第9話 再会

 手を握った瞬間。


 頭の中に風が吹いた気がした。花びらの舞う暖かい風だ。海のような星空のような景色が一瞬広がり、すぐに消えた。


 現実に戻ると、赤ん坊は不思議そうに俺を見ていた。俺も同じく赤ん坊を見ていたが、頭の中には別のイメージが残っていた。


 簡素な服を着た女だ。手錠をつけている。ベッドに座りながらこっちを向いて微笑んでいる。その眼差しには優しさと悲しさが同居しているように見えたが、そのイメージが持っているのは優しさだけだった。


 そして驚くべき事に、俺にはその女に「見覚え」があった。久しく無かった感覚、何かを見て、眠っていた記憶を呼び起こすという行為その物に、俺は妙な懐かしさを感じた。思い出し方を思い出す。しかも、俺にはその女の名前が分かった。


「ミルラ……ミルラだ」


 俺がその名前を口に出すと、宴席が凍りついた。眉をひそめている者、カドハンス氏の表情を伺う者、眉間に皺を寄せながら俺を見る者。ロードワースとその部下はというと、俺の次の行動を待っているようだった。場合によっては剣を抜く。そんな可能性が卓にある。


 自分の身に何が起こったか分からず、放心状態の俺に対して、ロードワースがこう言った。


「トルイ、その赤ん坊を渡せ」


 既に赤ん坊の手は俺の指から離れている。しかし頭の中にはまだ、ミルラのイメージが残っていた。


 俺は赤ん坊をトルイには渡さず、乳母に預け、俺の後ろ側に下がらせた。そちら側にはカドハンス氏がいるが、まさか自分の孫を殺す事はないだろう。


「おい、ここで剣を抜くのか? 全員死ぬぜ」


 柄には手をかけるが、まだ抜かない。ロードワースが動いてからでも十分間に合う。とは言え、出来れば平和的に解決したい。


「ミルラのいる部屋に案内しろ」


 俺は誰にでもなくそう命ずる。従うのは誰でもいいからだ。赤ん坊の安全は確保しなければならないが、早くミルラに会いたいという気持ちも強い。


 だが、俺の命令に従う者は、その場には1人としていなかった。


「……どこまで思い出した?」と、ロードワース。


「まだ1つしか思い出していない。お前が敵だという事だけだ」


 正確に言えば、俺はミルラの事しか思い出していない。だが、ミルラの事を隠していたロードワースは確実に俺の敵だ。だから間違ってはいない。


「なら、俺からも1つだけ言っておこう」


 ロードワースは柄にかけた手を解き、椅子に座った。


「お前は魔王だ。もう勇者じゃない」


 それから部下に目配せをすると、その中の1人が「案内します」と申し出た。


 赤ん坊を連れた乳母と、それからカドハンス氏と共にミルラが幽閉されている部屋へ向かった。ドアの前に着いた時、カドハンス氏が言った。


「トルイ様、もうお気づきかと思われますが、この赤ん坊はあなたとミルラの子です」


 言われるまでもなく、手を握った時から確信があった。他人ではあるはずのない繋がりが俺の頭にイメージを流し込んだ。


 あの瞬間、自分の身に何が起きたのか。それをきちんと説明する事は難しい。


 記憶とは別の所で、「何らかの力」が働いたとしか考えられない。かつて魔王討伐の旅に出る時に言われた「何か特別な力」その正体を俺は知らないが、先程感じた物は、それと呼んでも違和感の無い物だった。


「最初、ミルラが城から帰されたのはバルザロ様からの命令で、トルイ様に粗相を働いたとの事でした。ミルラ本人はそれを強く否定し、城へ戻る事を希望しましたが、我々はそれを許しませんでした。何故なら、ミルラもそろそろ結婚をと考えていたからです」


 カドハンス氏は、虚飾を排した事実を並べるようにして語った。


「私は説得を続けましたが、ミルラは1度も首を縦に振りませんでした。そして3ヶ月もすると、ミルラが妊娠している事が判明し、結婚の話は流れました。本人は誰の子かを言いませんでしたが、そんな時ロードワース様がこの屋敷にやってきました。そして、子供とミルラを離すように。ミルラを部屋に幽閉するように命じました。トルイ様を新たな魔王とし、現王を打倒する計画。我々に抗う術はありませんでした」


 俺は渡された鍵でミルラの部屋の錠を開ける。この先に、彼女がいる。


「それと、ロードワース様はこうも言っていました」


 我慢出来ず、カドハンス氏の言葉を待たずに俺は扉を開けた。急いでベッドに寄ると、そこに彼女が眠っていた。その寝顔は、俺が確実に昔見たものだ。


 言葉が出ない。ずっと記憶に無かったのに、ずっと会いたかったような、都合の良い憂愁だと言われればそれまでだが、感情が俺を支配していた。


 ゆっくりと目を開けるミルラ。俺の姿を確認すると、俺の名を呼んだ。


「トルイ……様?」


 俺は手を握り、答える。


「ミルラ。もう心配はいらない」


 ミルラの両目に涙が一杯溜まり、瞼を閉じると同時に零れ落ちた。

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