第9話 魔獣
「では後ろを向いてください」
言われる通り、俺は後ろを向いて背中を見せた。バルザロ氏が専用の筆で背中をなぞる。くすぐったくはない。
「結構結構。ひとまずこれで様子を見てみましょう」
俺は鏡の前で上半身に描かれた紋様を確認する。円形で複雑な模様をしている。俺の持っている知識ではどんな効果があるかは分からないが、俺はバルザロ氏を信用している。何故なら、ミルアが信用出来ると言ったからだ。
「トルイ様、例の『何か特別な力』の使い方は思い出せましたか?」
バルザロ氏の質問に、俺は正直に答える。
「いえ……残党とは何度か戦いましたが、使ってはいない、と思います」
俺が終わったので、次はミルラがバルザロ氏の前に座った。今日でミルラの折れた腕は完治し、両腕が使えるようになる。
「そうなのかね? ミルラ君」
「はい。少なくとも私が見ている前では、トルイ様は『何か特別な力』を使ってはいません」
「ふむ、そうか」
バルザロ氏は何かを考えながら、ミルラの腕の包帯を解いているようだった。
「以前にも説明しましたが、トルイ様に描いた紋様は、トルイ様のお身体を観察する為の物です。何か異常があった時や強い魔力に身体が晒された時に紋様が反応し、情報を記録します」
魔術には詳しくないので、バルザロ氏がその後続けて説明してくれた事は半分ほども理解出来なかった。なので、俺はストレートに質問した。
「俺の持っている『何か特別な力』が、記憶を戻す手がかりになるんですか?」
「それは何とも言えませんな。しかし、他に『何か特別な力』を持つ者がいない以上、トルイ様を観察するしかありません。トルイ様の身に今起きている事はトルイ様の得意な肉体に由来して起こっている事な訳ですから、出来る事はやっておく価値はあると思いますが、違いますかな?」
その後も、くどくど回りくどい言い方で身体に描いた紋様の正当性と、「何か特別な力」の使い方を出来るだけ早く思い出すようにと言われ続けた。ミルラの信頼する人物にこんな事を思うのもあれだが、バルザロ氏は少し嫌な奴のようだ。
「紋様は水で洗っても消えませんし、記録された情報は私のような高位の魔術師にしか解析出来ませんので、トルイ様は気にせずに旅をお続けください。きっとその内、『何か特別な力』を使わざるを得ない状況になるでしょうし」
そんな言い方をされると意地でも使い方など思い出さなくていいと思ってしまうが、そんな思いも俺は明日には忘れる。
「ちなみにですが」と、尋ねてみる。「俺以外に『何か特別な力』の使い方を知っている人物はいないんですか?」
「おりますよ」
バルザロ氏はあっさり答えた。
「かつてのあなたの旅の仲間が数名。ただ、以前のあなたが念を込めて口封じしたらしく、少しも教えてくれませんがね」
数名も仲間がいたのか、というのがまず驚きだったが、1人なら心当たりがあった。
「ああ。あともう1人」
「もう1人?」
「魔王自身ですな」
魔王は倒したはずでは? と訊こうかとしたが、先にバルザロ氏が「万が一生きていればですよ」と付け足した。
「それでは、私はこの辺で」
バルザロ氏が似合わない帽子を被り、宿から出て行こうとした。その時、ミルラが俺越しに声をかけた。
「『彼女』はどうなりました?」
彼女、誰の事だろう?
「生家へ帰りましたよ、ミルラさん。彼女の父は私の古い友人なので、つい昨日聞いたんですが、脱走を企てたようです。失敗に終わったとの事ですが」
「そうですか」
ミルラは沈黙し、無表情のままだった。
「ミルラさん、あなたはあなたの仕事を全うしてください。では」
バルザロ氏はそう言い残し、帰っていった。
「彼女って?」
―――
湿った光が瞼を触る。鼻をくすぐる緑の香りは、その森の深さを雄弁に物語っていた。四方八方を木に囲われた獣道を、俺は歩いていた。
「ここは……」
前を歩く人物に声をかける。鎧を着た女で、土の上でも驚くほど静かに歩いていた。女は俺に振り向き、紋章を見せた。
「ミルラです。後はメモをご確認ください」
俺は外套からメモを取り出す。読みながら、前を歩くミルラについていく。少しもスピードを落とさず一定の速度で進むこのミルラという女が、どうやら俺の命の恩人であり、この旅のパートナーらしい。
「今はどこへ向かっている?」
俺が尋ねると、ミルラは振り向かないままやや早口で答えた。
「この森に魔獣が出没するという情報を手に入れたので、探しています。魔獣がいるという事はそれを使役する人物がいるという事なので、注意して下さい」
恐らく何回も同じ説明を俺にしたのだろう。
「ちなみに、この森に入って何日目なのかだけ聞いていいか?」
「10日目です」
10日も歩き回っていないなら、いないのではないか。
という俺の疑惑を振り払うように、大型の魔獣が木の上から飛び降りてきた。
見た目は猫科の四足獣だが、ただの獣ではないのは少し観察すれば明らかだった。全身に黒いもやのような物を纏い、牙も爪も鋭く、しなやかに膨らんだ筋肉から放たれるそれは、おそらく容易く人の命を奪うだろう。
だが、心配はいらない。なぜなら、その魔獣は既に事切れていたからだ。
眉間に真っ直ぐ矢が刺さっている。だから「飛び降りてきた」というのは最初に受けた印象であり、「落ちてきた」が正しい。魔獣の巨大な身体が横になり、何が起きたのかと辺りを見回すと、後方から1人の男がやってきた。その手には巨大な弓を持っている。
その顔には見覚えがあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます