第5話 かぐや姫はワガママなんかじゃない
朝、目を覚ます。雨脚が屋根を叩く音が降りてくる。いつもより部屋の中は薄暗い。カーテンを開ける。窓の向こうで、用水路が雨に煙っていた。
パジャマのままキッチンに行く。テレビの画面で時間を確かめる。
「おはよう」
ママはフライパンを持ち上げて、レタスとプチトマトの隣にオムレツを乗せていた。トースターに食パンを入れて、ミルクを注いだマグを電子レンジで温める。パパはまだみたいだ。ケチャップをつけたオムレツをフォークで切り分けて、トーストに乗せる。
ミルクを飲み干して、キッチンを飛び出した。脱衣場でパジャマを脱ぐ。下着姿の私が鏡に映る。なんだか最近、じっくり見つめてしまう。慌てて廊下から階段へと向かう。
今日は雨だ。つまりママはゴム長靴を履いて行けって言うに決まってる。
絶対にいや!
四年生にもなって、どうしてゴム長靴なんて履かなきゃならないの? かっこ悪いよぅ。学校の下足入れにそのままじゃ入らないから折り畳んで押し込むんだよ。泣きそう。で、もし帰りに雨が上がっていたら最悪。ゴム長靴をきゅっきゅっ言わせながら歩かなくちゃならないの。そんな一年生みたいなこと、やってられないわ!
鞄を背負って、足音を忍ばせて一階に降りる。玄関の上り框にそっと座る。スニーカーにパパの防水スプレーを吹き付ける。これで大丈夫。雨水がちょっとソックスに沁みちゃうけれど、きゅっきゅっに比べたらぜんぜん平気よ!
「澄香、おはよう。今朝は早いな」
うしろからパパの声がする。心臓が張り裂けそうになった。「おはよう」と言いながら大急ぎでスニーカーに足を突っ込む。パパったら、なんであんな大きな声で! 聞こえちゃうじゃない! ほんとにもうっ!
「もう行くの? 澄香」
ママの声がキッチンから聞こえた。傘立てから私のピンクの傘を引っ張り出す。
「今日は雨だから、ちゃんとゴム長靴で行きなさいよ。あっ、澄香ちょっと待ちなさいっ!」
行ってきまーす、と言いながらドアを開けて外に飛び出す。雨音が周りを包み込む。開いた傘を抱きしめて、水溜りのできたスロープを一気に駆け降りた。
ゆうべはひさしぶりに長屋へ行かなかった。雨の日はお休みすることにしたんだから仕方がないんだ。でも、なんだかすごく気になった。
雨の部屋で男の子はじっと座っていたのかな、って。
アスファルトの端には雨水が流れ込んでくる。スニーカーの底は早くも湿ってきた。登校班の待ち合わせ場所は神社の鳥居のところだ。一年生が黄色い傘を差して集まっている。もちろん黄色いゴム長靴を履いて。ふふん。スニーカーの赤地をわざと見せびらかして歩く。車がやって来て、追い抜きざまに水溜りを撥ねて行った。とっさに傘を向けて水を防ぐ。やったぁ、私、完璧じゃん。向う脛から靴にかけてまともに水を被ったけど、いいの、そのくらい。私に気づいた一年生の一人が声を出す。千夏ちゃんだ。片手を挙げて道路を渡った。スニーカーの中はきゅっきゅって鳴り始めている。
裸足のまま上履きを履くと、足の裏がざらざらする。昇降口でスニーカーを脱いで、ついでにソックスも脱ぐ。雑巾並みに濡れていた。絞って、教室まで持ってくる。私の机の横パイプに掛けて干してある。男子は履いたままでストーブに翳して乾かそうとするから、教室中に変な臭いが漂うことになる。さすがにそれは無理。こうやって地味に乾かしておいて、雨上がりのアフタースクールを華麗にキメてやるんだから。
「ぴゅあー、おっはよー」
春菜ちゃんが教室に入ってきた。タオルを被っている。クセっ毛をドライヤーで押さえつけているのが、湿気が強いとほどけちゃうらしい。一度、男子に「アフロ」って言われてから、落ち着くまでタオルに頼っている。
「今日も最悪だよー。泣きそう」
「よしよし」
タオルの上からぽんぽんと叩く。洗いたての猫みたいにふるふるしている。そのまま撫でているうちに、一昨日のことを思い出した。
男の子はいつものように微笑みながら座っていた。でも、その笑顔はなんだかさびしそうに見えた。通り抜けてしまった右手がひんやりする。青い光が目の奥にしみこんでくる。
「私が連れて行ってあげること、できないのかな」
泣きそうな声だった。そっと洟を啜る。男の子の動けるのは、この青い光の届く範囲だけらしい。もし窓を開けても、裏庭だって照らせるかどうかわからないよ。
嗚咽が遠のいたころに、男の子はぽつんと呟いた。
「できないこともないんだ」
思わず顔を見上げる。男の子はいつもみたいに穏やかだった。つばを飲み込む。
「容れ物に入れてくれればいい」
ちょ、マジで?
胸のあたりに温かいものが溢れてきた。なんだ、そんなことでいいんだ? もっと早く言ってくれればいいのに。
「いいよ。入れてあげる。どんな容れ物がいいの?」
大きさからすると冷蔵庫の入っていたダンボール箱とかいいんじゃないかな。いや、体育座りくらいはやってもらうとして、引越センターの名前入りの箱もあったっけ。いっそ、70リットルくらいのポリ袋なんかどう? 風船みたいにぽんぽんしながら運んであげちゃうわ。
男の子の笑顔が消えた。この部屋で出会ってから、こんな顔は見たことないよ。息を殺して窺う。
「言えない」
え?
それってどういうこと。
「俺が言っちゃうと、噓になるんだ。言わないまま、スピカが見つけてくれればいいんだけれど」
……よくわかんないんですけど。
「えと、アンタは知ってるんだよね、どんな容れ物ならいいか?」
ほんのすこし眉を寄せて、うなずく。
「でも、それを言っちゃうと噓になる? どうして? 言えばいいじゃん」
もしかして、からかわれているんじゃないかって思った。でも男の子の顔は真面目で、ほんのすこし悲しそうだった。しばらくして、口を開いた。
「わかってもらえると嬉しいけど、自分から口に出しちゃいけないことってあるんだ。だからスピカにやってくれ、なんて頼まないよ。無理かもしれないし。気に障ったら、忘れてくれていい」
そう言って、柔らかな笑いに戻った。
そんなの知らないよ、で済ませてもいいはずなんだ。
言ってくんなきゃ手伝えないよ、で撥ねつけたら? そうだね、って笑っているだけなんだろうな。「頼まない」って言ったんだから。
でも。
用水路の水門まで、行きたかったのは本当だろうな。でも、自分じゃ行けないまま、何十年もここにいるんだ。私を焦らしたり怒らせたりして面白がる理由はないよ。そう、どうしようもなくて、あきらめて、そのうち期待するのも止めて、コイツはここにいるんだ。
「ヒントくらい、出しなさいよ」
かすれた声になった。むかつくけれど、なんだか男の子が滲んで見えた。素っ裸のくせに。朝顔のつぼみをつけてるくせに。年下のくせに。
私の、叔父さんのくせに。
どれくらい経っただろう。かすかにうなずいたように見えた。
「スピカが持っているものだよ」
……すごいヒント、ありがとう。
雨の日の春菜ちゃんの髪を弄っているうちに、先月、春菜ちゃんの家に遊びに行ったときのことを思い出した。
アウトレットモールで買ってきた冬物のニットをタグのついたまま着せ合っていると、玄関で物凄い音がした。そのまま廊下をどすどす歩いてゆく。「夏葵ねーさんだよ」声をひそめて春菜ちゃんが言う。
「彼氏の星太くんとうまくいってないみたい。星太くん、すっごい頼りないんだ。ねーさん、そういうの大嫌いだから」
ほう、それでそれで?
冬物大会は中止になって「星太くんがどれだけ頼りないか」ウキウキ糾弾大会が始まった。
「どこに行くにもまず『どこに行きたい?』って訊くらしいんだ。最初のうちは優しいんだって思ってたけど、そのうち嫌になってくるって」
別にいいんじゃない、と思ったけれど、春菜ちゃんは思い切り顔をしかめた。
「だって、それって全部こっちに丸投げしてるわけでしょ? ねーさんが選んだ場所へ一緒に行って、もしつまんなかったら、ねーさんが選んだのに、ってことになるじゃん。めっちゃイライラしてくるって」
あー、そういうこと。
「あとね、誕生日やクリスマスの前になると、何が欲しいか聞いて来て、その通りのものをくれるんだって」
それは……、ああ、そうだねー。
「ね? それって自分で選んで自分に贈ってるのと変わんないでしょ。包みの中に何があるのか分かってるなんて、萎える。自分の彼女が何を欲しがってるかくらい、言わなくても分かれよ、ってねーさんキレてた」
こういうのって、男のひとからするとわがままに見えるんだろうな、って思う。でも、こっちが何を欲しがってるか、言わなくても分かって欲しいって、女の子なら誰でも思ってるよ。
春菜ちゃんが力を込めて言った。
「何が欲しい、って訊かれて答えたら、もうそこで欲しいものじゃなくなるよね。やっぱり、男はそんなこと訊いちゃダメだよ。絶対にね」
そうだった。
むかーしむかし、月の世界からやって来たお姫さまにプロポーズしたひとたちがいた。お姫さまはひとりひとりに欲しいものを言って、それを持って来たら結婚しますって約束したんだ。それがまたありえないものばっかで、探しに行ってひどい目に遭ったひともいたっけ。
だけど、お姫さまの気持ちもわかる。妻にしたいと思うひとが欲しがっているものを言われるまで分からなかったってとこで、もうダメなの。だから、ある日突然、現われて「マドモワゼル、貴女にお似合いだと思って、持ってまいりました」と火鼠の皮衣を差し出したら……どっきゅーんでしょ? 月に還るとかこっち置いといて、惚れちゃうわよ!
「かぐや姫はワガママだ」なんて思うひとは、ぜーんぜんわかってないよ! かぐや姫どころか、女の子の気持ちが、まるっきり。
お姫さまを手に入れたいなら、何も言わずにちゃんと、お望みのものくらい用意できなきゃね。
春菜ちゃんの髪を梳かしつけながら、曇った窓ガラスに目をやる。
分かったよ。かぐや姫を口説き落とせばいいんでしょ?
やってやろうじゃない!
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