第4話
数日が経って、私はベッドから起き上がる事が、できるようになった。
「じゃあ、明日からリハビリをしましょうか。」
主治医の先生が、次のプログラムを、私に伝えた。
確実に退院に向かって、体は回復していると言うのに、記憶は何も戻っていない。
「先生。」
「はい。」
「もし、私の記憶が戻らない場合でも、歩けるようになれば、退院するんでしょうか。」
「うーん……」
先生は少し考えながら、カルテを見た。
「脳には異常はないですし。記憶は、普段の生活をする事によって、早く思い出す場合もあるんですよ。」
「はあ……」
「何度も言うように、焦らない事です。」
先生が言う事は、いつも同じ。
“焦らない事”
先生と看護師さんが病室を出た後、賢人は静かにカーテンを閉めた。
「まだ……僕の事を疑ってる?」
賢人は元気が無さそうだった。
「ううん。ただ……婚約するくらい好きだった人を、こんなにも簡単に、忘れるものなのかなって……自分が情けないと思うだけ。」
「それが……記憶喪失って言うものなんじゃないの?」
「うん。」
賢人はそう言うと、病院のパジャマを、私に持って来てくれた。
「新しい物に、着替えよう。」
「そうだね。」
まだ起き上がれない時でも、賢人はこうして、私の着替えを手伝ってくれていた。
「珠姫。これからの事、そんなに心配する事ないよ?」
賢人が後ろから、囁くように言い聞かせてくれる。
「退院した後も、僕が珠姫の面倒みるし。仕事だって、ゆっくり探せばいいんだ。」
「うん。」
「もっと、僕を頼ってよ。」
震える声。
私は、後ろを振り返った。
「これでも、僕の事覚えていないって言われて、ショックなんだ。その上、信用もされてない、頼ってもくれないなんて……」
「違う……違うの!」
私は賢人の腕に、しがみついた。
なのに、その後の言葉が出て来ない。
「珠姫?」
頼っていない訳じゃない。
信じてないわけじゃない。
でも、何かが違う気がするのは、どうしてなんだろう。
「ねえ、賢人。私、怖いの。自分が自分じゃないような気がして……」
賢人は、私を抱き寄せた。
「珠姫は珠姫だよ。他の誰でもない。今の自分を、そのまま受け入れていけば、いいんだよ。」
何度も何度も、賢人は私を励ましてくれる。
今の私は記憶がないと言うだけで、怯えて、前に進めなくなっている臆病者だ。
「それにしても、記憶ってそんなに、大事なモノだったんだね。」
何気なく耳に入った、賢人の言葉を、私は聞き逃せなかった。
「だって、記憶喪失にならなくたって、記憶って曖昧になる時があるのに。記憶と違うだけで、そんなに怖がる?記憶違いって事もあるのに。」
私はイラッときて、賢人から体を離した。
「賢人は、自分が記憶喪失になった事がないから、そういう事が言えるのよ。」
「そうだったね、ごめん。」
私の脱いだ病院用のパジャマを、くるくる丸めて、廊下のカゴの中に持って行く賢人。
何やってるんだろ。
賢人は、仕事を休んでまで、私の世話をしてくれているって言うのに。
「ごめん、賢人。」
「何、急に。」
戻ってきた賢人は、ふざけながら驚く振りをしている。
「賢人の方が大変だって言うのに、私、ワガママばっかり言って。」
「ワガママ?」
「さっきの……賢人は記憶喪失になった事がないから、私の気持ちは分からないって、言った事。」
「そんな事、気にしてたの?」
賢人は怒るどころか、可笑しそうに笑っている。
「珠姫って、どうでもいい事、気にするよね。」
「そうかな。」
「珠姫の言う事も、一理ある。俺、記憶喪失なった事ないから、珠姫の気持ち全然分かんない。」
それまでの賢人とは、見間違える程、優しくないコメント。
「でも、そうやって拗ねるとこ、久々に見た。」
「えっ?」
「記憶が戻らなくても、無意識の部分は、何一つ変わってないんだね。」
その一言が、今の私を嬉しくさせた。
「そっか。そうだよね。」
「そうだよ。これからまた、楽しい記憶を刻み付けていけばいいんじゃない?」
私は、大きく頷いた。
記憶がない事が、あまりにも大きな事だと思い込んでいた私は、目の前にある今さえも、疑っていたのだと、この時思った。
何も、全てを失った訳じゃない。
無くしたモノは、これから少しずつ、取り戻していけばいいのだ。
「そうだ。ちょっと離れてもいい?用事があるんだ。」
「うん、いいよ。」
「すぐ戻るから。」
そう言うと賢人は、走るように病室を出て行った。
どうせ、仕事の事なんだろう。
私の看病で、会社に行けない期間、仕事はどうなっているんだろうと、勝手に心配していた。
「あっ、今のうちトイレ、行っておかなきゃ。」
賢人がいる時は、トイレに行きたいって言うのも、まだ恥ずかしい。
しかも賢人は、一人でトイレに行けるって言っているのに、一緒に付いて来て、女子トイレにまで入りそうな勢いなのだ。
それで、何度恥ずかしい思いをしたか。
これも、私のワガママの一つなんだけどね。
松葉杖を着きながら、トイレに行き、賢人が帰ってくるまでに、ベッドに戻らなければと奮闘しているところ。
私の病室の前に、一組の夫婦が立ち止まっていた。
同じ病室の患者さんの、お見舞いかなと思った私は、そのまま『こんにちは。』と挨拶をし、中に入ろうとした。
「……珠姫さん!?」
ご夫婦の奥さんの方が、私を見て、オロオロし始めた。
「はい?」
振り返ると、知らない顔。
いや、記憶がないだけで、私の知っている人達なのかもしれないと思った。
「無事だったんだね。」
ご主人の方も、涙ぐみながら言った。
「あのー、すみません。」
私が申し訳なさそうに声を掛けると、二人は慌てて、立ち去ろうとした。
「そうね、記憶がないんだもんね。」
人の口から聞くと、心が傷つく。
好きで無くした訳でもないのに。
「いいんだよ。今は、ゆっくり養生して、それから結婚すればいいんだ。」
結婚!
その言葉がキーワードのように、私の全身を駆け巡った。
「賢人の、ご両親ですね。」
二人は顔を合わせると、立ち止まった。
「ええ……」
「すみません、お聞きしたい事があるんです。」
私は松葉杖で、一歩前に出た。
「こんな事聞くのは、私もおかしいとは思うのですが……」
私は息を飲んだ。
「賢人は、私が事故に遭う前から、あのような感じでしたでしょうか。変わったところは、ないでしょうか。」
しばらくの間の沈黙の後、二人は笑いだした。
「何かと思えば。」
「賢人は、前からあんな感じだよな。」
二人の笑った顔が、反って私を安心させた。
「そう……ですよね。すみません。」
「いいのよ、いいのよ。」
賢人のお母さんらしき人が、私の腕をさすってくれた。
「でもね、あなたの……」
「母さん。その事はいいから。」
お父さんらしき人が、お母さんの発言を遮った。
「賢人にも、止められてるだろう。」
「そう、だったわね。」
お母さんは一度俯いたけれど、顔を上げた時には、笑顔に戻っていた。
「じゃあね、珠姫さん。また来るわ。」
「はい。いらっしゃって頂いて、有り難うございました。」
私は、できるだけ頭を下げた。
お父さんが手を上げて、二人は病院の廊下を、奥の方へと歩いて行った。
もう、余計な詮索は止めよう。
賢人は、賢人なんだから。
私が病室に戻りベッドに座ると、ちょうど賢人が、病室へと戻って来た。
「お帰り、賢人。」
「ああ。」
浮かない顔をしている。
「何か、あった?」
「ん?何でもないよ。」
作り笑い。
婚約者だって言うのに、何かあっても、話してくれない。
「そうだ、賢人。私さっき、廊下であなたのご両親に会ったわよ。」
「えっ!」
必要以上に驚く態度が、私をまた不安にさせた。
「……どうして、そんなに驚くの?私が、賢人のご両親に会ったって、何もおかしい事はないじゃない。」
「あっ、うん。」
何かを隠しているかのように、賢人は狼狽えながら、無意味にベッドの回りを、ウロウロしていた。
「何か、言ってた?」
「何かって?」
逆に質問して、賢人の出方を伺った。
「……入院費の事とか。」
「入院費?」
どこかで、拍子抜けした。
「あっ、ううん。何も言ってなかったけれど。」
「そっか。親父もお袋も、珠姫の入院費の事、気にしてたから。」
不安が消えて、また新たな不安がやってきた。
「ごめんなさい。保険会社に連絡しないと。」
「逆にごめん。珠姫のそう言う書類、どこにあるのか分からなくて。とりあえず、僕が払っておいたから。退院したら、ちょうだい。」
「ええ、そうね。」
私は、そんな当たり前の事も気づかずに、そこまでやってくれていた賢人を、どうしてこんなに疑うのか。
「親父やお袋に、口止めしておいてよかったあ。まだ結婚もしてないのに、そんな事相手方の両親に言われたら、治る病気も治らなくなる。」
「はははっ!」
私は自分のバッグの中から、スマートフォンを取り出した。
「そんな怖い方には、見えなかったわよ。私が無事だって知って、涙ぐんでたもの。」
「珠姫に死なれたら、俺は一生独身になる。そうならずに済んでよかった~!って言う涙だよ。」
「ひどい。私の事を心配してくれてたのに。」
「はい、そうでした。」
賢人のユーモアを聞きながら、私は電話帳から、保険会社の名前を探した。
「あっ、あった。これじゃないかな、保険会社。」
「どれどれ?」
電話帳を見せたら、賢人は私の手から、スマートフォンを取り上げた。
「これ、ちょっとの間、借りれる?違ったら、また電話帳で探してみる。」
「ああ、うん。分かった。」
賢人にスマホを預けて、私はベッドに横になった。
「ねえ、賢人。」
「なに?」
賢人は、布団を被せてくれた。
「私、まだ賢人の事、全部思い出したわけじゃないんだけど……」
「うん。」
「私の婚約者が、賢人でよかった。」
すると賢人は、私の額にキスしてくれた。
「有り難う。僕の方こそ、珠姫が婚約者でよかった。」
嬉しくて、私は賢人の手を握った。
「有り難う。」
賢人の手から、温かい気持ちが、伝わってくる。
「珠姫。」
「なあに?」
私は椅子に座りながら、顔を近づける賢人を、見つめた。
「珠姫は……僕の光りだ。結婚相手に、僕を選んでくれて本当に幸せだ。」
なんて、幸せな瞬間なんだと思った。
「私もよ。」
心から、そう言えた。
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