Scene015


 気が遠くなって、土砂の中で眠ってしまいそうだった。

 しかし、なんとか小さな穴から抜け出して、俺は歩いた。さすがに、この格好で病院には行けない。それこそどっちが患者かわからない。

 日はもうほとんど沈みかかっていて、気温も徐々にだけど下がってきた。それでもまだ三十度近くあるかもしれない。そう思うとなかなか、俺も体力のある方だと思う。この暑さの中では熱中症もありえただろう。いつ鼻血を吹き出してぶっ倒れてもおかしくはなかった。

 二つの家は近い距離にあった。でも、土砂にさらされたのはその一方だけだった。もちろん、彼女の隣の家も巻き込まれていた訳だけど。

 まあ、この格好で帰れる場所は一つしかない。

 鍵は持ち合わせていなかったから、戸を叩いて呼んだ。インターホンはあるけれど、家族なのにそんな行儀よくするのもなんだか嫌だった。

 ガラス戸を叩くとガシャガシャ喧しい音がして、すぐにドタドタと床を踏む音が聞こえてきた。やがてガラスに小さい影が現れ、錠がはずれた。


「……」


 出てきた幼女、否、少女は、俺を見て泣きそうな顔をしていた。それを見て、俺は口を開けたまま閉口した。


「おかえり、なさい……」



 じいちゃんが危篤らしい。

 つーか指いてえ……身体も痛い。ついでに首も日焼けしたらしく、狭い浴場で歯を食いしばってシャワーを浴びていた。

 時折声が漏れると、すぐにホープが「大丈夫ですか!」と駆けつけた。その度に戸を開けようとするので、落ち着く暇もない。

 ……やっぱり家に帰ればよかったか。

 土まみれ砂まみれの身体からはいくらでも汚れが出てきた。だからと言って髪を掻くこともままならなくて、仕方がないからじっと湯を浴びていた。


「ぐっ……」


 傷が疼く。

 気にしていなかったが、どうやら手だけでなく、顔や、足、つまりは身体全部が傷だらけだった。


「大丈夫ですか!」

「……お前、ちょっと楽しくなってないか?」

「いえいえ、そんなことはありませんよ。私はただ隆さんのことが心配で心配で……」

「そうかよ……あと、何回も言ってるけどその呼び方やめてくれ。隆でいい」

「そうですか? でも、それだと相星さんより親しげな感じになってしまいます」

「……」


 叶絵……。

 あいつは今どうしているんだろうか。

 そう考えると、こんなところで蹲っている場合ではないように思えてくる。


「……相星さん、どうでしたか?」

「……」

「どうせ、相星さんの思い出の品でも掘り出して来たんでしょう?」


 それくらいはお見通しか。


「掘り出し物は、見つかったみたいで」

「ああ……よかった」

「……なんだか、今日はえらく殊勝ですね。調子が狂います」

「いつも通りだよ。これが、普通だ」

「これは、あくまで私の感想ですけど。私も病気して倒れてた身だったので言えることですけど。やっぱり、いつも通りで接して上げることが一番だと思うんですよ」

「だから、俺はいつも通りだって言ってんだろ!」

「私の知ってる隆さんは、そんな涙声じゃありません!」


 板一枚挟んでも、ホープの声ははっきり聞こえた。そんな声を俺は初めて聞いた。

 シャワーから吐き出される水がタイルに弾かれて、昨日の雨を思い出した。


「その呼び方やめろって……」

「……すみません。おじいちゃんもいるのに」

「……じいちゃんは? 起きてんのか?」

「今は寝ています。ちょうど入れ違いでしたね。さっきまでお医者さんが来ていて、とりあえずは大丈夫だって。でも……」


 もう、長くはないだろう。

 そんなことは言われずともわかっていた。というか、そんなことはずっと前から思っていた。

 俺たち家族からしてみれば、来るところまで来た。という感じだ。


「まあ、もう八十になるんだ。あとは、それこそいつも通り。見届けてやるだけだ」

「……悲しいですね」

「寂しいけど、悲しくはないよ。来るときが来たんだ。ただ、それだけだ」


 それに、別にそうさせられたわけじゃないんだ。寿命で死ぬことは、仕方のないことだ。

 悲しいのは、それ以外で亡くなってしまうことだ。


「そうですね。まあ、そういうことは、ことが済んだ時に考えればいいことです」

「……なあ、一つ、頼んでいいか?」

「はい、なんなりと」

「髪、洗ってくれないか?」


 わしゃわしゃと目の上で音がする。頭が揺れる。

 太ももにタオルを乗せる俺の後ろで、エプロンを着たホープが立っていた。


「痒いとこありませんかー?」

「……ないよ」


 このやり取りが一番痒いところだ。


「隆さんの髪、結構さらさらですね」

「だから、呼び方をだな」

「ずっと気になっていたんですが、なんで隆さんって呼ばれるの嫌なんですか?」

「りゅうさんってほら、化学薬品あるだろう? 硫酸って。なんか、そう呼ばれると危ないやつみたいじゃん」

「うわー子供っぽ」


 うるせー。仕方ないじゃないか。高校に入ってからはそういうことはなくなったが、小中とそんな風に呼ばれて面倒くさかった。その名残というか、後遺症で、そう呼ばれるのが嫌になっていた。まあ、子供っぽいと言われれば、子供っぽいとは思う。

 そう言えば。


「子供っぽいっていうけど、そういえば、お前」

「私は子供じゃありません」

「いや、それはもうわかったから……」


 子供だろ、とツッコミたい気持ちを抑えて話を続ける。俺でも自分はまだ子供だと思っているというのに。


「お前の名前って、本当はなんていうんだ? ホープって所謂あだ名とか呼び名とか、別称なだけで、本当は違う名前があるんじゃないのか?」

「うーん……多分、あるんだと思います。でも、少なくとも私は知りません」


 それと似た話を、確か彼女が目覚めた日に聞いた気がする。その時は特に尋ねる気にもならなかったが、こうして、親しい間柄になると気になるものだ。


「私のことをどこまで話したか忘れましたけど、物心ついたときにはホープという名前と、己の使命だけしか覚えていませんでした。もちろん、一般的な常識は把握していますけど」


 使命というのに、俺は一切触れなかった。それは、『言いたくないことは言わなくていい』という銘に従ったというのもあるが、何よりも彼女の一件が俺には到底関与しきれないことだと思ったからだ。


「もういいよ。あとは自分でできる。ありがとう」

「はい。……そうだ、もしよかったら、隆さ……隆が、私に名前をつけてください」

「名前……?」

「やっぱりこの国でこの名前だと違和感ありますし、改名するわけじゃありませんけど、まあ、あだ名みたいなものですね」

「あだ名……わかった。考えとくよ」


 彼女は満足そうに笑ってじいちゃんの下へ戻った。

 シャワーのハンドルをひねってぬるいお湯を浴びた。泡を取るために少し髪を触った。


「……いってえ」


 口には出さなかった。まあ、たかが数分でそこまで完治するわけがない。やっぱりそこまで面倒見てもらうべきだったかな。

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