Scene019
家を出たのは、もうその翌朝のことだった。明後日はここらで雨が降るらしいし、準備は前々から希が進めていたので、俺も適当に服とか生活用品とか、後、じいちゃんからの資金とかを、リュックサックに詰め込んだ。どれくらいの旅になるか分からないから、少々不安ではあるけれど、まあ、いざとなったらその時はその時だ。
出発は日が登り始めた頃にした。ばあちゃんが送り出してくれた。「気をつけて」とだけ言って、それ以外はなにも言わなかった。こっちからは親にはばあちゃん経由で伝えてくれと残した。希は泣きそうになっていたが、すぐにいつも通りの顔に戻った。
蝉も鳴かない明朝だ。朝日が少し暑いけど、俺たちは歩き始めた。
「ああ、そうだ、町を出る前に学校に寄ってもいいか?」
「学校ですか? ええ、いいですけど。どうしてです?」
「屋上からの景色を見ておきたいんだ」
「あー、叶絵さんとの出会いの場ですよね?」
前者は建前で、後者は本音だった。相変わらず聡い娘だ。
峠を経て、山を越えるルートを取るから、少しだけ逆に進まないといけないのは、少々めんどうだけど、なんだか行っておかないとキマリが悪い気がした。
俺たちは坂道を下って、学校の門前にまでやってきた。
滝川高校の門は坂の途中にある。だから、下って来る者もいれば、登ってくる者もある。そもそも、こんな時間に出たのは誰にも会いたくないという理由があったのだから、寄り道なんかするべきじゃあなかった。
それも、今更後悔したところで遅いのだが……。
「健堂……早いな」
「明日は試合だからな。今日くらいはじっくりやりたい」
健堂は制服姿で、スポーツバッグを下げ、竹刀が入っているらしい袋を担いでいた。まさか、こんな時間から学校にいたのか。
俺の後ろを歩く希をちらりとも見ないで、健堂は言った。
「……叶絵ちゃんから聞いた。町を出るんだよな」
「ああ……しばらく帰ってこない」
しばらく俺たちは押し黙った。蝉の声が静かに聞こえてきた。遥か彼方で救急車の音が響いている。熱中症で運ばれているのだろうか。カラッとしてはいるけど、それでも朝晩も暑い。今だって、軽く汗ばんでいる。
意を決した様子で健堂は口を開いた。
「せっかく寄ったんだ、ちょっと付き合ってくれよ」
指差した先には体育棟があった。二階は体育館で、一階には卓球場と柔道場と剣道場がある。健堂があるき出してから、俺は言った。
「希、先に行ってくれ。俺も後で追いつくから」
彼女は少しだけ間を置いてから「わかった」と返した。すぐに踵を返して来た道を帰っていった。遅れて、俺も健堂に続いた。
剣道場はひんやりとしていた。気温もそうだが、雰囲気が、冷たかった。
道場の床で胡座をかいていると、しばらくして健堂が剣道着を着て出てきた。やはり様になる。馬子にも衣装というか、健堂にも衣装だった。それを見てやや気圧されてしまった。
「どうだ、似合うだろ」
「……そうだな。学校の女子がただで置かないわけだ」
「それで、隆、ちょっと、やってみないか?」
「剣道を、か?」
「竹刀はある。道着はないが、そっちの方が動きやすいだろう」
「おいおい、俺は竹刀なんて振ったことないぜ?」
「チャンバラはできるだろ。その要領でなんとでもなる」
「簡単に言うが……」
「勝負だっ!」
俺の抗議を遮って、健堂は声を荒げた。思わず目を見開いた。
「……ただの勝負じゃない。条件がある」
「勝手に話を進めるな。俺はまだ承諾してない」
「俺が勝てば、お前はこの町に残る」
言われて、思わず「は?」と声が出た。何を言われているのかわからなかった。俺が負ければ、この町に残る……? そんなことして、何になるっていうんだ。
「そんなもの、飲めるわけがないだろ。そんなことのために呼んだのなら俺は……」
「お前が勝ったら、預かってるものがある」
「預かっているもの……?」
「それが欲しければ、何か知りたければ、俺と戦え、隆!」
預かり物……? 何を、そもそも、一体だれからの預かり物なんだ? それがわからず、勝負を受けろ?
何から何までめちゃくちゃだった。条件もクソもなかった。
けれど、恐らく、条件などの問題ではないんだと思う。
この男は、健堂剣は、俺を試すつもりでいるんだ。
「ここで逃げるような相手を俺は行かせられない。ここで退くのならば、俺は全力でお前を止める」
「全力で……か。それは怖いな」
軽口の一つでも言わなければ、このまま圧殺されてしまいそうだった。しかし健堂はそれには一ミリも笑わずに、眉一つ動かさずに、俺を見据えている。
「……わかったよ。受けてやるよ。でも、もちろん」
「もちろん、ハンデはやる。俺は十本取るまで、お前は、俺の身体に一ミリでも触れることができれば勝ちだ。それに、俺の得点は面でしか認められない。防具は面だけ付けろ」
言われて俺は面を被った。臭いがあったが、すぐに慣れた。
道着を着ずに面だけの姿はやや滑稽だが、視界は意外とはっきりしている。
剣道は未経験だ。中高と体育は柔道だった。一応試合開始までの流れとか、基本的なレクチャーを受けて、少しだけ二人で瞑想した。
深呼吸して瞼を閉じると、ストンと、気持ちが落ちた。それが心地よかった。
五分か十分か、それくらい経って、健堂が「よし」と言って立ち上がった。俺も立ち上がった。
開始線から数歩下がった位置でお互いに礼をする。面越しに目があった。さっき瞑想したはずなのに、心が落ち着かない。
開始線まで進んで蹲踞になり、立ち上がる。
――試合開始だ。
「うあああああああああああ」
びくっとした、というよりぎょっとした、と言ったほうが正直か。俺は健堂の気勢に退いた。本当に、一歩足が下がっていた。
と、そんなことを気にしているうちに、健堂はもう目の前まで詰めていた。
「めえええええええええんん」
バチンっと音を立てて面に一発食らった。視界がぐらつくが、痛みは少ない。
その過程で、俺はぴくりとも動けなかった。
十本の猶予があるにしても、さすがにこの調子では動けるかどうかさえ危うい。打ち込んでその場を離れていく彼に向き直る。
健堂は再び雄叫びを上げる。その姿勢は基本的なものだけに、どこにも隙きはない。
「来ないのなら、こっちから行くぞ!」
叫ぶような声は骨の髄まで響くようで、思わず身体が強張った。そこに一撃が入る。
「……っ!」
ダメだ。まずい。
これは、剣道の何たるかを知っているかどうかの問題ではない。
これは、勝てない……。
そうして、俺がどうすべきかわからずにいるうちに次々と一本が決められていく。これでは案山子となんら変わらないではないか。練習台にしても、あまりにもお粗末だ。
「どうした! その程度で、ここを出て行くっていうのか!」
彼の姿勢はブレること無く、再生機のように、まるでデジャヴかのように、変わらぬ態度で俺の脳天に竹刀を叩き込む。
三本、四本、五本、六本……
「何が彼氏だ! そんなもので大切な人を守れるか! そんなもので、あの娘を守れるのか!」
七本と打ち込まれ、その振り返りざま、素早く打ち込まれた八本目は――
「いってえ……」
痛かった。
鈍い痛みが走って、ぐらっと視界が暗転したかと思うとそのまま床に尻もちをついた。
頭を抱える俺の前に、健堂が立った。
「たわけっ!」
「……」
何もしていないのに、息が切れていた。立とうとしても腰が引けてどうしようもなかった。
健堂は面を外して床に叩きつけた。
「何が行かなければならないところだ! それは、今のへっぴりなお前が行くようなところか!? ああ!?」
言い返すことができない。竹刀が零れて、ついに両手を床に付いてしまった。
――完敗だった。
「……俺にどうしろって言うんだよ……何もできない俺に、何を求めてるんだよ!」
「何もできないだ……? 何もできなくても、何かしなくちゃいけないんだろ?」
「でも、限界はあるだろっ。できる範囲は限られてる。どうしようもないことを、どうにかすることはできないんだよ!」
咳が出た。口の中に鉄の匂いが広がった。
そんな俺を見る健堂の目は、ひどく冷ややかだった。
「なあ……隆、お前、俺に勝てると思ってるのか?」
「は……?」
「俺に勝てると思ってるのか聞いてるんだよ」
「そんなの、勝てるわけねーだろ。お前、有段者で、大学にも剣道で行って……そんなのに勝てるわけが……」
「じゃあ、なんで尻込みをする? なんで怖気づいているんだ?」
「だって……お前……」
「当たって砕けろお!」
喉が詰まって、声が出なかった。そして、彼の目は視線を逸らすことを許さなかった。瞳は少し濡れていた。
「俺だって、互角の相手と何度も戦ってきた。そういう時はやっぱり緊張する。勝ちに執着する余り、自分らしい動きができない時もある。昔はそうだった。時には、叶わないと思われる相手と当たることもある。移動中に対戦予想で、俺が負けた後の決勝戦の話をされることだってある。でも、そういう試合は却って緊張しないものだ。そんな時は、ただ、こう思う」
言葉を切って、落ち着いて言う。
「恥ずかしくない負け方をしよう、と」
「……」
「実力差がはっきりしている相手に、小細工をして負けることほど無様なことはない。そういう試合は、何にもならない。ならいっそ、覚悟を決めて勝負に出る方が有意義だと思わないか?」
ああ……俺は、こいつに勝てると思ったから動けなかったんだ……。そして、絶望の末に、動けなくなったんだ……。
「案外、負けるつもりで突っ込んだ方が、いい試合ができるものだ……」
面を拾い上げ、被る前に言った。
「今のお前はどうだ。そんなんじゃあ、例え町を出ても、どこか知らんところで野垂れ死ぬのがオチじゃないのか? 俺は、そんな……そんな友達を」
送り出すことはできない――
「負ける覚悟のないやつは勝負をするな。俺が言いたいのはそういうことだ」
健堂は面を被り開始線に戻った。「まだ続けるなら立ち上がって構えろ」と言って、帯刀した。
「……ょうなやつだ」
不器用なやつだ。ついでに、手荒なやつだ。
柄にもない。いや、意外とこっちが素なのかもしれないな。
――わかったよ、ありがとう。
手を付いて跳ね起きる。こんなところで休んでいる場合じゃない。
みんな……頑張ってるんだ。
俺だって、気合見せないとな。
立ち上がり、開始線に立つ。構えて相対する。ふーっと息を吐いた。
「勝負だ、剣」
健堂は剣を構えた。面越しに素顔は伺えなかったが、口元だけは少し見えた。
大きく息を吸って、叫んだ。
「はああああああああああ!」
「うああああああああああ!」
剣道は、充実した気勢、適正な姿勢、それから、正しい当たり方の三点で一本が決まる。
ハンデはあるけれど、どうせなら対等でありたかった。
当たりが不細工でも、背筋を伸ばして、気合を入れて。
じりじりと、ここだ、というところを目掛けて打ち込むだけだ。さすがに、健堂も慎重になった。なんせ向こうは触れられただけで負けてしまうのだから。
何度も声を張り上げて己を鼓舞する。なるほど、一瞬に賭ける武士たちは試合中、こんな思いだったのか。
かっこいいじゃないか。
俺には、その生き様が眩しかった。
そして、そんな風に生きたいと思った。
だから、
「めええええええええええんん」
「どおおおおおおおおおおおおおおおおお」
望みどおり、負け覚悟で一撃入れてやった。
パシン、と二つ音がした。
健堂の動きにはパターンがあった。抜ける時は右に逸れるか後退するかのどちらかだった。だから、相手の攻め際に左から右に剣を払えば、少なくとも掠りはするはずだ。
……まあ、今のは綺麗に決まりすぎたけど。
頭に一発入れられたのとほぼ同時に、俺の竹刀は健堂の胴を叩いて綺麗に抜けた。
二人して一瞬静止した。ときが止まったようだった。
彼は、中に誰もいないみたいに、音もなく竹刀を下ろす。
「隆、武道は、礼に始まり、礼に終わる」
俺も下がって、二人でもう一度腰を下げる。再び数歩下がって、礼をする。
顔を上げると、すぐに健堂は面を脱いではにかんだ。
「いい一本だった――」
やっぱり、そっちの顔の方が、健堂剣にはぴったりだった。
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