前向性健忘勇者

和田駄々

1章 忘却

第1話 手

 手の平が見える。

 甘く開いた、中に何も無い、見覚えはあるが、記憶よりも大きくなった手の平だ。


 それは俺の手の平だった。くるりと返すと、今度は傷のついた手の甲と、やや骨ばった5本の指が現れた。傷といっても既に治っている古傷。元は切り傷だろうか、皮膚に馴染んでいる。


 左手と右手、どちらにも違和感を感じた。自分の意思で動かしているにも関わらず、それが自分の物ではないような、有り体に言えば誰かの手を操作しているような、そんな感覚。これは本当に俺の手か?


 そんな疑問から現実がじんわりと広がっていき、俺は周囲の様子を観察し始めた。まずここは……見覚えのない部屋だ。壁は木製、屋根も同じで、暖炉と机と本棚がある。

 窓から外が見えた、雨上がりのようで、木が気持ち艶やかだ。そして俺はそんな部屋の中心で椅子に座って、自分の手を見つめている。カップには茶が入っている。しかし茶を淹れた人間はどこにも見当たらない。


 そしてそのカップの隣に、少し端が焦げた、何枚かの紙束が見えた。何の気なしに俺はそれを手に取る。


「俺には記憶がない。新しく覚えられない。俺の名前はトルイ。勇者だ」


 紙の1枚目にはそう書かれていた。

 めくる。


「魔王は既に倒した。世界は平和になった。後はここで余生を暮らすだけだ」


 そう書いてある。

 記憶の蓋が、僅かに持ち上がる。


 そうだ、俺は確か「何か特別な才能」があると見込まれて、旅に出た。魔王を倒す為の旅だった。はっきりと覚えている。俺に祝福を与えた司祭の顔だとか、旅立ちの日に友人と別れを惜しんだ事とか、剣の修行でお世話になった先生に挨拶した事とか。そんなシーンが頭の中にある。しかしその後の記憶が、深い霧の中にあるように不安定で、一端さえ掴む事が出来ない。


「大事だと思う事だけをこの紙に書け。既にやった事を書いた紙は燃やせ」


 3枚目、そんな言葉を最後に、後は白紙が続いた。


「俺には記憶がない」


 1枚目の紙をもう1度読んで、俺が今置かれている立場と照らし合わせる。確かに、この紙は嘘をついていない。これを書いたのは俺だ。なぜならこれは俺の字だ。


 状況を理解した時、俺は不思議な気分になった。魔王が倒されたのは良い事だ。それを俺がやったというのは次に良い事だ。誇っていいのだろう。不満も不安もなく、これから何かをしなければならないという義務感もない。俺は手の平をもう1度見る。そこには何も無い。

 空虚自身。


 そして俺はゾッとする。きっと俺はここに来てから、何日も、いやもしかすると何年もこんな気分になって来たのだろう。今こうして考えている事も、その内忘れる。忘れて、この紙を見て、また安心し、また空虚な気持ちになる。そしてまた忘れる。また覚える。忘れる。覚える。忘れる。


 こんな不幸があるだろうか。


 だが、魔王のいない今、俺にある「何か特別な才能」など微塵も役に立たない。あるのは自分の記憶さえ持てない男だ。


 俺は目を閉じる。




―――




 手の平が見える。

 甘く開いた、中に何も無い、見覚えはあるが、記憶よりも大きくなった手の平だ。


 そして窓の外で、髪を束ねた女がこっちに向かって小声で何かを言っていた。僅かに聞き取れるのは、「扉」という単語。そして扉の方を指すジェスチャー。

 俺は座っていた椅子から身体を起こし、背中側にあった扉を開いた。鍵がかかっていたので入れなかったようだ。女が窓から回り込んで来て、部屋の中に入ると、バタンと扉を閉めて再び鍵をかけた。


「ああ、良かった! ちょっと緊急事態なんです。勇者様、今すぐお逃げください」


 見ると、女は走って来たようで額に汗を流していた。それと扉を開けた時に気づいたが、外は夕方のようだ。俺は女の言葉を理解する前に、手元にあったメモを読んだ。


「俺には記憶が無い」「魔王はすでに倒した」「新しく覚えられない」


「勇者様、急いでください。ここを出る準備を」


 女の格好を改めて見ると、軽装だが鎧のようだ。腰には剣もさしている。何も言わず、不審な表情をする俺に気を使ってか、女は鎧にあしらわれた紋章を見せてこう名乗った。


「近衛兵隊所属、ミルラと申します。勇者様の身の安全を守り、生活のお世話をさせて頂いています」


  ミルラ、という名前に当然聞き覚えはなかった。しかし紋章は確かに本物だ。俺は尋ねる。


「緊急事態……というのは?」

「はい。魔王軍の残党にこの場所がバレました。急いで勇者様に避難をさせるようにとの命令でここまで急いで来ました」


 はきはきと答えるミルラに、正直たじろぎつつも俺は、自分の置かれた状況を頭の中で整理していた。記憶が無いのは確かだ。そしてこのメモに書いてある事も確かだ。このミルラという女の言っている事はよく分からないが、俺は俺自身さえよく分からない。


「……まずいです。もう来ました」


 ミルラの表情が変わった。剣をゆっくりと抜く。それから俺も、馬の蹄の音がこの小屋に近づいてきているのに気づいた。ミルラが小声だったのは追っ手を気にしてか。3頭、全てに誰かが乗っている。そしてその誰かは、武装している。鎧の音で分かった。


「魔王軍の残党です」

 ミルラが剣を持つ手に力を込める。僅かに震えているのが分かった。俺は尋ねる。

「実戦経験は?」


「……あ、ありません。ですが、この身に代えましても、勇者様は必ず……」


 言い終わる前に、俺はミルラから剣を奪った。


 自分が一体何なのかも分からないし、さっきまで何をしていたのかも分からないのに、今すべき事だけは何故か分かった。そして、俺の手の平には、剣が握られた。

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