
「しかし、一体どこの馬じゃ。オレはこのあたりでこんな馬は見たことないぞ」
「そうじゃのう、オレも初めてじゃ。サラブレッドではないし、だいたい馬一頭でダンプを引っ張れるものかのう」
最初、単純に僕の力に感嘆していた男達は、一段落すると今度は僕の事を怪しみ始めた。僕自身、運転手を救出したところで不思議な興奮は少しずつ冷め始め、冷静になってきた。このまま、捕らえられたら一体どうなるのだろう。早く、この場から逃げ出さなくては大変な事になるぞ。
しかし、まだ僕の背中には牽引に使った鞍がしっかり留められていた。僕はおやっさんの方を見つめて、大きく身体をゆすった。おやっさんは僕を見て、言いたい事が分ったようだった。
「よしよし、待てよ。今、外してやるからな」
「おやっさん、何するんじゃ。馬が逃げてしまうぞ」
そばにいた男が叫んだ。
「馬鹿野郎、何言ってるんじゃ。この馬は自分からダンプを引くためにここにやって来たんじゃぞ。このお馬様は富里の誇りじゃ。見事にわしらの面目を果たしてくれたんじゃ。どこへ行こうとお馬様の勝手じゃ」
その言葉に一同は黙った。そして大きく頷いた。
誰もが少しでも感謝の気持ちを表そうと僕の身体をなでてくれた。僕も本当に嬉しくて、何度も何度も大きくいなないた。
やがて僕の身体から牽引鞍が外され、皆は少し下がって大きく僕を取り囲んだ。僕は後ろ足で立ちあがりながら、全身で伸びをして大きくもう一度、いなないた。
それにあわせて、全員から歓声が上がった。
僕はその声を背に受け、走り始めた。このまま房総半島を縦断するつもりだった。僕には向かう方向がはっきりと分っていた。
僕が約束の居酒屋に入っていった時、大河と日隈は驚いたように顔を見合わせた。
「遅れると言ってたが、間に合ったじゃないか。踏切事故は簡単に片付いたのか」
大河の問いにはニヤッと笑っただけで、僕はママに向かって言った。
「ビールを大ジョッキでお願いします」
それから、驚いたかのように付け加えた。
「この店は、テレビは置かないポリシーじゃないんですか?」
こんな事を言ったのは、カウンターの正面の棚に小さなテレビがあったからだった。たしか、日隈の話ではここはテレビなんかない、理想の居酒屋のはずだが。
「そうなのよ、普段はテレビ禁止よ。でも、今日は成田線で踏切事故があって、不思議な救出劇が演じられたって報道していたのでつい、こっちに運んで見ていたの」
「駒園が乗っていた電車だよ。なんでも富里じゅうの馬をかき集めて、ダンプを牽引して踏み切りから引っ張り出したんだって?」
大河が言った。
「まさか。僕は間に合いそうもなかったんで電車から降りて、こっちに直行したんだ」
「房総半島を突っ走って来たって言うわけね。喉が乾くはずよ。さあどうぞ、泡はおまけよ」
ママは自分が偶然に真実を言い当てたとも知らず、なみなみと注いだ大ジョッキを僕の前に置いた。
「今日は本当に喉が乾いた!バケツ一杯でも飲めそうな気分だ」
それから僕は大ジョッキを立て続けに6杯重ねてママと女の子を驚かせた。そして食欲も凄かった。もともと僕は肉が駄目だったが、野菜もそれほど食べていなかった。それが、生野菜サラダをボールで3杯ぺろりと食べた。野菜がこれほどうまかったとは!
「鯨飲馬食と言うけど、駒園の場合は馬飲馬食じゃな」
大河が可笑しそうに言ったが、本当に今夜の僕の食欲、喉の渇きは底無しだった。適当なところで切り上げないと全員の財布を空にしてしまうぞ。
それからみんなで昔話に花を咲かせた。
「千葉はまだ自然が豊かやのう」
話が一段落したところで、僕の口からついこんな言葉が出てしまった。何しろ、成田からここまで、途中、何度か交通量の多い道路を横断しながらも馬の姿で走りとおせる自然があるんだから。
「確かにそうかもしれんな。臨海部は工業地帯になっているが、内陸はまだ田舎で、農業が盛んだ。牛や馬も多いんじゃあないか」
「だから、ダンプを馬で引くなんて事も出来るのよ。でもまたこれで千葉の田舎度が有名になるわね」
ママが可笑しそうに声を上げて、全員が同意した。
「悪いが、今日は泊まれんようになった。どうしても、今晩中に鹿島に戻りたいんじゃ。また今度と言う事にしてくれ」
僕は23時を過ぎようという頃になって二人に言った。
「無理には引きとめんが、まだいいやろう。忙しいのに、わざわざ木更津まで呼びたてて申し訳なかったのう」
日隈が本当に済まなそうに軽く手を合わせた。
もちろん、彼は済まないと思う必要は全くなかったのだ。今夜のおかげで、僕は自分の素晴らしい力を知る事が出来たのだから。僕は房総半島を下ってきながら、この不思議な出来事についてずっと考えていた。そして、この能力は僕に与えられた貴重な授かり物に違いないと悟ったのだ。
富里の野を駈け抜ける時、多くの馬たちの思いが胸を貫いた。彼らの感じている事を同じように感じる事が出来たのだ。そしてその事から、僕は自分が動物と人間が共生していくための貴重な橋渡し役になることが出来るかも知れないとも思った。人類が21世紀を地球と共に生きていくのに必要不可欠の力、それを与えられた喜びで一杯であった。
だが、まだ僕にはこの力はコントロールできそうもなかった。一旦は収まった、さっきの興奮がどうやらまたぶり返してきたようなのだ。だから早くこの場を引上げないとまずい事になりそうだった。
二人に今、この自分でもよく分らない力について知らせる事は出来なかった。ましてや、日隈の家で寝ているうちに変身する訳にはいかなかった。
今夜はもう眠れそうもなかった。酒の酔いも全くなかった。
このまま二人と別れて、もう一度、変身するならその衝動に身を任せたかった。
そして大地を力の限り、走りまわってみたかった。この開放感と筋肉復活の喜びを全身にほとばしらせて、地平の果てまででも、駈けて行けそうな、そんな気がしていた。
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