それは言わない約束(6/8)
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低気圧前線と進路を違(たが)えた電車は、白河の関を越えて速度を安定させた。勢いを弱めた雨がガラス窓にパラパラと落ちている。
寝台特急・北斗星号。
その六号車として連結された「ロビーカー」に、柴田と美咲はいる。
「少し長い報告になりますが、よろしいですか?」
相手を真っ直ぐ見つめ、柴田が切り出した。
進行方向の左側の窓際には一人掛けの回転椅子が四脚、カウンター状のテーブルとともに景色を眺める格好で並んでいる。右側にはコの字型のソファがあり、五、六人のグループ客が一同に会せるようになっていた。
二人は回転椅子に腰掛け、「ハ」の字になって向き合った。携帯ラジオとA4サイズのファイルが柴田の前に、オーストリッチの手帳が美咲の前に置かれている。
車両内には彼らの他に、帽子を目深にかぶった若者が一人、ソファで新聞を広げていた。
「では、報告を始めます」
もの静かにそう発し、柴田はジャンパーの内ポケットから老眼鏡を取り出した。
「二階堂肇さん――この方は、二階堂美咲さんの配偶者に間違いありませんね?」
ファイルの表紙裏にクリップ止めされた写真を外して、最初に確認する。
それは、美咲が向後に渡したもので、一年前の正月に明治神宮で撮ったスナップだった。夫の肇は右手に破魔矢を持ち、妻の向けたレンズに笑みを浮かべている。デジタルカメラで映した写真をプリントした一枚で、映りは良くない。背景の緑は色褪せ、画素数の低さから精巧な絵にも見える。
「はい。夫です」
「今年の六月で三十四歳――あなたと同じ生まれ年ですね。お仕事は看護士。いま現在、この写真から髪型や外見上の変化はない」
現役感のある探偵の目で、柴田が続けた。浅くかけた老眼鏡だけが、かろうじて外見の柔和さを保っている。
「向後くんが依頼を受けたときの聴き取り事項を確認していますので、事実誤認や変更点があったらおっしゃってください」
背後の若者に聞こえないよう、声のトーンを下げた。
「お勤め先は麻布十番。ここ数ヵ月、妻のあなたに内緒で欠勤を繰り返している」
「はい」
「あなたはそれを勤務先である病院からの連絡で知り、改めて給与明細を見て、肇さんの有給休暇の取得を知った」
「はい」
「入籍して、この春で七年。間違いありませんね?」
自分たちの衣服が一枚ずつ剥ぎ取られていくことに、美咲の胸が鼓動を速め、社会に背いた行為をしている感覚に囚われる。
「妻のあなたが思い巡らすと、肇さんに何か不審なところがある――それが、我々に内偵を依頼した理由でしたね」
一呼吸置いて、美咲は首肯した。
スピードを保ったまま、列車が右にカーブを取る。ガラス窓は灯ひとつない黒い田園を映し、貼り付けた雨粒を斜め後ろに流していく。
「わたしと夫は会話がめっきり減りました。うしろめたさがあるように」
「うしろめたさ……」
うっかりこぼれた言葉を柴田に繰り返され、美咲は息を飲んだ。ファイルに落としていた目線を外し、拳を強く握る。
「結論から申し上げましょう。肇さんに……あなたの旦那さんに他の女性はいませんよ。不貞行為は働いていません」
柴田の唐突な申告に、美咲は顔を火照らせた。新聞のめくれる雑音が耳にこびりつく。
「失礼しました。クライアントを焦らすのが性分に合わないもので……結論を急ぎ過ぎましたかな?」
「いや、あの……わたしは、浮気とか、そんなんじゃなく……」
「欠勤の理由ですね。肇さんが、なぜ勤め先を休んでいるのか」
若者が車両を出ていき、電車の走行音だけが時間の経過を知らせるようになる。
「……肇さんは、かつて小児科を担当してましたね」
「かつて?」
「いまは内科の看護士ですが、そのことはご存じではない?」
柴田が美咲の横顔を覗く。
「そうですか。お仕事のことは、あまり伝えられてないようですね。肇さんは一年前の二月に、泌尿器科の担当になっています」
なぜ――なぜ、夫は黙っていたのだろう。もともと、口数の多い方ではないが、一年前といえば、自分はまだ夫の存在を肯定していた。オオタに出会ったのは去年の春だ。膝に置いた右手に左手を重ね、美咲はこめかみの血管が脈打つのを感じた。
「話は小児科時代に遡ります。肇さんが担当していた子に、三浦翼くんという子がいます。今年小学校に入学する予定ですが、彼は……三浦翼くんは小児ぜんそくにかかっています。かなり重い症状です」
美咲は、柴田の瞳を深く見つめた。初めて聞く話だった。
「三年ほど前に長く入院していた翼くんを、肇さんは面倒を見ていた……お仕事ですから、『面倒を見ていた』というのは適切ではないですね。つまり、肇さんは医療チームのメンバーとして、昼夜惜しまず、患者である翼くんに向き合っていました」
(7/8へ続く)
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