第4話 ひとに言えないことって、本当にたくさんある
夕ご飯とお風呂をすませて、夜の八時までに目覚まし時計と一緒に布団に入る。午前零時にアラームに起こされて、身支度をしてこっそりと長屋へ向かう。
気分的な問題だけれど、雨の日は行かないことにした。
でも、社会の時間に習ったけれど、うちの県は日本でいちばん雨の降らないところらしい。ずっとここに住んでいるから、よそとの違いはよくわからない。でも、言われてみれば、雨が続くとなんだかうきうきする。傘を差すのが新鮮だから。
つまり、ほぼ休みナシってわけね。
いくら四時間の仮眠を取っているとはいえ、ほぼ毎晩、長屋の二階へ通うのはさすがにしんどい。だけどLINEをやっている子なんかはもっと眠そうにしている。
「颯太くん、なかなか寝かせてくれないんだよねー」
「玲央だってけっこー激しいよー」
ねぇ、もしかして、ヘンなこと考えたりしてない?
「巴菜のやつ、しつこくってさー。身体もたねーよ俺」
「紗羅もだ。早く済ませたら『私のこと好きじゃないんだ!?』ってキレんだよなー」
そこ、何にやにやしてるの? もうっ、信じらんない!
ママが「ケータイは高校に入ってから」って持たせてくれないのは、ある意味助かってる。LINEの愚痴トークからハブられるのはむしろ大歓迎だし。
今は冬だけど、朝の五時くらいに家に戻って布団に入れば、プラス二時間は寝られる。それでも、やっぱり眠い。ママに起こされたあと、つい二度寝しちゃうこともある。
あ、もしかして昔話とかで「幽霊に精気を吸い取られた」「やつれた」ってあるけど、それって単に「睡眠不足」だったんじゃないかな? 全裸のおねえさんやイケメンに睡眠時間削って会いに行ってりゃ、そりゃしんどいでしょうよ。
それはともかく。
「最近、瘦せたんじゃない?」って春菜ちゃんに言われた。春菜ちゃんもケータイなしっ子だ。そういえば、私の友だちはみんなそう。美登里ちゃんなんかはケータイ禁止しても意味がない気がするけれど。洋子ちゃんたちと一緒に、ケータイ持つのやめようね、って言い合っている。でも、こういうのって、カレシなんか作らないでいようね、と同じで、誰かが抜け駆けしそう。え、なら約束なんかしなきゃいいって?
そうはいかないのっ!
いろいろあるのっ!
たいていは言いだしっぺが真っ先に裏切る。ケータイについては…あれ、私だったかもしれない? カレシについては…まあ、いいでしょそんなこと!
板戸を開ける。真っ暗なはずなのに、どこに何があるかわかってしまう。
私って猫?
にゃあ。ちりんちりん。
梯子段をゆっくりと登る。いつも不思議なのは、段の途中までは頭の上は闇だってこと。頭が二階の床を越えると、水面から顔を出すみたいに青白い空間が広がる。影のない畳の向こうに、男の子が座っている。いつもどおりの、まっぱ、だ。
「早いね、スピカ」
なんだかもう、訂正する気もなくなっていた。友だち限定の「ぴゅあ」に替えてもらうほど大胆じゃない。なにしろ、コイツの前じゃ「ぴゅあ」じゃない要素ばっかりさらしてるんだもん。
私用の椅子は部屋の真ん中に置いていた。男の子はものを持ったり動かしたりはできない。私がそこへ椅子を持って行って、座ることにしたんだ。
向かい合って座る。
小学校で男子のそばに行くと、何とも言えないにおいがする。汗臭さもあるけれど、それだけじゃない。放りっぱなしの雑巾に近いにおい、と言ったら失礼ね、雑巾に。女の子は三年生くらいになると、自分の身体の「におい」に敏感になってくる。制汗剤や消臭スプレーを使ったり、さらにプラスアルファでにおいをつけたりする。でも男子はそのへんに気が回らない。蒸れた靴下のにおいをさせて平気だったりする。あ、もちろん、洋一くんは別だからね。洋一くんならちょっとくらい汗のにおいをさせていても、むしろご褒美ってくらいで。
…何よ、アッタリマエでしょ! 男子だって、ピーな女の子のことなんかボロカスに言ってるじゃん? ソレと同じ。
でも、目の前の男の子からはにおいがしない。
いつも通り、裸の身体がそこにある。
まだ一年生のころだっけ。プールの授業のあと、男女一緒に教室で着替えたのを思い出す。生乾きの髪からカルキのにおいをさせながら裸足で駆け回る男子からも、バスタオルを巻いた中で水着を脱ぎ捨てて下着に穿き替える女の子からも、同じにおいがした。
においが同じになるって、いいな。
そう思ったんだ。もちろん、自分がいいなって思った相手と、だけど。
この男の子と、同じにおいになることはできないんだ。
別に、私がそうなりたいって意味じゃないからねっ! だいたい、おじさんだよ? うちのパパと兄弟なんだから。パパみたいに、そろそろ加齢臭がしている年齢なんだよ。もし、生きていれば、だけど。
自分の手首を嗅いでみる。布団のシーツと、お風呂のボディソープのにおいがした。
「そう言えば、おじさん、なんで亡くなったの?」
パパも、喜代子おばあちゃんも、昭二叔父さんについてはあまり話してくれなかった。空気がなんとなく湿っぽくなるのがわかってからは、私から訊くこともなくなった。幼い子どもが亡くなって、代わりにタブーがひとつ生まれたみたいだ。でも直接、本人に訊くなら大丈夫かもしれない。
男の子は目を少し細めた。
「俺、生まれたときからずうっと身体が弱くってさ。いつもこの部屋に寝かされてたんだ。あんまり外で遊んだこと、なかったんだよね」
思わず畳から靴底を浮かせる。男の子はちいさく笑った。だけど、それを額面通りに受け取っちゃまずい気がする。
「いちばん日当たりがいいからって母さんがこの部屋に決めてくれたんだけど、窓から田圃が見えてさ。健兄が友だちと一緒に遊んでるのが見えるんだよ。口惜しかったなぁ」
健兄って、パパのことだ。パパが田圃で遊んでいる光景を思い浮かべてみる。
ゴルフをしている姿しか浮かばなかった。
「あれは、部屋に蚊帳を吊ってたのを憶えているから、夏だったな。窓の外からすごい笑い声が聞こえたんだ。田圃は稲が育っているから入って遊べない。何なんだろうって、起き上がって、窓から外を見た。炎天下だった。健兄たちが、用水路の中に入ってばしゃばしゃやってたんだよ。水しぶきがここからでも見えた」
用水路の水は、緑がかって濁っている。表面には藻も浮いている。あれに入ったら全身、ぬるぬるになっちゃうでしょ。ていうか、パパ、なんてことを。
「熱っぽかったんだ。母さんは氷嚢を持って来てくれてたけど、とっくに溶けて生温かくなっていた。涼しそうだった。健兄たちを見てて、なんだか泣きそうになった。ああやって水を掛け合って、涼しくなって、母さんにどやされて。そういうの、一度もなかったから」
男の子の肩を見る。ほっそりとしていて、手のひらで包めそうだった。腕相撲なら瞬殺できそう、と思ったところで気づいた。
もしかしたら、腕相撲なんて一度もやったことがなかったかもしれない。
「パジャマの上だけランニングに着替えて、そこの梯子段を降りて行ったんだ。ゴム草履を履いて板戸を出た瞬間、眩暈がしたな。ふだん歩かないから。田圃の稲穂がものすごく背が高く見えた。裏の土手を越えて、畦道に入った。健兄たちは水門に上っては用水路目がけて飛び込んでいる。どっぽーん、って音が飛沫とともにあがって。あそこまで行って、俺も飛び込みたいって思った。あとで母さんに叱られてもいい。叱られたことなんてなかったから」
今は冬だ。夜空にはオリオン座が出ている。冬の大三角だって見えるはずだ。
でも、閉まった雨戸の向こうに真夏の昼下がりが見えた気がした。
「畦道ってあんなに凸凹してるんだね。知らなかった。歩いているうちにくらくらしてきた。蝉の声が耳鳴りみたいに聞こえるし。健兄たちの声が近づいてくる。木橋のところで、思い切って声をかけたんだ。兄ちゃーん、って。足元が急に裏返った。黒い水面が近づいて、飲み込まれた。冷たかった。生臭くて、鼻の奥がつーんとして。でも、そんなの初めてで、うれしかった」
もういいよ、って言いそうだった。
涙が出てきた。
真夜中、だよ?
目の前にいるのは裸の男の子、だよ?
八歳で亡くなった、私の叔父さん、だよ?
笑うとこでしょ?
だけど、泣けちゃったんだ。
女の子の涙は世界でいちばんきれいな武器だって言うけれど……。
どうして泣くと洟が出るんだろう。しかもドラマや映画とかだと、それに続けてキスしたりしてるし。いまにも垂れそうなときにあんなにくっつくなんて信じられない。たとえば洋一くんと、その、そういうことになったとして、鼻先から垂れたのがほっぺについちゃったりしたら……
いやぁぁぁぁぁぁぁぁっ! 殺してっ! いいから殺してっ! お願いだから!
ていうか、洟をこらえて口だけで息してるときにキスなんてしたら窒息しちゃうよ。もしかして命懸け!? どんだけ濃い世界なの?
とりあえず、おとなになる前に1分は息を止められるようにしとかないと。そしてもうひとつ、今度からはぜったいにハンカチとポケットティッシュを持ってこなくちゃね。女の子はいつ武器が必要になるか分からないんだから!
かっこ悪いけど、体操着の袖でそっと拭く。しゃくり上げるのがおさまるまで膝を摑んでうつむく。影のない青白い畳はグーグルマップの砂漠みたいだった。
洟の心配がなくなったところで、おそるおそる目を上げる。男の子はいつもの笑顔を浮かべてこっちを見ていた。ここで「大丈夫?」なんて言われたら私は破裂しちゃったと思う。黙って心配そうな顔をされるのもバツ。追い詰められ感がハンパないもん。当たり前みたいに泣かせてくれるのって、ものすごく安心する。なんていうのか、大きな優しさ、みたいで。
これで、まっぱでさえなきゃ、どきんとしちゃったかもしれない。いや、裸なんだからそりゃどきどきしてるんだけど……。
って、なに言わせるのよっ!
いろんな意味で熱くなった顔を上げる。男の子の笑顔を見ると、熱湯からお風呂のお湯みたいになっていく。
「健兄たちが用水路から引き上げてくれて、家まで運んでくれた。でも、それからすごい熱が出て、気がついたらこんなになってた」
そう言って男の子は両手を広げてみせた。
その前にしばらく泣いたし、もう涙は出て来ないだろう、と思ってた。でも、駅のホームに取り残されたみたいな言い方しないでよ。男の子が乗って行くはずの電車はとっくに出ちゃったんだ。しかたがないから、ホームでずうっと待ってたんだ。でも、電車は来なかったんだね。
そんなのって、ないよ。
鼻先を体操着の袖に押し当てる。なんだかもう、恥ずかしいとか言ってられない気がした。洟がどうしたっての!? まっぱよりはマシじゃん! 生きてるんだから洟くらい出るよ! 文句あるならかかってこーい! 洋一くん以外ならいつでも相手してやるっ! いや、洋一くんなら別の意味で大歓迎だけど……。
「なんていうかさ、アンタ、心残りがあるんでしょ? こうしたかった、みたいな。それ、教えてくれないかな。協力するよ」
男の子がまばたきするのを初めて見た。必要ないはずなのに。椅子の座面から下に伸びた足をぶらぶらさせる。もうちょっと、というところで畳には届かない。なんだか心が痛くなる。
男の子は私の少し上に目線を移した。
「んー、元気な身体になりたいとか、思い切り走り回りたいとか、そういうのはあるけれど、どっちかと言えば憧れみたいなものだから。心残りって言えば、やっぱり、あの水門のところまで行きたかったな」
真夏の水門のイメージが浮かんだ。照りつける陽射しの中、陽炎に揺らめいているコンクリートと鉄の仕切り。男の子のころはもっと違って、木製とかだったのかもしれない。でも、あそこまでならいくらでも連れて行ってあげる。ひとりじゃ行けないなら、私が手をつないで。
「じゃ、いまから一緒に行こう。夜中だから、誰にも見つからないよ」
私は椅子から立ち上がった。たいせつなことってひとそれぞれだと思う。ひとりで寝ることだって、洋一くんと仲良くなりたいことだって、知らないひとから見れば「くっだらねー」のひとことで片付いちゃうかもしれないもん。水門まで行くのがとてもたいせつなことで、でもひとりじゃどうしようもないなら、いくらでも力になるよ。
裸の男の子に手を伸ばす。考えてみれば、触れるのは初めてだ。こうして右手を取って……。
あれ?
私の指先は、椅子の座面に触れただけだった。男の子の手を突き抜けて、手首と肘の真ん中あたりに白い肌が見える。頬と頰が触れるくらいに近づいている。
「いや、こういうことだからさ。スピカの気持ちは嬉しいけど」
男の子の困ったような声が聞こえる。
ほんとうに初めて、男の子の力になりたいって思ったのに。いくらでも力になるって決めたのに。
椅子を摑んだまま、私は心の中で叫んだ。
私の力の、ばかぁっ!
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