第3話 一休さんの気持ちがなんとなくわかる

 並大抵のことじゃないと思う。

 だって何十年もの間、放置されていたんだもん。家の中にそんな空間があるなんて、友だちに言ってもぽかんとされるだけだ。アパート住みの美登里ちゃんなんか「嫌味かゴルァァァァ」って叫びそう。

 でも、なんだか気になって仕方がない。誰もいないならともかく「いる」んだもの。


 日曜日の朝。ピンクのジャージ上下姿で、箒、雑巾を持って、私は長屋の前に立っていた。裏の道を隔てた田圃からは雀の鳴き声が聞こえる。

 やっぱり、ああいうところにずっといるなんて、よくないよ。どうせならちょっとくらいきれいにしたほうがいいよね。

 板戸は思ったよりも静かに開いた。唐箕とリアカーの間をすり抜ける。灰色のもやもやした塊は、藁束だ。なんだかアンモニアっぽいにおいがする。ネズミのおしっこだ。あまり考えないようにして、つきあたりまで歩く。入口から射し込む反射光で、梯子段は白く見えた。スニーカーを載せると、ぽわっ、と煙が立った。靴底の感触はなんだか柔らかい。


 これって、ものすごい埃…!


 気持ちが折れそうになったけど、息を止めて段を上る。

 二階は、あのときみたいに明るくない。でも、右手の方からぽつ、ぽつと光が射し込んでいる。手探りで近づく。畳を踏む感覚だ。気にはなるけれど、今はそれどころじゃない。

 指先が何かに触れる。格子、かな? ぽくぽくした手触りは、やっぱり埃、か。横に押しあけると、粗い板があった。太陽の光で、ほんのり暖かくなっている。引手を探り当てて、力を込める。開く、というより、押しのける、という感じで横にずれていく。光の長方形が目の前に広がって行く。眩しくて目を細める。冬の朝の田んぼが広がっていた。用水路の周りには靄が立ちこめている。細かな水滴が宙に漂っているのが見える気がした。


 ていうか、本当に見えるんだけど?


 おそるおそる振り向く。灰色の畳には私のスニーカーの足跡がくっきりとついていた。一つ一つから舞い上がった埃が、開いた窓に向かってゆっくりと漂ってくる。スローな竜巻みたい、とか言ってる場合じゃない、ね?


 ごめん、無理!


 窓から顔を突き出して息をいっぱいに吸い込む。駆け出したいけれど、それだとよけいに埃が舞い上がるので、ゆっくりと畳を横切る。梯子段を降り切るあたりで息が限界になる。出口の長方形の光が潤んで見える。眩暈がしそうになるのを堪えて、外へ駆け出た。

 膝に手をついて、呼吸の治まるのを待つ。陽のあたる部分は暖かいけれど、影になった部分は冷え込んでいた。

 長屋を見上げる。二階の雨戸が半分ほど開き、薄い煙が流れ出ていた。

 たぶん、事情を知らない人が見たら、119番通報しかねないレベルだ。


 想像以上、よね。


 箒と雑巾で何をどうするつもりだったんだろう、私。あれじゃ掃除機のフィルターがあっという間にいっぱいになるよ。ていうか、あそこへ掃除機を持って行ったらママに殺されるかも。それ以前に、電気のコンセントなんかないよ、長屋には。

 鼻がむずむずする。ポケットからティッシュを取り出して洟をかむ。何気なく開いてみて、ぞっとした。


 なに、この黒いの!?


 顔に触れる。粉を吹いたようにざらついていた。これじゃ髪だってひどいことになっているだろうな。甘かった。教室の大掃除くらいのつもりでいたよ。あれだって男子がはたきをかけるとチョークの粉が舞い上がってすごいことになるけど。でも、これほどじゃない。二階の窓を見る。甘かったー。こんなの、私の手に負えないよ。やめやめ。珍しく自分から掃除しようなんて思いついたから、バチが当たったんだね。

 真っ黒に汚れた手を洗いに行こうとして、箒と雑巾を持っていないことに気づく。あそこに放り出して来たんだ。取りに行かなきゃ。それに、雨戸も開けっ放しだし。まだ何もしていないのにどっと疲れが出る。


 二階からはまだ、埃がたなびいている。どんだけよ、と思う。人がいないっていうのは、掃除をする人がいないってことなんだね。私の部屋だって、ママに叱られなきゃ掃除なんてしないし、散らかっているけれど。でも、あそこは、ほんとうに誰も掃除しない。あの男の子は、掃除したくてもできないもん。箒を持ちたくてもするっと通り抜けるだろうし。あそこで、どんどん埃が降り積もって行くのをじっと眺めているのはどんな気持ちだっただろう。鼻の奥がじんわりとしてくる。

 どんな気持ち、だって? 

 ばかじゃないの、私。


 そんなの、さびしいに決まってるじゃない!


 ジャージ姿で、こっそりと家に入る。

 パパはゴルフにでかけちゃったし、ママはまだ寝ているみたい。

 もし見つかったら大ごとだ。

「何やってるの? まー、汚い!入って来ないで!上り框のところで全部脱いで、シャワー浴びて!」

 いいけど、そこに突然お客さんがやって来て、しかも特殊な趣味の人だったりしたら、けっこうめんどくさいことになるよ? 

 幸い、ママの起きる気配はなかった。

 裏口から外に出た私の姿を誰にも見られなかったのはラッキーだったと思う。水泳のゴーグルと花粉用のマスク。頭にはタオルを巻きつけてタオラー仕様。両手にゴム付き軍手、足元はゴム長靴という完全装備。


 うん、わかってる。


 どこに出しても恥ずかしくない立派な変質者だよね。


 悪い? ごちゃごちゃ言ってると触るぞ、コラ!


 得物も用意した。庭掃除用の竹箒と柄付き塵取り。それから、物置に放り込まれてたモップ。先っぽに雑巾をはさむ。そして、はたき。天井とか壁とかもう、すんごいことになっているから。そしてもちろん、70L容量のごみ袋を、いちおう二袋。足りると思うけれど、もしいっぱいになったらどうしよう。うん、そのときは中身を裏の畑にぶちまけて再利用するしかない! 腹をくくって長屋まで歩く。敷居を越えて梯子段の手前まで来る。モップはあとまわしだ。壁に立てかけて、右手に竹箒を、左手に塵取りと袋を持つ。梯子段に足を掛けようとして、竹箒の先が段に触れた。ばさっ、という感じで溜まった埃が散り、舞い上がる。


 上等じゃん。


 塵取りと袋を放り出して、竹箒を構える。マスク越しに息を吸い込む。段を踏みしめる。雨戸の開いた二階はぼんやりと明るい。ほつれた蜘蛛の巣が天井から垂れ下がっているのが見える。最上段まで駆け上がり、埃の舞う梯子段を見下ろす。竹箒を当てて、そっと掃く。一階に向かって埃がばさばさと落ちて行き、あってはならない感じのキノコ雲になって湧き立つ。


 よーし、かかってこーい!


 竹箒を使いながら一段ずつ降りてゆく。一階からの雲は顔の周りを覆って、段がようやく見えるだけになる。マスク越しに埃の粒子が入って来ているのが分かる。なんてところにいたのよ? よく我慢してたよね。いちばん下まで掃き終えた。床に降り積もった土埃は、雑に掃くとすぐに舞い上がる。竹箒を寝かせてそっと掃き集める。柄付き塵取りに掃き入れて、いっぱいになったところで長屋から出る。外はぼんやりとかすんでいた。畑のところまで行き、塵取りの中身をそっと捨てる。灰色のベビーパウダーみたいだ、と思う。

 息苦しい。マスクを外して深呼吸するついでにゴーグルを外す。とたんに視界がクリアになった。レンズの表面を埃がびっしりと覆っていた。何だか笑いそうになる。ばかじゃん。ゴーグルだってそりゃ、埃がつくよね。ジャージの裾をめくって拭った。


 さて、本番。


 ゴーグルとマスクをつけ直す。長屋の入口からは、まだ埃が漂い出ていた。



 ちょっと反省した。

 いままで「戦い」という言葉を気軽に使い過ぎていた。

 前の見えない煙幕の中で、武器を手に立ち向かってこその「戦い」だと思う。

 息苦しさや埃の匂い、流れる汗。

 掃除って戦いなんだ。基本戦術は「上から下」。

 それにしても、まさかあんなに簡単に天井板が外れるものだとは思わなかった。はたきの先っぽが当たると、板がずれてざーっと土埃が降ってくる。天井裏があるってことをこんなにリアルに体験できるとは思わなかった。この際、天井裏も掃除するべきかな?


 調子に乗るな、私。


 ハイ、すみません


 はたきに絡みついた蜘蛛の巣を引き剝がして、窓の外に捨てた。壁にはたきをかけながら部屋を一周する。東側には穴の開いた襖や障子が立て掛けてあった。これを壁とみるべきか、それとも、どかして裏も掃除すべきか。


 もちろん、前者。


 深追いしすぎて収拾がつかなくなるより、思い切った見切りが大事よ。満点狙いで徹夜して本番ボロボロになるより、体調を整えて80点狙いでしょ?

 それにしても、白っぽくて毛羽立った畳に積もった埃は最悪だった。いくら掃いても畳の目に入り込んだ埃が出てくる。

 埃っぽい場所の掃き掃除といえば水撒きをしてからがセオリーらしいけれど、畳の上に水を撒く度胸はない。

 事情を知らない外国人が「ヘイ! ウォータリング!」とか言いながらノズルつきゴムホースを差し出したら、ソッコーで殴り倒す自信がある。

 ところどころ、畳の表が剝がれて、中身が剝き出しになっていた。なるべく傷つけないようにそっと掃く。立ち込める埃ごしに窓を見ると、ロマンチックな湖沼地帯に立つ洋館みたいだ。


 ごめん、いくらなんでも噓。


 そうとでも思い込まなきゃ心が折れちゃうの!


 そう言えば「一休さん」ってお話があった。

 一休さんは禅寺の小坊主。本当は天皇の子どもで、でも人に知られちゃ殺されかねないから普通の小坊主をやってるんだけど。

 その一休さんはしょっちゅう掃除してるんだよね。禅寺じゃ掃除は修行の一環なんだって。「心の塵を払う」ってことらしいけれど、ちょっとよくわからない。こうやって長屋の二階を掃除して、私の心が綺麗になったなんて実感、ないもん。

 そもそも掃除しながら「俺の心の塵を払おう」と思ってるなんて、逆にいやらしいんじゃない?

私は別にやりたくて掃除しているわけじゃない。しいて言えば、あの男の子の居場所がちょっとはマシになるといいな、って思うくらいで。

 だから、まあ「誰かのため」だよ。

 一休さんはどんなモチベーションで掃除していたんだろ。掃除していたのはお寺の境内や本堂の廊下とかだった。和尚さんのため、というんじゃキモいし、友だちのため、というなら一緒にやれよって言いたくなる。

何だかわからないもののためにモチベーションを燃やしたりできるんだろうか。そこまで考えて、はっとした。

 もしかすると、一休さんは「誰かのため」の「誰か」部分が無限大なんじゃないかな?

 日本中、いや世界中、ひょっとしたらもう死んでしまった人たちからまだ生まれてもいない人たちまで、全部。

 そんな無限大の人たち・ものたちのために掃除できるようになれば、それが「悟った」ってことになるんじゃないかな。

 埃まみれで身体もくたくたになって、ぼんやりした頭でそんなことを思ったりした。


 埃と汗でどろどろになったタオルとジャージを洗濯籠に入れて、バスルームに入る。ママにはどう説明しようか。長屋のなかのものを引っ張り出して遊んでいたらこうなっちゃった、くらいかな。叱られるけれど、思春期カウンセリングの心配はないんじゃないか、と思う。

 髪をシャンプーして、ボディソープで身体を流す。曇った鏡に映る身体はやせっぽちで、なんだかあの男の子に似ている気がする。何となく下に目をやって、慌ててシャワーのお湯をかける。


 何考えてるの。私は一休さんなんだから!



  その日の夜。

長屋の二階に上ると、男の子は、掃除してくれたんだね、ありがとう、と言った。なんだか顔が熱くなった。よく考えれば、埃も何もつかないから関係ないはずなのに。つい大声で言ってしまう。


 「そうよ、感謝しなさい。私は一休さんなんだからね」


 「一休さん? スピカが?」


 青い光に満たされた部屋の中を見渡す。影がないせいか、昨日までとあんまり変わらない気がした。それでも、こうやってふつうに息をしていられるのは、やっぱり掃除のおかげよね?

 男の子は少し、首を傾げて言った。


 「一休さんって、あの厳しかった時代に肉食はするわ酒は飲むわ、好き勝手やってたひとだよね」


 えっ?


 「おまけにホモもやったり女のひととも関係したりして、すごいえっちなひとでもあったんだよね。まあ、スピカが良いならいいけど」


 そっちかーい!?



 私は、しばらく立ち直れなかった。

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