信州伊那谷のとある農家にて、「静脈」なる映画を残したる傀儡師と会いしこと

 我、信州伊那谷にある街に滞在せり。 南アルプスと中央アルプスの山塊に挟まれ中央を天竜川の流れが貫く土地なり。谷と山が入り組み、風景の変化の激しき高地なり。木陰は夏とは思えぬ涼しき風が吹き抜ける土地なり。

 旅の目的はすでに告知せしめしとおりなりしが、 古都奈良滞在中は、もし東京オリンピックの屋外競技を都心から遠く離し、国民誰もが納得できる競技開催地を全国に求め、またパラリンピックなるものの開催時期を先の東京オリンピック開催と同時期の10月10日に遅らせとする場合、東京都民の不満を和らぐべき国民文化祭なるものを活用せんがためなり。ただ国民文化祭なるものは、すでに三十回を超える開催実績があるにも関わらず多くの多く国民が周知しない祭りなり。その祭りを奈良にて盛大に行うことを願うための奈良滞在なりし。

 次に金沢市に立ち寄りし折りは競歩王国と呼ばれし石川県の県都に競歩競技を誘致せんことを伝えたかきがためなり。

 出会いし者に伝えるのみの立場にて過ぎずが、いかなる人間関係があるか不明なりしに影響を期待せし結果なり。

 何故、伊那谷に至りぬか?。

 まずの目的は、以前、スラーロムなるカヌー競技の一種目を天竜川にて開催する様子を目にしたことがありし。金沢同様にスラーロームなる競技種目を天竜川で行うことを願いしことなり。まず東京都内の某所に莫大な経費を投じ建物を建設、その建物の中に、あたかも遊園地のごときスーラロームコースを設置し競技を開催するなど荒唐無稽なりとしか思えず。しかも渇水の危機が叫ばれる今、狂気の沙汰としか覆えず。4年後の東京オリンピックの気象状況は気象庁の専門官と言えども予想は不可能なりと思いしが、最悪の事態も想定することが最善の策にてと訴えたき。

 次にある傀儡師に企画を覗きたきこともありし。

 オリンピックの開催式行事は能や猿楽、浄瑠璃など伝統芸能を活かすべしと考えてのことなり。これらに共通することは面なり。人間みずからが演ずるにあらず。人形や面が演ずるものなり。イケメンやイケ女が前面に出て演ずる現代劇とは明らかに異なるものなり。その様式が日本人独自のものか人類共通のものか知らず。ただ人形や巨大なロボットを用いて東京オリンピック開催式行事を企画できぬかと考えし。

 参加せしはある人形師の追悼会企画なり。 故人の遺作となりし「静脈」という言葉のない映画や故人出演のTV番組を観覧せし。

 思わぬ収穫ありと直感せしが、消化できず会解散後、長く考えおり。

 図書館で資料を得んとするも収穫なし。やむを得ず口寄せを試みんと決す。

 かくして我、昨夜の追悼会の場であり、故人が練習場として使いし板壁も朽ちかけ、トタン屋根もさびかけ雨漏りもありなんと思われぬ古い農家の駐車場に、深夜、忍び込みぬ。 その夕刻にも故人を偲び数十名の地元の有志が集いしが、すでに今は無人なり。

 月は心細き下弦の月。やがて山影に姿を隠さんとす。

 星は散りぬが、雲や森の木々や竹の笹に阻まれ、誠に薄暗き夜なり。

 我が体調は優れず。すでに太ももの皮膚にはまだら模様の斑点現れぬ。古の我が血族より伝え聞きし神通力の使いすぎにより現れる斑点なり。斑点が全身を覆うがごときは事態になれば死に至りぬ。注意をし無理をなすべからずと申し聞かされたことなり。故に神通力を十分に使うことが出来る状況にあらず。 深夜、廃屋より聞こえし物音で意識が戻りぬ。

 耳をすますと床を叩く木の音に似たり。あたかもピノキオが床を歩くがごとき音なり。 現れしと確信せり。

 静かに車のドアを閉め、廃屋の入り口に忍び歩きぬ。

 入口の階段が見えず、昨夜、危うく転びそうになりし体験より、小さな灯りを用意せり。 朽ちかけた扉は開けし。

 静かに足を土間に踏み入れぬ。土間には一部にはガラス張りのケースあり、古き面などを飾りぬが、げに恐ろしき人相なり。目をやらず土間を忍び歩き、そして練習場の扉を開けし。

 すると面を付け、その上に包帯をせし故人が練習台の舞台に座りおり、正面の我を迎え入れぬ。

 「静脈」なる作品の中で演じし故人の傀儡師なりしことは明白なり。

 異様な光景に覚悟はせしおきものの心の臓は早鐘のごとき早まりぬ。喉も渇き、落ち着きを取り戻すのみしばしの時間(とき)を要すが、自己紹介をせり。

「我は黄泉の国に去りし者の口寄せをするものなり。汝は言い残したきありきが故にあのような作品を世に残ししと思いし。それ故に深夜に訪ね来たりし。汝のためなり。言い残ししことを我の伝えん」

 魂魄は一切、答えず、無視するがごとき姿なり。

「何故、あのような不気味な作品をこの世に残ししや。語られん。すべて汝のためなり答えん」と繰り返しぬが目の前の魂魄は微動だにせず、面の奥より吾の顔を見詰めるのみ。無理矢理、魂魄に言葉を求めるのは不可能なり。遺作であり後世の人々の感じ方に任せんという意志もありなん。

「なら我が申す。我の申すことに異論あれば示されよ」と言い、みずからの考えしことを伝えし。

「昭和二十二年被爆直後の広島に生命を受けし汝は、他人の言葉から見聞したことになりしが、原子爆弾投下後の広島で起きしことを伝えんことこそ自らの人生の使命と決めたにあらずや。故に、演じし前におのが面にも包帯を巻き、当事者と化身し演じ始めたにあらずや。演じる汝自身も被爆せしが、傷は軽い。しかるに娘は重篤である。すでに瀕死の状態なり。包帯を取りし後には皮膚はなく内の肉片も露わになる姿なり」

 魂魄は、一切、答えず。我が熱心な言葉に耳を傾けしか否かも定かにあらず。

「語らねば、我が語らん」と宣言し、言葉を続けり。

「黄泉の国に去らんとする瀕死の娘を励まし、皮膚のむけた娘を介護せし日々。苦しき日々は切々と伝わりぬ。しかるに娘はとうとう激しい痙攣とともに黄泉の国に去れり。やがて訪れる静寂と懐かしい思い出に浸る日々だけにはあらず。理不尽な死に激しい怒りが交互に訪れる日々が交差する日々。とうとう汝は理不尽な出来事が許されるなら蘇生なる奇跡も起こらんと思い付きにしにあらざるや。そして神をも恐れぬ行いを行いしにあらざるや。黄泉に国に去りし者の蘇生こそ自然の摂理を無視する行為なり。しかるに汝は奇跡を期待し娘が遺体を掘り起こしぬ。しかし奇跡は起きず、無残な娘の骸を目にすることになりし。その上に汝は神話の神々と同様に逃げることもできず、石に変ずることもできずに、ただただ時が過ぎるのを待つしかあらず」 魂魄は何も答えず。

「汝が広島が生命を受けたが故に描かねばならなかった物語なりし。汝は命を受け、この世を去る前に果たすべきと役割と定め、人生の全てをかけ、全国を人形を運ぶリヤカーを引き、大衆の前で演じ修行を重ね、そして古くから面や人形に理解深きこの地を完成の地と思い定め、廃屋になりしこの家を選び、原子爆弾の恐ろしさを伝えんがために完成を急いだにあらずや。我が指摘せしとおりの意図で作品を描きしにあらず、他の意志で描きし場合もこの作品は広島に生命を受けたが故に思いつきし作品なり。」

 魂魄は面の下からくぐもりし声が聞こえり。

「吾が遺作なり」と一言、言い残せり。

「我は汝の遺作より重要なことを知れり。言葉を異にする多くの人に伝えんとする時に言葉に頼るは害なり。表情の変化も害なり。故に面にて表情を隠し、言葉を発せず動きのみで演ずることが究極の方法なりし」と。

 魂魄は「遺作なり」との言葉のみを残し消え去りぬ。

 一切が不明なままに夜がしらみぬ。一切が我が望みしたる故のが妄想なりしか想像に任す。

 無常なり。

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