それは言わない約束(5/8)
「刑事は、法を犯した者を捕まえる仕事です。善か悪かの判断は法律が拠り所になる。一方で、探偵の仕事は事実を突き止めるだけ。そこには正義も刑罰もなく、容疑者を見つける執念も必要ありません」
柴田の説明が半分は分かるようで、半分は理解できない。とりあえず、美咲は小さくうなづいてみせた。
「そもそも、人の心や行動は善悪だけでは測れないでしょう。当人からすれば善いと思った行いが他人には悪に映ることもある。事実が善か悪かの判断は、探偵の仕事からすればクライアントの……価依頼主の値観次第です。世の中には刑事が解決できない、解決しちゃいけないグレーなこともたくさんあって、私が扱っているのはそんな案件ばかりです」
乗客たちの会話に潜り込むかたちで、寝台列車が宇都宮駅に到着するアナウンスを流した。
グランシャリオのざわめきが、ほんの数秒だけ止まる。
柴田は飲みかけのビールを一気に飲み干した。
「ちょっとお手洗いに行ってきます。二階堂さん、食事を召し上がってください。それで、部屋に一度戻ってから、場所を替えて報告させてもらえませんか?」
●
当選した立候補者がマイクスタンドの前に立ち、万歳三唱がテレビで繰り返されている。
翼の「変化」が聞こえるよう、法子はリモコンで音声を消した。
時計は夜の9時を回ったところだ。
久しぶりの翼の発作は、母親にダメージを与えた。落胆という言葉では言い尽くせない虚脱感にため息をつく。
腹式呼吸と水――はたして、自分の処置は正しかったのか。
症状が治まったところで、気管支を拡張させる内服薬のメプチンを飲ませたものの、それが気休めなことは分かっている。
発作が一度でも起これば、炎症が悪化し、気管支が敏感になり、少しの刺激でも発作は繰り返されてしまう。寝ている間に、部屋に浮遊する塵や埃を吸い込んだだけで、翼の体は反応するのだ。
テレビの横に置いた医療ガイドに手をかけ、法子は付箋のついた頁を開く。もう何度も繰り返し読んだ頁。
投薬の種類・アレルギー因子・呼吸法・ピークフローメーターの見方……療法を頭で理解するのはそれほど困難ではなかった。炎症を鎮め、気管支の過敏性を改善し、多少の刺激でも発作が起こらないように予防する――しかし、頭での理解は必ずしも実践の成功には繋がらない。
知識が生半可あるだけにもどかしく、代われるものなら、自分の健康な体を息子に捧げたいと思う。
もう一度、嘆息する。
部屋は物音ひとつなく、音声の消えた選挙速報だけが法子と外界をつなげている。
今頃、夫はどこかの選挙事務所でペンを走らせているだろうか、あるいは会社で記事を書いているのだろうか……。
孤独な時間を埋め合わせるため、彼女は携帯メールの送信画面に向き合った。
「仕事は順調? 今晩、翼に小さな発作がありました。いまは寝てるから大丈夫かな」
出来事を文字に置き替え、遠く離れた東京に送信する。返事があるのは明日だろう。法子にとって「メール」という伝達手段は、気持ちを明るくするほど便利なものではなく、絶望させるほど不便なものではなかった。
続けて、姉のアドレスを選ぶ。
「明日の謝恩会は1時から。場所の地図をファックスしておいたけど、無理しないでね。東京から劇団も来るし、盛大になりそう。雪道の運転、気をつけてね。のりこ」
翼の発作を知らせる[追記]は、迷った末にデリートした。
そして、携帯を閉じて、日誌を書こうとすると、受信を知らせるランプが点った。
「RE:」という表示が出ている。
姉へのメールには「明日」というタイトルをつけ、夫へのメールはタイトルをブランクにして送った。その、ブランクの返信が来ている。
「会社で原稿書き中。謝恩会はやっぱり行けない。ごめん。明日、電話する」
意想外の早い返事に的確な言葉が浮かばない。
「わー!」
突然、大きな声が部屋に響いた。
携帯電話を持ったまま襖を開けると、翼が布団の上で泣いている。
母親の存在に気づき、もう一度「わー!」と喚いた。
「大丈夫よ、大丈夫。ママがいるから」
法子は抱き寄せて頬ずりしたが、息子のすーっと息を吸う動作に心臓が止まりそうになる。
パ・パ
寝ぼけたまま、唇が小さく動いた。下まつげに付いた涙の一滴(ひとしずく)が、自らの重みに耐えられないように静かに落ちる。
「パパの夢を見たのね。大丈夫よ。四月になったら、パパに会えるから。明日、電話しようね」
母親の腕の中で、翼がこくりとうなづいた。
(6/8へ続く)
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