それは言わない約束(7/8)

頭の整理がつかないまま、美咲は壁にかかったパネルを見る。ポストカードのような山と湖の写真の下に「大沼国定公園」と記されている。


「二階堂さん、良かったら飲みませんか? 自動販売機のお茶です」

二本のペットボトルを持った柴田は、ジャンパーを幾分か膨ませ、袖口から黄色のカーディガンを覗かせていた。美咲の目線を受けて、おでこを掻く。

「年寄りに『冷え』は天敵でしてな。中に一枚着てきました。不格好で申し訳ない」

照れた笑みで、柴田はペットボトルの蓋を開けた。

「心を推察するのは私の仕事の領域ではありませんが、肇さんには勤め先を欠勤するうしろめたさがあったんでしょう。あなたは裏切られた気持ちかもしれませんが、私は、肇さんが翼くんに熱を上げる理由が分かり……理由を知っています」

言い間違いを隠す仕草で、柴田はお茶を一口含んだ。

「さて……私の報告は、以上です」

三枚の写真をしまい、穏やかな口調で告げると、柴田はファイルをテーブルの端に寄せた。そうして、ズボンのポケットから藍色の小銭入れを出して逆さまにした。

中味がこぼれ落ちる。

「これはね、私のパートナー。全部で8ピースです」

ジグゾーパズルだった。

マジシャンさながらの手つきで、柴田はそのピースを裏返したまま合わせ始める。

やがて、1分もしないうちに、子供の手のひらほどの正方形がかたち作られた。

完成ではない。

真ん中に収まるはずの一片が欠けている。

「先ほど申し上げたとおり、私の仕事は事実を伝えることです」

枯れ枝のような指で、柴田は自分の髪をゆったりした動作で整える。

「私たち探偵が事実をクライアントに伝えた後に、当然、何かの結果が生まれます。それは、たとえば、離婚であったり、訴訟であったり、人間関係の決裂であったり……皆さんの行動までは制約できませんから、そうした結果に対して私たちは何もしません。それは、お分かりですね?」

美咲は相手の横顔を見つめ、力なく「はい」と返す。

「最後の一ピースを埋めるのは、クライアントの皆さんです。私は事実を並べたて、そこでパッと手を放す。これをひっくり返したときの絵柄を予想しないし、欠けた一ピースがはまったものを見ることもない」

そこまで一気に言って、柴田は頬杖をついた。話すのに疲れたように息を入れる。

「……柴田さん、夫が翼くんのことをわたしに言わないのには理由があります。わたしたちには……」

「二階堂さん、知っています。その先を、私は聞く必要がない。六年前にあなたたち夫婦に起きたことを」

「それに、いまのわたしには……」

「……はい。それも大丈夫です。こういう商売ですから、私たちは報告に必要のない周辺のことも調べてしまうことをお赦しください。しかし、その秘密をあなた自身の口から私が聞くのはバカげている」

「……ええ、でも」

美咲の涙声を、陽だまりに似た笑みで柴田は拒否した。

「私は人生相談の相手ではありません。二階堂肇さんの素行調査を請け負っただけの探偵です。ただ……」

ガラス窓に起伏ある稜線が映っている。山は黒く、雲は薄墨色だ。遠ざかるにつれ、そのふたつの境界線がかたちを変え、群青の空に解けていく。

「……ただ、今回の案件については、私は少々センチメンタルになっています。あなたをこの列車に同乗させ、苫小牧に向かわせているのは私のわがままだ」

「わがまま?」

「ええ……年を取ると人は欲張りになる。私は、肇さんの人形劇もさることながら、翼くんのお芝居をどうしても観たくなった。肇さんがかくも愛情を注ぐ子の頑張りを確かめたくなった。実は、電車好きな翼くんもお母さんとこの寝台列車に乗って、東京を離れました。いまの私たちと同じ景色を見たかもしれない。私はそれにあなたをつき合わせている」

ハンカチを握って、美咲がゆっくりうなづく。

「二階堂さん、ご理解ありがとうございます。ついでに、ひとつお願い事があります。私の仕事のポリシーから外れてしまうお願い事ですが……言ってもよろしいですか?」

もう一度、美咲がはっきりうなづく。

「探偵を雇って事実を知り得たこと、それと、あなたの中にあるちっぽけな事実を肇さんに告白しないでほしい。それは言わない約束をしていただけませんか? パズルの残りの一ピースを急いで埋める必要などない。あなたたち夫婦にはたくさんの時間がある」


銀河鉄道が、ピィーと長い警笛を鳴らして、朝へ続くレールを飛ばした。



おわり

■単作短篇「それは言わない約束」by T.KOTAK

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短篇小説「それは言わない約束」 トオルKOTAK @KOTAK

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