それは言わない約束(7/8)

ファイルにまとめた文書の先を、柴田が確認のために黙読し、しばらく、無言の時間が流れる。

寝台列車が乱れた姿勢を正すように左右に細かく揺れ動いた。

中高年のカップルがロビーカーを訪れ、入口近くのソファの前に立つ。男は脚が悪いのか、恰幅のいい体をステッキで支え、ひとつひとつの動作を女性がアシストしている。

「私は健康だけが取り柄の男ですから、病気のことは詳しく分かりませんが……子供のぜんそくというのはたいへんなものらしい。翼くんはいまもまだ完治していません」

美咲はじっと耳を傾けた。

話の行く末が見えず、相手の語る事実だけを頼りに記憶の引き出しから夫の過去を拾い集める。三浦翼という子が入院していた三年前……たしかに、肇は仕事に憑かれたふうに病院と自宅を往復していた。名前は聞かなかったが、「重い病の子供がいる」とうっすら聞いた覚えもある。

「二階堂さん、私がいま話していることを知らなくても、けして疑わずに聞いてください。そうして、疑問があったら、いつでも訊いてくださいね。私には答える義務がある」

黙ったままの相手を慮って、柴田がポケットから飴玉を取り出した。そして、慣れた手つきで包みを開け、自分の舌に乗せた後で、新しいものを美咲に差し出す。

甘酸っぱいレモンの風味が、彼女の口の中に拡がる。

と同時に、鼻の奥がツンとした。いきなり、針で刺されたみたいに。

車体が再び揺れ、ロビーカーの電気がほんの一瞬だけ明るさを変えた。

「照明の寿命ですかな? 人間と同じで、年を取るとどこかにガタがくるものだ……と言っても、この北斗星号は私に比べればまだまだ若いもんだ」

場の緊張を解(ほぐ)す意図で、柴田はカッカッと笑った。

美咲は顔を強ばらせたまま微動だにしない。

小学校の入学――そう、「あの子」が生まれていれば、いまその年齢だった。いや、たしかに生まれた。生まれて、世の中の光を一度も見ることなく一生を終えた。

どうか気を落とさないでください。この子は美咲さんのお腹の中で、十ヵ月の間、たしかに生きていたのです――ベテランの産科医が、はかなく途絶えた命を看取った後で言った。

肇と一緒に泣いた。夜が明けても泣いた。二千グラムの小さな体を胸に抱きながら、二人で決めていた名前を呼びかけてみた。

長い一日だった。

閉ざした記憶だった。

「二階堂さん……少し時間を置きますか? 私は報告を急ぎません」

一人の部屋に戻れば、もう二度と夜の淵から抜け出せなくなる気がして、美咲は大きくかぶりを振った。胸が締めつけられ、思うように息ができない。真新しいハンカチで目頭を抑える。

「では、続けますね。肇さんは大学時代に人形劇団のサークルに所属していました。ボランティアで老人ホームや養護施設を廻るほど本格的なものでした」

「……知っています……写真で見たことがあります」

かさついた喉から美咲は声を絞り出した。

「肇さんが勤務する病院に、苫小牧に引っ越した三浦さんから手紙が届きました。空気のいい北海道で息子と二人で暮らしていること、病と闘っていること、翼くんが三月に幼稚園を卒園し、謝恩会で劇の主役をすること――それを肇さんも知った」

美咲は背筋を伸ばし、気持ちが沈まないよう顎を上げて次を待った。

「二階堂さん、偶然というのは恐ろしいもので……苫小牧のその幼稚園の園長先生が、肇さんの人形劇団のOBでした」

「……本当ですか」

美咲のつぶやき声に柴田はゆっくりうなづく。

「謝恩会で人形劇をすることになりました。演者が肇さんとかつての仲間たちです」

抑揚をつけず、感情を乗せず、柴田は美咲に淡々と告げた。

「明日が本番です。『100万回生きたネコ』という童話を彼らが披露します。園児たちの劇では、翼くんが『泣いた赤鬼』の赤鬼役です。人形劇というのは、練習に結構な時間を費やすようで……」

言いながら、柴田がファイルの袋ポケットから三枚の写真を出して、テーブルに並べた。

街外れの稽古場だろうか。ジャケット姿の肇が建物に入っていく二枚の連続写真。

「テアトルラボ」と書かれた看板が画面の中央に映り込んでいる。

三枚目は、ファミリーレストランで、肇が仲間たちと談笑する写真。

「二階堂さん、ちょっと私は部屋に行ってきます。すぐに戻ります。ファイルも写真も置いていきますので、ご覧になっていただいて構いません」

柴田は携帯ラジオをジャンパーのポケットにしまって、席を立った。


車両の中に、美咲ひとりが取り残される。

雨が止み、ガラス窓についた水滴も次第に数を減らしていった。

断続的な振動で、テーブルに置かれた写真が数ミリだけ彼女に近づく。



(8/8へ続く)

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