第2話 私はいやらしい子なんかじゃない!と叫びたい(無理だけど)

 朝の4年2組の教室は静かだ。いつも甲高い声を挙げて走り回る利幸くんたちがまだ来ていないから。

 登校グループが別の春菜ちゃんはまだ来ていなかった。淑恵ちゃんと美和ちゃんに声をかけてから、鞄を机に置いて席に座る。そのまま鞄に顔を埋める。革のにおいだ。


 眠い。


 なにしろ明け方まで長屋の二階にいたんだから。青い光の中で裸の男の子と向かい合っていると、だんだんそれが当たり前になってくるの。下の方からいちいち顔を背けるのが面倒臭くなってくる。

 もしパパの子ども時代の服を着込んでいたら、たぶんすっごいダサい感じがしたと思う。髪型でも靴でも、流行っていうのはあるんだから。そんなのでいきなりマイナスイメージを背負い込むなんてつまんないよ。何にも着ていなければ、古臭い部分はどこにもない。人間の身体なんだから。

 慣れてしまえば、その、朝顔のつぼみだって、そういうものなんだって思える。だって、みんな同じなんだし。

 ちょっと気になったから、訊いてみた。


「あのさ、私のこういう恰好って、どう思う?」


 自分が裸なのに、目の前に服を着た女の子がいるのって、やっぱり気を使うかもしれないじゃない。もしかして自分が恥ずかしくなるとかさ。男の子はもう服を着ることはできないんだから、そういうことで悩ませたりしちゃ気の毒かなって。

 男の子はまばたきをして、それから首をかしげる。


「変なパンツだな。なんだかゾロッと中途半端に長くて」


 そっちかいっ!


 思わずハーフパンツの裾をつまんで引き下げた。そうか、パパの時代の体操着といえば「ぶるま」だっけ。水着の下半身部分だけを切り取ったみたいな、お尻のラインが全部出ちゃう、あの罰ゲームみたいなやつ。


「でも、たかが着ているもので褒めたり貶したりするのもどうかな、と思う」


 裸の男の子にそう言われると、説得力があるんだかないんだか。頭がくらくらしてくる。

 でも、青い光の中で椅子に座っている男の子は、なんだかとてもきれいだった。椅子の座面を撫でても埃のつかない指先を思い出す。私のハーフパンツのお尻は埃まみれだっていうのに。羨ましいはずなのに、なんだか心が浮き立たない。


 だって、男の子はもう汚れることができないんだから。


 おはよう、と聞き慣れた声がする。顔を上げると、サイドで髪を結んだ春菜ちゃんが笑っている。そのうしろには同じ登校グループの洋子ちゃんもいた。

 なんだか不吉な気がする。

「ちょっともう、男子って最悪。直樹くん、橋のところでおしっこするんだよ、女の子の目の前で」

 はろー、と大声を上げながら、当の本人が教室に入ってくる。クラスでいちばんのチビのくせに、髪は金髪だ。目鼻が小さいのに金髪にすると顔全体がよけいにひらべったく見える。

「佳世ちゃんが棒を持って追いかけたら、おしっこしながら逃げるんだよ。前なんかびしょびしょ」

 洋子ちゃんは嬉しそうだ。見るともなく直樹くんを目で追う。服を着た男の子を見るのは久し振りだな、と思う。


 …ちょっと待って。今の何?


 何考えてるの、私。口に出していたら社会的生命は完全に終わってたよ! 「どんなエロい日常!?」って感じ。美登里ちゃんみたいに、こっそりパパのID使ってソレもんのサイトを巡りまくってる子じゃあるまいし。ていうか、こういうときこそ洋一くんでしょ! おしっこしながら走り回るサルじゃなくて、ちょっぴりマザコンでもカッコイイ男の子だよ! ああっ、洋一くん、早く来てっ!

 どへていなー! 分析不可能な声がする。大輝くんだ。もれなく利幸くんもついてくる。教室が失敗しかけた天ぷら鍋みたいになってくる。でも、いいの。どれだけ油が撥ねても、火が回っても、天ぷらはエビがあってこそだから。同じ登校グループなんだ。鞄の上に肘をついて身構える。

 黒板横の入口から、洋一くんが姿を現した。

 さらさらの黒髪に、彫りの深い顔立ち。肌理が細かくて、つい触りたくなるの。溜め息が出そう。


 やっぱりいい! マザコンが何? きれいなんだから許す!

  

 私の二つ横の席に鞄を下ろす。椅子を引いて、腰かける。



 たぶん、同じポーズだったからだと思うの。


 一瞬、そこには裸の洋一くんが座っていた。

 信じられないけれど、ちゃんと、朝顔のつぼみも見えた。

 しかも、私…その姿がものすごくしっくりくるって思っちゃった…。


「どうしたの、ぴゅあ?」

 春菜ちゃんが頭に手を置いてくれる。ぴゅあ、っていうのは私のあだ名。「澄」を英語にしたらそうなるんだって。

「なんでもない。ちょっと眠くって」

 よしよし、って言いながら頭を撫でる。

 なんだか、もう。

 優しくしないで、春菜ちゃん。

 私、ちっとも「ぴゅあ」じゃないよ!


 鞄の表面にしずくができる。もしかして、私、この教室の中でいちばんいやらしい子、なのかな?

 朝から洋一くんの、その、そういう姿を想像しちゃって。

 いや、想像っていうか、もう見えちゃったわけだから…。


 よけい悪いわ!


「ちょっと、熱あるんじゃない? 真っ赤だよ」

 冷たい手のひらが滑り込んで来て、頭が起こされる。

「すこぅし、熱い、かな。保健室、開いてるかな」

 教室の中は牛乳っぽいにおいが強くなっていた。なんだか本当にきもち悪くなってくる。でも、保健委員の由香奈ちゃんはまだ来ていない。

 ぼんやりした私の目の前に男の子がやってきた。

「茅原さん、調子悪いんだ。保健室、一緒に行く?」

 澄んだ、「ぴゅあ」な声。

 そっと見上げると、男子保健委員の洋一くんがそこに立っている。

 あ、いいよ、って言いかけた瞬間、顔の前に半ズボンの前部分があるのに気づいた。


 ぎゃああああああああああああああっ!


 思わず立ち上がる。机の脚に思いっ切り膝をぶつけてしまった。

「大丈夫だからっ!」

 教室が一瞬、静まり返る。そのまま机を避けながら出口に向かう。

 おはよう、と言いながら入って来るのは由香奈ちゃんだ。おはよう、と返して敷居を越えた。


 おっせぇんだよ!


 心の中で叫ぶ。自分でも無茶を言ってることくらいはわかる。ごめんね由香奈ちゃん。

 それに、洋一くん、ほんとごめん。ぜんぜん悪くないんだよ?

 でも、さすがにその、ショックが大きすぎて…。いや、そんな大きくはなかったけど、って何言ってるんだ私?


 廊下の人波に逆らって歩く。足元からこみ上げる恥ずかしさは顔のところで弾ける。なんだかひまわりみたいだ。

 ぶつけようのない気持ちが、心の中で噴き暴れる。


 やっぱり、あいつのせいだぁっ!


 もちろん八つ当たりだって分かってる。

 でもね…


 私の気が治まらないのっ!

 

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