第5話
入院してから1ヵ月。
松葉杖を付きながらも、日常生活を送れるようになった私は、主治医の先生から、退院を告げられた。
「怪我の方は、回復しておりますので、通院でのリハビリに切り替えてもいいと思います。」
「通院……ですか?」
それは本来であれば、嬉しい事なのだろうが、今の私には、不安しかなかった。
記憶の方はまだ何も、戻ってはいなかったからだ。
「先生、私……まだ記憶が戻っていないんです。」
診察室の中、先生がカルテを書きながら、何気なく聞いてきた。
「なにか、思い出しましたか?」
「いえ……何も……」
「事故の事は?」
「……思い出せません。」
「事故に遭う以前の生活は?」
「思い出せません。周囲からはいろいろ聞いて、自分の事はどんどん知っていきますが、ああ、そうだったと一致する記憶がないんです。」
その事を書いているのか、しばらくカリカリと言う音が、響き渡った。
「記憶が戻らなくても、普通に生活している方は、たくさんいらっしゃいますよ。」
先生が浮かべた笑み。
医者でも、営業スマイルをするのだと、この時知った。
「それとも、もう少しだけ退院を伸ばしますか?」
先生が何気ないその一言が、私にチャンスをくれたのだと思った。
「できるんですか?」
思ってもみない先生からの提案に、私は身を乗り出した。
「そうですね。今のところ病室も、まだ空いていますし。何より身寄りがない方は、申し出が通りやすいんですよ。」
「身寄りが……ない……私が?」
私は先生の言葉に、顔を歪めた。
「……ええ。ご両親は亡くなっていると、伺っています。ご兄弟もいらっしゃらなく、親戚ともあまり交流がないと……」
「それは、誰が言ったんですか?」
先生は、カルテの数ページ捲った。
「家族状況を伺ったのは、津山賢人さんとなっていますね。」
「賢人が……」
「聞いてなかったんですか?」
私は両手を、握りしめた。
「まだ、そこまで余裕がなかったものですから。」
私には、両親や兄弟がいない。
思ってもみなかった。
「それは市田さんも、驚いたでしょう。」
「はい……」
それからしばらく、私も先生も、無言だった。
先生のカルテを書く音だけが、診察室に響いていた。
「では退院の事は、ゆっくり考えて下さい。必ず退院してくださいとか、もっと長く入院しろとか、そう言う事ではないのでね。」
「はい。有り難うございます。」
私は先生に頭を下げ、診察室を出た。
私には、家族がいない。
天涯孤独の身なのだと、聞かされたのに、なんだか腑に落ちない感じ。
途端に自分の足元が、透明なガラスになって、その上を危なっかしく歩いているような、そんな感覚を覚えた。
これも、自分の記憶がないからだと、全てを記憶喪失のせいにしたかった。
自分が何者なのか、全く分からない。
これから、どこへ向かうのかも、分からない。
雲の上をふらふら、ふらふらとさ迷うかのように、病室の廊下を歩いた。
「珠姫。具合でも悪くなった?」
賢人に声を掛けられ、我に返った。
「あっ、いつの間に……」
考え事をしていたら、知らぬ内に、診察室から自分の病室まで、歩いて戻っていた。
「だから、僕も付いて行くって言ったのに。」
賢人は私の脇に腕を入れ、ベッドまで連れて行ってくれた。
「どうだった?診察。」
私の顔を覗き込んだ賢人に、今はほっとするようになった。
「日常生活を送れるようになったから、退院しましょうって言われた。リハビリは通院でもできるしって。」
「それはよかった。珠姫が退院したら、僕も仕事に戻れるからね。」
生き生きと話す賢人に、また靄がかかる。
「それとね……もう少し、入院を延ばす事もできますよって……言われた。」
賢人は、動きを止めて、私を見る。
「そうなの?」
私は思いきって、先生に言われた通り、言葉にした。
「私は……身よりがないから、退院を延ばす事もできるんだって。ねえ、本当なの?」
私が賢人を見つめるのと同時に、賢人は私を見る事を止めた。
「……本当なんだね。」
私は、白い掛布団に、目線を落とした。
少し前に、賢人のご両親に会った時。
私にも当たり前に、両親がいるんだと思っていた。
一向に訪れない家族に、何か事情があるのだと、漠然と思っていたのに。
その答えが、“家族は誰もいない”だったなんて。
「どうして、教えてくれなかったの?」
「だって今の珠姫には、きっと耐えられないよ。」
賢人の言葉で、私の心は更に弱くなる。
「珠姫。少し自分の事を聞いたりする事、止めた方がいいんじゃないかな。」
「どうして?」
「今の珠姫。自分の事何一つ思い出せてないのに、あまりにも、他人から入ってくる情報量が多すぎる。」
「だから?」
「自分の事なのに、自分は知らない。その情報を処理できる?」
「……できない。」
「でしょう?珠姫を見ていれば、分かるよ。」
私は、顔をおさえた。
賢人の言う通り。
他人から聞く“自分”に、私は付いていく事ができない。
「ご両親の事は、自分で思い出すまで、僕は何も教えないからね。ゆっくりゆっくり、自分のペースで思い出せばいいんだ。」
賢人の言葉は、一見冷たい。
でも、今の私にとっては、とても温かくて、とても有り難いものだった。
「もう休もう。」
賢人は、私を横に寝かせてくれた。
「珠姫。疲れた時には、眠るといいよ。」
「私、疲れてない。」
「疲れてるよ。体じゃなくて、心がね。」
瞬きもしないのに、涙が流れる。
「ゆっくりお休み。今は、そういう時期なんだから。」
賢人が、私の手を握ってくれた。
いつも側に寄り添ってくれる強い力が、私の不安を涙と共に、外へ押し流してくれた。
「珠姫。僕達は、家族になるんだ。珠姫の家族は、これから増えるんだよ。」
「賢人、」
「大丈夫。珠姫が寝るまで、ここを離れないから。」
ニコッと笑う、彼の笑顔に釣られて、私も微笑んだ。
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