Scene018

 その日の晩、ホープはベランダに立っていた。ここからは町が見下ろせる。俺の実家も、健堂や瀬戸内の家も、駅も、病院も見下ろせる。


「……あ、隆」


 俺に気づくとホープはベランダから部屋に戻ろうとした。それを制止して、俺もベランダに出ることにした。裸足で外に出ると、床は冷たくて気持ちよかった。

 パジャマ姿の彼女は、目を赤くして、鼻を啜っていた。見るからに泣いた後だった。


「何見てたんだよ」

「おじいちゃんが、見ていた景色です」


 目線は町並みの光に固定したまま、彼女は言った。


「隆は、強いですね」

「泣かなかったからか?」

「はい……」

「泣かないことは、強いことなのか?」

「それは、わかりません。でも、やっぱり隆は強いと思います」

「……俺だって、泣く時は泣く。涙って、別に悲しい時にだけ流れるってもんでもないだろ?」


 涙っていうのは、思いが高まった時に流れるものだ。喜怒哀楽、どんな時でも流れていいものだ。


「ありがとうな、泣いてくれて」


 やっと目があった気がした。そうすると、ホープはまた泣きそうになった。

 涼しい風が入って、虫の声と風鈴が重なる。


「お前は、泣き虫の前に、優しい人だよ」


 言うと、ホープは「泣かせないでください」と言って涙を零した。泣きたいときは泣きつかれるまで泣けばいい。じいちゃんに言われたっけな。

 しくしく、彼女は静かに泣いた。俺もそれに付き合うことにした。時間は無い中でもある方だ。今日はたくさん泣く日だ。

 だけど、悲しい日じゃない。

 十分くらい経っただろうか。ホープは大分落ち着いてきた。


「ホープ」

「……はい」


 こう見ると、本当に子供みたいだった。二つしか歳が離れていないとは思えない。


「そのじいちゃんからの遺言だ」


 遺言と聞いて、ホープは剣呑な目つきになった。自分のことだから、彼女はすぐに察した。


「お前が『巫女』ってことはもう聞いた。そして『深淵』に行くことも」

「……」


 そこで儀式を行って、世界に安寧を取り戻す。

 少女は少し不安そうな顔で言った。


「これは、私の家系の問題です」

「今更、家系も何もないだろうが」

「でも、私だけが行くべきなんです。これは仕来りです」

「そんな、もう顔も知らない家族との約束が、か?」

「そうです。顔を覚えていなくても、それも含めて使命です。隆にもおばあちゃんにもお世話になりましたけど、行くべき時が来たのです。私は一人で行きます」


 意外と強情だった。これはちょっと説得に骨が折れそうだ。


「その使命ってのの詳細は知らないけど、別に一人じゃないといけないってことは無いんじゃないか?」

「うーん……まあ、そうですね。でも、儀式は私だけで執り行うのがルールです」

「なら、俺はお前に付いていくだけだよ。儀式には首を突っ込まない。深淵にも、俺は足を踏み込まなくていい」

「どうして、そこまで言って付いてきたいんですか? おじいちゃんに言われたから?」

「じいちゃんの遺言だからってところもあるけど、一番は……」


 ふと、叶絵の顔が浮かんだ。俺は続ける。


「もう、これ以上被害を増やしたくないんだ」


 そして、更に付け加える。


「俺にも、弔い合戦をさせてくれ」


 一人相撲で弔い合戦とは笑いものだけれど、それでも、俺にとって神獣は俺の敵だ。

 叶絵や叶絵のお母さんの無念を晴らすために、悲しみを生まない世界のために。


「一緒に、行こう――希」

「のぞ、み……?」

「お前の名前だよ。ホープに代わる。ちゃんとした名前だ」

「……安直」


 心を貫く言葉だった。これでもいろいろ考えて、やっぱりこれだなって感じで至った名前なんだけれど。


「でも、嬉しいです」


 大きく息を吸って吐き出した。そして、ぐっと拳を握って言った。


「行きましょう。ただし、儀式には絶対に干渉しないでください。それが、約束です」


 俺と希は拳を合わせた。

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