Scene017

 悪いな。孫の彼女は死に際に立ち会えなかった。

 土砂災害が起こった日の二日後、世永生太郎は逝去した。享年七十八歳だった。

 その日はよく晴れていた。雲ひとつない快晴で、汗を垂らしながら葬儀を執り行った。

 じいちゃんは今朝亡くなった。朝起きるともう息をしていなかった。昨日まで笑って話していた人間だとは思えなかった。とても寂しかった。

 一番泣いていたのはホープだった。外で激しく叫んでいたアブラゼミに負けないくらい、泣いていた。ばあちゃんが「ありがとう」と彼女に言っていた。その中で近所の人も何人かやってきて、涙を飲んだ。泣かなかったのは俺と親父だけだった。けれど、包帯を巻かれた手がうずいた。悲しみよりも、寂しさよりも、これだけ泣いてくれる人がいるだけで、俺は嬉しかった。親父も、ばあちゃんもそうだと思う。じいちゃんは楽しそうに生きていた。励まされた人も多いんだろうな。

 だから、俺からも、今まで生きてくれて、ありがとう。


 葬儀が完了して、俺はそのまま病院へ行った。もちろん、叶絵に会いに行くため。

 相変わらず病院に行くと患者と間違われる。両手に包帯だからしょうがないとは思うが。制服姿で病室に入ると彼女はきょとんとして、けれど、すぐに察したようだった。


「ごめんね、本当は行きたかったんだけど……」


 俺が今日のできごとを話し終えると、彼女は頭を下げた。ただ、俺に謝られても困るので「墓の前で言ってやれ」と返して、その話はそれ以上しなかった。何だかんだ言って、叶絵とじいちゃんは数回しか会っていなかった。


「お母さんの調子は?」

「うーん……まだ目が覚めてないみたい。やっぱり、ちょっと心配かな」


 俺は叶絵自身のことを聞かないことにしていた。自分から言うまで待ってみることにしたのだ。それはそれでちょっと意地悪かもしれない。まあ、何聞いてもはぐらかされるだけだし、無理に聞くのも悪いと思ってしまう。こういうことをうまいこと引っ張れればいいんだが、なかなかそれも難しい。

 ダメな彼氏っていうか、ダメな人間だよな……。

 でも、仕方ない。

 こんな人間にも、任されたことがあるんだ。


「あのさ、俺、近いうちにこの町を出る」

「……」


 叶絵は微妙な顔をした。驚いているわけでもなく、けれど真顔というわけでもない。あるいは、やっぱり、という顔でさえあった。彼女の返事を待たずに言葉を紡いだ。


「行かないといけないところができた。そんなに長くはならないみたいだけど、今年中に帰って来られるかわからない」


 決断に、迷いはなかった。

 そういう予感もしていたし、何よりもまず、ホープを拾ってきたのは俺なのだから、彼女の面倒は俺が見なければならない。

 手に負える問題でないと思っていたから諦めていたが、それが手に負える問題なのであれば、力になれるのであれば、サポートしなければならないし、サポートしてやりたいのだ。

 話すか話さないか、迷って、結局俺は全部話すことにした。このままでは自然災害が酷くなることや、それを防ぐためにホープと旅に出ることを。もちろん、危ないようなことは言わなかった。ただ、少し旅行に行くくらいのニュアンスで伝えた。期限はわからないけど、必ずいつかは帰ってこれると、断言した。

 叶絵は俺の話に相槌を返して、最後に「そっか」と言うと、


「……隆君は、彼女を置いて行っちゃうんだね」


 と、俯きながら言った。

 それを言われると、返す言葉がなかった。

 彼氏彼女の関係になって、たったの三日で、事実上の別れ話を持ちかけているのだから、そう言われて当然だろう。


「……ごめん」

「彼女を、病室に置いて、大学も、一緒に行くって言っておいて……」

「……ごめん」

「ケン君の試合も、みんなで応援するって、見に行くって言ってたのに……」

「……ごめん」

「海恋っち、こういうの結構うるさいよ。本気で隆君のこと殴っちゃうかも」

「……構わない」

「他の女の子と、行っちゃうんだね」

「……それでも、俺にできることがあるなら、ホープにしてやれることがあるなら、してやりたい。女とか男とか、敵、味方関係なく、血の繋がりも関係なく、関係者として」


 俯いて呟いていた叶絵は顔を上げ、俺を見た。

 叶絵は泣いていた。


「それでこそ、隆君だね……!」


 静かに泣いていた。それは、もしかしたら、本人でも気づいていないんじゃないだろうか。それくらい温度のある涙だった。思わずもらい泣きしそうになるのを堪える。


「よく泣くやつだな」

「本当だよ。ひどい彼氏」

「失敗したって思ってるか?」

「そんな訳ないじゃん……だって、私の恋人は英雄になるんだから。誇らしいよ」

「叶絵の自慢の彼氏になるために、精一杯生きるよ」


 すると、彼女は大きく目を開いた。かと思うと、すぐ優しく笑った。


「よく泣くやつ、だね」


 俺も、どうやら泣いているらしい。


「お前に似たんじゃないか」

「私が、隆君に似たんだよ」

「似たもの同士って訳でもない気がするんだけどな」

「ねえ、隆君」

「何?」

「キスして」

「いいよ」


 外はまだ暑そうだ。窓越しにセミの鳴き声が漏れ聞こえてくる。まるで違う世界にいるみたいだった。

 動きにくそうだったから、俺が立ち上がって、叶絵の唇に近づいた。

 泣き虫な二人の、叫びを押し殺すような、悲鳴を相殺するような、悲しい、キスだった。

 唇を合わせると、もっと涙が溢れてきた。二人の顎を伝って雫がぽたぽたと布団に零れた。

 思いの丈を、無言のまま、沈黙にぶつけた。投げつけた感情は一切跳ね返ることなく、かと言って貫くこともできず、何かにぶつかっては力なくその場に落ちた。落ちて、ぼたぼたと、感情は感情の上に降り積もり、堆積されて、感情の山は、しかしすぐに崩れ、俺たちはそれをもう一度ぶつけ合う。


 ――これが最後かもしれない。


 そんな気持ちがあった。

 きっと帰ってこれる。でも、やはり不安だった。それが彼女にも伝わったのかもしれない。

 加えて、俺が町を出ている間に、この町を自然災害が襲うかもしれない。帰ってきた時に、家がないかもしれない。

 ……誰も、いないかもしれない。

 不安だ。不安で不安で押しつぶされそうだ。不安の山に埋もれてしまう。

 行きたくない。一生、幸せなまま、この町で叶絵といたい。ホープと、健堂と、瀬戸内と、ここに残って、みんなと受験して、大学に通って、仕事して……。

 このまま、このままでいたい。


 唇が離れる。


「手、大丈夫?」

「まだ疼く時もあるけど、とりあえず大丈夫だ」

「無理、しないでね」

「無理だな」

「怪我には気をつけてね」

「配慮してみる」

「死なないでね」「死ねる訳ないだろ」


 二人で笑って、別れの言葉は言わないまま、病室を出た。

 町一番の病院は広くて、三回来ても迷いそうになる。とりあえず受付に戻ろう。

 受付で適当に言って、病室を教えてもらった。まあ、病室は昨日教えてもらっていたのだが、場所がわからなくて、聞きに来ただけなのだけれど。

 ノックの意味があるのかはわからない。でも、一応した。

 プレートには『相星絵美』というプレートがさされていた。

 病室は静かだった。カーテンも閉められて、薄暗かった。

 そこで寝ている人は、叶絵に似ていた。美人だった。歳は四十代後半だろうか。にしては若く見えた。

 穏やかな寝息を立てて、ただ寝ているように見えた。

 白い丸椅子に座った。


「すみません、手ぶらでやってきてしまって」


 俺の声は良く響いた。


「はじめましてですね。叶絵さんの、彼氏です。世永隆と言います。叶絵さんと同じ滝川高校の三年です」


「叶絵さんとは今年の春に出会いました。彼女はお節介にも、授業を抜け出して昼寝をしている俺のところに、ノートを持ってきてくれました。優しい娘さんですよね。俺には、やっぱりもったいないですね」


「おかげで、俺はなんとか立て直せたみたいです。今は、叶絵さんと同じ大学を目指して勉強しているところです」


「彼女は、俺なんかと絡んでても、たくさんお友達もいる人です。毎日楽しそうでした。俺のじいちゃんに、ちょっと似ていました。ああ、これはちょっと失礼だったかもしれません」


「今朝、祖父が亡くなりました。享年七十八でした。八十まで生きると毎日のように言っていたのですが、何から何まで惜しい祖父でした。でも、楽しそうに生きていました。穏やかに亡くなりました。そんな逝き方ができるというだけで、俺の自慢の祖父です。きっと、お母さんもお父さんも、娘さんは自慢の存在だと思います」


「その祖父の置き土産で、俺は近いうちに町を出ます。正直、危険な旅です。でも、タイミングはよかったと思います。多分、もっとこれが早かったら、娘さんは付いてくるなんて言い出したかもしれません。まあ、もしかしたら、それであの事故に巻き込まれずに済んだかもしれないとすると、どうにも、やりきれませんね」


「……この度は、心からお見舞い申し上げます。でも、安心してください。娘さんは大した怪我もありません。変わらず綺麗なままです」


「強い女の子です。逆に、俺が励まされているくらいで。叶絵さんには敵いません」


「心の底から、叶絵さんが彼女で良かったと思います。あの娘に巡り会えて、本当に良かった。彼女じゃなかったら、今頃俺はどうなってたことか。だから、お母さんとお父さんが、彼女を大切なくらい。俺も、大切に思っています」


 ――叶絵さんを、よろしくお願いします。

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