龍の章

読者のための、≪主の子供たち≫および改心機と血の城に関する補足

 宗教が何故存在するのか、といえば少なくとも「迷える子羊達を導くため」というのが模範解答であり、教科書的であることは疑いようがない。

 一方で宗教が組織的に形成され、なぜ政治的な善悪に口出しするのか、ということに関して、今のところ、語り手である私は答えることが出来ない。これは迂闊に語り始めると怖い問題である。とはいえ、「何故」に答えられないからといって、それは存在しないんだ、ということにはならない。

 この物語の舞台となっているノヴァ大陸も、やはり同じように政治に対して介入する宗教的組織というのは存在する。それは≪主の子供たち≫という組織である。もっと幾つか存在するが、大抵は即席で作った支離滅裂な経典を振りかざすか、現世利益で釣るか、またもっと真っ当になるならば、他の大陸では、既に第一宗教に躍り出たものの、しかしノヴァ大陸では信徒の数が伸びず、あるいは自分ほうが経典を正しく理解している、といった様々理由でどうしてもマイナーにならざるを得ず、≪主の子供たち≫と比較するならば、余りにも弱弱しすぎる。

 事実、≪主の子供たち≫は、「神にしか人々を裁けません。だから貴方は許しなさい」とする教義に代表されるように、寛容を第一、第一じゃなくても重要であるとする宗教である、というのが教科書的な説明だろう。何処の学校だろうが、何処の教師に聞こうが、個人的な恨みや実際の処は違う、という点を覗けば、確かにその印象を受けるだろう。だが、実際のところは、雨が降ったあとのキノコのように次から次と出てくる新しい神に対して、一つ一つ丁寧に異端宣告をしたのちに弾圧していった。異端は悪であり、端的に寛容の対象ではない、とするのが当時の神学者達の見解だった。

 とはいえ、≪主の子供たち≫は、そのパラノイア気質を持ってして、異端をコンプリートしようとしていた。とにかく自分たちの知らない異端活動が解らないことが気に食わないらしい。≪主の子供たち≫の教義、『カルーア人の教え』という経典の中に、「神になろうとするものは、畜生に落ちる」という一節があったはずだが、しかし彼らは神のように見通そうと必死になっていた。

 確かに、彼らはただ自分達の断りなく神が作られることが嫌いであり、その理由は、神が増えると、お布施の――恐らく入れられる額など≪主の子供たち≫の百分の一に到達しないかどうかくらいだと思うが――一部が自分たちに入ってこないからであった。だが、その「私欲」が「正義」に置き換えられ、また純朴な羊達はそれを信じ、主の子供たちより幾ばくは正しいであろう人々も弾圧されていった。つまり、この強迫観念は、むしろ人間でありたいとする欲望だと思えば、教義とは矛盾しないし、矛盾しないとするならば畜生にも落ちない。

 ちなみに、彼らの「正義」についての象徴的なものを一つだけ挙げるとするならば、恐らく最もふさわしいのは、「改心機」と彼らが呼んたものだろう。「改心機」とは、いわば「恍惚により神の存在を肌身で感じることにより、唯一の神に帰属することを促す機械」というものらしいのだが、実際のところ、拷問道具に近かった。従って、異端の改心作業は段々血なまぐさいことになる。

 だが、この改心機というのは、熱狂的に受け入られた。

 多くの場合、受け入られるものは、自分たちの醜い欲望を、綺麗な建前にして直すことだ。例えば、人々が苦しむ姿を思う存分見たいという欲望。これは一般的だが、善人である自分にとっては、相対的に醜いため、この欲望を直視すると、その醜さで目が焼けてしまうような感覚を覚えるのだ。少なくとも善良な市民であり、人間であり、死後天国に行くと頑なに信じて疑わない人間にとって、それは拷問にかけられるよりも辛いことなのだ。何よりも、彼らは悪人を容赦なく叩くために、自分は悪人ではないというプライドを守り続ける。また、悪人を救うさいも、基本的には自分は善人だから、悪人も寛容になれるという思いがある。

 つまり、そういう原始的だが、自分の善人像と衝突してしまうような欲望を、何らかの形で昇華させるため、「正義」という建前が必要だった。拷問ショーは、≪主の子供たち≫が絡み、そして「改心機」を使うことによって、人々の認識を、そういう醜い欲望から守ってくれる。とにかく、「正義」というのは大きければ大きいほど良い。特に、神なんか最高である。

 証言によると、多くの人々が、目の前で拷問にかけられている人間を「あれは悪魔だ、人間の形をしているだけだ」と思ったらしい。その信念は、悪意を持って言うならば、次のような独り言になる筈だ。


 「神の仰ることを否定するなんて、悪魔か化物かハーフエルフのような混血種くらいなものだ、それに周りにも「神が仰っているから」ということで正当化している。もし私を非難する人間がいれば、あいつとあいつを一緒に巻き添えにしてやればよい。あいつもあれは人間ではない、といったからだ。それに、俺がやった過ちこそ、神様にしか裁けないだろう?」


 貴方は聖人君子ではないにしろ、鞭打たれる奴隷に心を痛める位には善人だろうと考えている。「このような考え方は間違っている」と怒りを持ってして叫び出すかもしれない。しかし、彼らは簡単に否定することは出来ない。なぜなら、彼ら彼女らは、その町の中では立派な一市民だからだ。肉屋は、娘に馬肉をおまけし、野菜屋は、子供がリンゴを盗むのを大目にみてやり、花屋は昨日萎れた花でも交換に応じてやり、絵師は田園風景のきめ細かな一瞬の印象をとらえた、優しい絵を出している。別に卑屈でも何でもない。そういうことだ。人間が一瞬だけ気晴らしのために性格が変わるのは簡単なことだし、案外性格としては一貫しているかもしれない。私は性格類型学の専門でもなければ、なにかの占いに詳しいわけではない。これらについては皆さんの洞察を待ちたい。

 さて、公開改心の場所をもう少し、じっくりと見てみよう。見ている観客の中には、不能と呼ばれた貴族も混ざっていた。この貴族、朝起きたら柔らかいままだったのだ。来る日も来る日も。そして、自分で弄ったり、あるいは適当なメイドにいじらせてみるのだが、上手くいかない。

 それだけなら未だしも――というより、恐らく男性諸君ならこちらのほうが大切だと思われるのだが――威厳ある貴族の家系として育ち、如何なる時でも、その家系らしく風格のあるよう過ごすべきと教えられてきた。そして、自分は威厳があり、風格があると信じていた。そういう根拠の無さは、目の前の柔らかいままの自分の分身を眺めていれば、崩れ去る。要するに、不能とは、自分の根拠なき自信に対する、根拠の無さが顕在化する。

 男は、改心させられている女性を見る。その時の公開改心は、「袋の鼠」と呼ばれていた「改心機」だった。

 麻の袋を異端者に被せ何も見えなくなったところに、その後にナイフで「わるい」と背中に刻み、台の上に乗せる。この台にはちょっとた仕掛けがあり、台の上からは塩が振ってくる仕組みになっていた。つまり、痛みに悶えるたびに塩が振ってくるのだ。この改心機に、固定された裸体の女性に対して、少年たちが石を投げつける。なぜ少年たちなのかは解らないが、そういう決まりだった。この日は色白であばらの見える女性だった。その身体は痩せすぎていて、普段見ている分には痛々しいのだろうけれど、しかし、石をぶつけられ、白い皮膚に赤い血が流れ、その上から雪の上に塩が降る。そのコントラストは大変美しく、貴族は、今まで見た絵画の中で、一番美しいものだと思った。

 貴族は女性のくねくねする動きを見ながら、なんて美しくて、魅惑的で、と思った。自由になりたいという意思を持つ美しさは、自由が奪われたときにしか持ちえぬものだと直感的に思う。生きることを願いながら、今の苦痛を必死で耐える。その抑圧の下で蠢く抵抗こそが最も女性の中で美しいものであると直感的に思うと同時に、下半身の部分に対して、段々と熱くものを感じた。そして不能貴族は十年ぶりに劣情を覚えたことを叫んだ。これだ、と。

 不能貴族は、可能貴族となった。ただ、あの時の女性の姿を見ていると、愛と、性欲が、同時に満たされる不思議な気持ちになるのは間違いなかった。

 そして城に向かい、玩具職人達を集めて、大人の玩具を作り始めた。この貴族は、≪主の子供たち≫ではあったが、多くの信徒とは違い、自分の醜い欲望を直視し、あまつさえ耽溺出来る男だった。そして、その醜い欲望の為ならば、良心を捨てた。

 毎週のように、公開改心を見て、スケッチする。それらのスケッチを見て、「改心機」の欠点がはっきりとわかる。それは「恍惚を持ってして神を一身に感じること」をお題目としているため、どうしても拷問……ではない、改心の方法が、恍惚という終着点に対してセットされている。恍惚という言葉が嫌いならば失神でもいいだろう。それはそれで楽しいものだが、しかしそれだけでは満足しなかった。 

 少々ポルノくさくなってしまうので、もうそういう機械の説明はいいだろう。もちろん、偉大なる文学作品もあるけれども、これはあくまでも三流小説。大切なのは、この貴族が住んでいた城はのちに「血の城」と呼ばれていたということだ。女性の壮絶な声が響き渡る。この世と思えぬ声が絶えず広がり、周囲の農民達を苦しめた。川に死体が浮かぶことは日常茶飯事であるし、玩具職人も、女性の唸りを毎日聞かされ、寝不足と同時に、精神に触れるため、ますます残虐さを発揮していった。何しろ職人達は外に出ることができなかったからだ。幾つかの玩具職人は、この地獄絵図を見て、自ら作った玩具を使って死のうとしたが、死ねなかった。なにしろ、拷問……ではない、玩具は人を如何に殺さないかに真骨頂があるからだ。玩具で死者は一人も出ていない。ちなみに、ここに食料等を届ける商人は常に変わっており、一人を除いて、二度とこの周辺で見ることはなかった。

 貴族が≪主の子供たち≫の信徒であることの意味は重要に覚える。「改心機」を見て感じたような恍惚と似たようなことが、『聖人アビバルの語り』という経典に書いてあるからだ。引用しよう。

 「最初に自由である者は美しくない。なぜなら、自由の尊さを知らないため、簡単に自由を買いたたかれる者だからだ。自由を諦めるものも美しくない。なぜなら、自由が近くにあるのに、手を伸ばさず、口に入れてもらおうとする者だからだ。だが、自由を手に入れようとする者は美しい。なぜなら自由が足りないことを知り、手を伸ばそうとしたときに、既にその身体は自由そのものとして現れるからだ」という話が乗っている。

 文脈としては、これはある金持ちが詐欺にあったために、奴隷になるが、皆で逃げ出せば助かるので、一斉に逃げようと提案されたときに、他の奴隷から馬鹿にされ、さらには主人に告げ口され、謀反を企てた罰として、鞭を打たれるシーンである。そのシーンにおいて、主に願うと、先の引用句のようなお告げが下され、三日四晩鞭を打たれ続けていると、主が風と共に奴隷の小屋を吹き飛ばして自由になる。晴れて奴隷たちは自由になるものの、むしろ元金持ちの奴隷は、自由を知らないため、ただ鎖を結び付けるための柵を探して、そこに鎖をくくり、そして餓死したという。

 とにかく、≪主の子供たち≫は、歴史的に生臭い宗教であることは、覚えておいて悪くはない。


 さて、この背景を理解して、やっと我らが『ゴッド・ヴァイスジェラント』、またの名を≪神の代理人≫と呼ばれる闇ギルドの存在について語ることが出来るだろう。≪神の代理人≫というのは、「ゴッドブレス」という名前の男が設立したとだけ記録されているが、この「ゴッドブレス」が何者で、何の目的で作ったのか解らないのである。設立当初から使われ続けている宣言から推測するに、≪神の代理人≫は、明確な≪主の子供たち≫に対する宣戦布告であったと言われている。恐らく、どんな団体も≪主の子供たち≫以外は、「主」や「神」を入れなかった。何故なら、≪主の子供たち≫が如何にその温厚そうな笑顔の裏に、漆黒の闇が広がっているのか、多くの人々は知っていたのだ。多くの異端宣告を受けた団体は共存だった。だが、それでも弾圧されたのだが……。

 ≪神の代理人≫は、他の異端団体とは違い、明確に敵対を目的にしていた。つまり、≪神の代理人≫にとって、≪主の子供たち≫は異端であると宣言していた。

 ここまで聞くと、恰も「闇ギルド」ではなく、単なる宗教団体かもしれない。だが、やはり彼らは宗教団体というのにはふさわしくはない。やはり闇ギルドというほうがしっくり来て、さらに言うと宗教団体よりは、秘密結社に近いものかもしれない。

 表に出ているギルド、例えば玩具職人連盟だとか、あるいは冒険者の会、ウィザード・コミューンは、全て王国によって公認されたものであり、暗に≪主の子供たち≫の沈黙を持ってして公式にされたものである。ここで、当然の如く、二つの制約が出てくる。一つは「王国の秩序を脅かさないこと」、そして二つ目は「≪主の子供たち≫の秩序維持に協力すること」。この二つである。前者は法律を守れよ、という軽いものに対して、後者は俺たちの我がままを聞けということになる。とはいえ、ギルドのほうも、上の地位に行けば行くほど、≪主の子供たち≫に誘われる可能性もあるわけで、これはこれで、お互いに依存しあっている形なのだろう。

 では≪神の代理人≫の場合はどうだろうか。まず、王国上の法律に引っかかることを平気でやる。さらには、≪主の子供たち≫は完全無視どころが、襲撃対象の一つである。というわけで、完全に表で堂々としていられるギルドではないどころか、関わっていることが疑われれば、完全に死ぬまで――というより死ねないまま、改心機に二〇年間かけられ続け、苦痛で現実と妄想が区別つかなくなって、精神崩壊する(これを≪主の子供たち≫は転生した、無垢になったというらしい)。そして汚い河原で打ち捨てられ、肉食鳥に腐肉を食われるのだ。

 ただし、ゴッドブレス曰く、信心深き敬虔たるギルド員ならば、文字通り≪神の代理人≫が奴らを裁きに来てくれる、と信じて耐えられる筈である、と述べる。そして、それは何時かやってくるのだ、という。

 しかし、そういうギルドはいくらでもある。例えば盗賊ギルド。盗賊ギルドは、≪主の子供たち≫とは積極的な関わりを持っていたものの、しかし王国の秩序を乱すようなことは行っていた。簡単なところでは、とある貴族品から希少品を奪ってくるという怪盗みたいな仕事であったり、さらには暗殺もあるし、諜報もある。当然デマを流すこともある。

 だが、盗賊ギルドの場合は、≪主の子供たち≫のお気に入りであったため、兵に逮捕されるものの、盗賊ギルド出身というだけで有耶無耶にされることもしばしばあった。泥棒に入ったほうが盗賊ギルド出身で、泥棒に入られた男のほうが、その泥棒を捕まえてボコボコにしたという、過剰正当防衛という理由で、逆に逮捕され、冷や飯を食べ、独房の中で、一日十回の主への挨拶が義務付けられた。

 実は、ロウは元盗賊ギルド出身である。さすがにこの話も、一章分まるまる当てないと書けないだろ。そのときの話も、皆がどう思うかわからないが愉快痛快であり、披露したいという思いをぐっと抑えよう。三つ子の魂百まで、というわけで、目の前の話から進めていこう。

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