第7話

 しばらくして、私は退院し、自宅に戻って来た。

私の家は、一階建ての借家だった。

「もしかして、私達一緒に住んでいた?」

「うーん……厳密には住んでいないけれど、週の半分はここに泊まっていたからね。半同棲みたいなもんさ。」

 賢人はキーホルダーから、合鍵を取り出して、少しおぼつきながら、玄関の鍵を開けた。

「さあ、入って。」

玄関を開けてくれた賢人は、まるでイギリスの紳士みたいだった。


「珠姫が入院している間、一度だけ掃除したんだけどさ。足りなかったらごめん。」

「ううん。それだけでも、感謝だよ。」

廊下に上がり、直ぐの部屋がリビングになっていた。

対面キッチンになっていて、結構広い。

「座って。なんか飲み物持ってくるよ。」

賢人はまるで、自分の家のように、振る舞った。

一方の私は、まるで他人の家に、遊びに来た感覚。


「はい、珠姫。」

賢人は冷えたお茶を、出してくれた。

「これ、いつの?」

「心配しなくても大丈夫。二日前だって。」

「二日前?」

「掃除したのが、二日前だから。」

「つい最近じゃん。」

賢人と一緒に、一息ついて。

私はほうっと、小さく息を吐いた。

「有り難うね、賢人。」

「何?急に。」

「賢人がいなかったら、私、潰れてた。」


目が覚めて。

自分の事、何もかも分からなくて。

思い出そうとしても、思い出せなくて。

記憶喪失だと言われて。

婚約者の賢人まで、疑って。

自分には身よりがないって言われて。

どんな時でも、側には賢人がいてくれた。


「僕は何もしていないよ。珠姫が、頑張ったんだ。」

「それでも、賢人がいなかったら、私だって頑張れなかったよ。」

私は賢人に、寄り添った。

賢人と、久々に見つめ合う。

病院では他の目があったから、頬にキスするしかできなかったけれど、今は他に誰もいない。


私は、目を閉じた。

「珠姫……」

賢人の顔が近づいてくる。

でも、賢人は私の唇に、口づけてくれなかった。

「賢人?」

「あっ……ごめん。まだ、早いよ。」

「えっ?」

「退院したばかりだし。キスだけで、抑えられそうにないんだ。」


 何ヵ月振りかで、体の火照りを感じた。

賢人に抱かれたい。

でも、婚約してるんだもの。

何も躊躇う事なんて、ないのに。

「ごめん。本当にごめん。」

賢人は立ち上がって、自分と私が飲んだお茶のコップを、キッチンまで持って行った。

キッチンでは、シンクの中にコップを入れて、呆然と立ち尽くす賢人がいた。


こういう時って、放っておいた方がいいのかな。

よく男の人って、欲情を抑えるのに、頭を冷やすって何かで読んだし。

私は自分の足を擦った。

婚約者に、そんな事をさせているなんて。

自分はなんて、見下げた女なんだろう。


「賢人。」

私が名前を呼ぶと、賢人は慌ててキッチンから、リビングへと戻ってきた。

「そうだ。今日の夕飯、何がいい?一緒に買い物行こうか。」

「うん……」

賢人と一緒に立ち上がって、松葉杖を持ち、斜め掛けのバッグを賢人に掛けてもらった時だ。

私は松葉杖を放し、賢人に抱きついた。

「珠姫?」

「私、あなたの婚約者、失格ね。」

「どうして?」

賢人は、私の顔を覗き込んだ。

「だって、あなたにいろんな我慢させてる。」

「我慢?どんな?」

「さっきみたいに、抱きたいのに抱けない。」

「そんな事?」


 そんな事と言い退けた賢人に、逆に驚く。

「ねえ、珠姫。結婚ってそんな関係だけじゃないよ。」

「うん。分かる。」

「相手が大変な時に、そんな事求めるなんて。僕は違うと思う。」

「そっか……」

私が賢人から離れると、賢人はわざわざしゃがんで、松葉杖を取ってくれた。

「でも逆の立場だったら、俺の事襲っていいからね。」

「はい?」

「頼むよ、奥さん。」

「もう!またぁ。」

そんな掛け合いをしながら、私達は買い物の為に、家を出た。

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