第2話 敵意

―――


 頬にヌメッとした感触があり、反射的に手で拭うと、それは赤い血だった。一瞬ギョッとして、俺は自分の身体を確かめる。どこも痛くはないが、少し疲れているような気がする。息はあがっていないが、僅かに汗ばんでいる。


 手に握られた剣もべっとりと血まみれだ。そして目の前には、死体が3つ転がっていた。

 死体は3つとも仮面を被っていた。皆同じ黒い鎧を着て、近くに同じ長剣が3本落ちている。1人は胴体で真っ二つに分かれていて、1人は真っ赤な腹を押さえて仰向けに寝転び、1人は首があり得ない角度で曲がっている。


 死体を見る事自体は初めてではないが、ここまで酷い物は見た事がなく俺は少し気分が悪くなった。


「トルイ様!」


 俺の名を呼ぶ声に振り向く。と同時に、握っていたそちらに剣を向けると、その女は一瞬驚き焦ったが、しかしすぐに何かに納得したようにこう言った。


「私は近衛兵隊所属のミルラです。この紋章を見て下さい」


 見れば、それは俺の祖国の物だった。


「えっと、状況を説明しますね。この死体は勇者様を襲いに来た魔王軍の残党です。私は彼らが来る前に勇者様を避難させようと急いでやって来たのですが、間に合わず、勇者様の手を煩わせてしまう事になってしまいました」


 俺はミルラの話を半分聴きながら、ポケットに入っていたメモを読んだ。「俺には記憶がない」……。


 何となく状況を理解しつつある俺は、確認の意味を込めてミルラに尋ねる。


「……『これ』は俺がやったのか?」


 死体の方を改めて見るのも何だか嫌で、顔で後ろの惨状を示すと、ミルラは大きく頷いた。


「はい。見事な剣さばきで、あっという間に3人とも倒してしまいました。トルイ様の武勇伝は沢山伝え聞いていますが、実際に目の前で見るのは初めてで、私感動してしまいました」


 輝く瞳でそう言う彼女だったが、俺には全く実感がなく、ただただこの状況にちょっと「引いて」いた。だが結果を見るに、記憶がなくても身体が剣の使い方を覚えているという事だろうか。旅に出たばかりの俺なら、武装した相手3対1でここまで凄惨な勝利を収める事など出来ないからだ。


「ですが、こうしてのんびりと話してもいられません。また新たな追っ手がやって来るかもしれませんから、早く避難しましょう」

「避難? どこへ?」

「城ですよ。勇者様は我が国の恩人。例え記憶を失くそうと、我々にはあなたをお守りする義務があります」


 熱っぽく語るミルラとは対照的に、俺はまだそこまでの危機意識がない。だが無理もないだろう。事態を飲み込めていないし、仮に理解したとしてもしばらくしたら忘れているのだ。


「城に行く前に、少し準備をさせてくれないか」

 とは言った物の、何を準備すればいいのかは分からない。が、出かけるのに手ぶらというのも何だか不安だ。普段の自分が何を持ち歩いているかは分からないが、小屋の中に戻れば何かしらヒントはあるはず。


 見覚えの無い部屋だった。暖炉、テーブルと椅子、本棚。物が少ない。武器さえない。

 テーブルの上には茶の入ったカップが置いてある。喉も渇いていたので、俺はそのカップを掴んで、口に近づけた。その時、


「お待ちください!」


 ミルラが俺の手首をそっと掴んで止めた。

「それ、いつのお茶かメモに書いてあります?」


 当然書いてない。確かに言われてみれば、おそらくこれを淹れたのは俺だろうが、いつの俺かまでは分からない。ひょっとしたら1年前かもしれないのだ。


「私が新しく淹れてきますので、トルイ様は出発の準備を」


 ミルラが台所へ行ったので、俺は本棚を眺めた。約半分に図鑑や兵法書、魔法書の類が雑多に並び、残りの半分を物語が埋めている。見た事がある物もあるが、無い物もある。だが恐らく全て見た事がある物なのだろう。覚えていないだけで。


 1度読んだ物語でも、何度でも新鮮に楽しめるのは得な所か。


 そんな事を自嘲的に思いながら、俺は何を持っていくべきか考えていた。城までの距離が分からないので、どの程度の時間がかかるかも分からないが、ミルラが大荷物で来ていない以上そこまで時間はかからないだろう。

 武器がないのが意外だったので、俺は途方に暮れる事になった。持って行きたい物は1つだけある。記憶だ。

 ああ、そうだ。記憶を持っていく必要がある。


 メモと、それに書き込むための羽根ペン。インクも必要だ。自分の頭が頼りにならない以上、これらの道具を利用するしかない。


 だが部屋を見渡してみても、それらしい物が見当たらない。既に字の書き込まれたメモは手元にあるので、ペン自体は必ずあるはずだ。しかしこんなに物が無い部屋で見落とすはずがない。


 俺は仕方なく、台所へ行った。そこではミルラが、何かを見下ろして固まっていた。茶は淹れていないようだ。

「どうかしたか?」

 そう声をかけると、ミルラはすぐ様振り向いて、引きつった表情をこちらに向けた。怪訝に思って近づくと、何かを隠したのが見えた。


「どうした?」

「いえ、何でもありません。トルイ様は居間でお待ちになってください」

 声がうわずっているのが分かった。俺はミルラの言葉を無視して、隠した物を覗き込む。

 そこには俺の探していたペンがあった。それと何枚かのメモ。植物が描かれた図鑑。メモには何かびっしりと書いてある。俺の字だ。


「……これは?」

 ミルラは俺の質問に答えない。ただじっと俯いている。


 図鑑の開かれたページを見る。書かれたメモもざっと見る。そして側に置いてあったすりこぎと乳鉢に気づいた。その中では図鑑に書かれた花がすり潰されていた。


 それは毒だった。致死性は高いが、安らかに死ねる毒だ。どうやら俺がそれを選んだらしい。


 先ほどのカップに入っていた茶。

 俺が飲むのをミルラが止めていなかったら。


「俺は魔王軍の残党だけじゃなく、俺にも命を狙われているらしいな」

 そう言うと、ミルラが俺の手を握った。

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