第10話 勇者

 手の平が見える。

 甘く開いた、中に何も無い、見覚えはあるが、記憶よりも大きくなった手の平だ。


 だが反対側の手には、俺のではない別の手が握られていた。小さな小さな、生まれたての赤ん坊の手だ。


 起き上がって部屋を見回す。凝った調度品に大きなベッド、磨かれた姿見と化粧台。身分の高い者の部屋だと一目で分かった。そのベッドで俺は寝転がっていて、隣で寝ている赤ん坊の手をぎゅっと握っている。


 記憶がない。魔王討伐の旅に出て以降、一体何をしてきたのか、世界はどうなったのか、どうやってここに来たのか、俺はこれから何をしようとしているのか。何も分からない。


 だが。


 この赤ん坊が、俺の子供である事は覚えている。そして、俺の愛する人物の名前も顔も、はっきりと覚えている。


「トルイ様、お目覚めですか」


 そう言って、朝食を持って部屋に入って来た人の名を俺は呼ぶ。


「ミルラ!」

「ふふ、どうしました?」


 ミルラは微笑みながら、テーブルに朝食を並べる。


「いやあの、何も覚えてないんだが……いやいや、ミルラとこの子の事は覚えていて、それで、でも……」


 上手く言葉が紡げずに困る。空っぽの頭の中に、ぽつりとミルラと子供の事だけが浮かんでいるのだ。それらが何とも繋がっていないので、ただただ混乱している。


「無理はありませんよ。実際私もなんでトルイ様の記憶が回復したのか分かりませんし。これからゆっくり考えていきましょう」


 この突然突きつけられた状況にちょっとした恐怖すら覚えている俺とは違って、ミルラの声は高揚していた。


「何がそんなに嬉しいんだ?」と、尋ねてみる。

 ミルラはまた笑って、「親子3人でいられるなんて夢みたいで……」と答えた。


 繋がりはないが、独立した記憶の中に、確かな感情が含まれている。それは、俺がミルラと子供を愛しているという事と、何に代えてもこのこの2人は守るという決意だ。


 ミルラの用意した食事に舌鼓を打ちながら、俺は自分が持っていた何枚かのメモを確認した。本当はもっとミルラとの食事に集中したかったのだが、赤ん坊に乳をやっている姿を直視するのが何だか妙に照れ臭く、事実の確認作業を優先する事にした。


 メモとミルラの話から分かる事は、魔王を討伐した後で俺が魔王になったという事。ロードワースを疑っていたという事。そしてその疑いは正しく、奴は俺を利用していたという事だ。

 肝心のロードワースはといえば、俺がミルラと再会している間に、部下達と共に屋敷を発ったらしい。それが昨晩の事なので、今から追いかけても間に合わないだろう。そもそも追いかけてどうする? 復讐でもするか? 以前の俺ならその可能性もあったが、今の俺にはミルラとこの子がいる。軽率な事は出来ない。


 というのは半分言い訳だ。


 正直に言えば、ロードワースがした事に関して俺はそこまで怒っていない。裏切られた事自体は悲しいし、俺を魔王に仕立て上げた事に対する恨みはある。しかしそれでも幼馴染であり、初めての旅の仲間だ。何かしら、奴をそうさせた理由があるのだろう。


 だからいつかまた会った時に、とことんまで話せばいい。それくらいに考えている。


 それよりも俺が今気になるのは、頭の中の状況だ。


「何故記憶が戻ったんだろう。それも、一部分だけ」


 ミルラは少し考えて、


「トルイ様の『何か特別な力』が原因なのではないかと思います。なんとなく、ですが」


 何か特別な力。その正体を俺は知らない。いや知っているのかもしれないが覚えていない。何度確かめてみても、俺が今思い出しているのは、ミルラと子供の事だけだ。


「……その内他の事も思い出しますよ、きっと」


 と、ミルラは明るく言った。その様は、「影」を見せないように努めているように俺の目には映った。


 再び2人の事を忘れてしまうかもしれないという「影」だ。


「もう忘れない」


 自分を説得するように俺は言った。


 それともう1つ、気になる事があった。

 俺がメモと一緒に持っていた手紙の事だ。


「これは私が書いた物ではありません。私が幽閉されていた事は事実ですが、手紙を出してくれる協力者なんていませんし、そもそもこれは私の字じゃないです」

「では誰が?」

「分かりませんね。でも協力者だとは思います。そしてトルイ様を取り巻く状況を良く知っていて、トルイ様を私の所へ導いてくれた方です」


 もちろん、頭の中に思い当たる人物はいない。


「ロードワースの後を追ってきたという事は、俺は元々魔王軍の本拠地にいたはずだ。そこにこの謎の協力者がいるのかもしれない。だがその協力者は、大っぴらに俺を助ける立場にはない。それが出来るならこんな回りくどい真似はしないだろうからな」


 さて、どうするか。


「助けるべきです」


 俺の本心を先に言ったのはミルラだった。


「だが……」と、俺は子供を見る。まだ名前も決めていない我が子だ。


「行ってきて下さい。トルイ様は誰かを助けずにはいられない人です。ましてや恩義のある人ならばなおさら。例え覚えていなくても、あなたは勇者です」


「……分かった。新しいメモを作ろう。『手紙の主に会ったら、ミルラの所にすぐに戻る』それだけでいい」


「帰ってきたら、この子の名前を決めましょう」

「そうだな。考えておくよ」


 もう忘れない。

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