それは言わない約束(4/8)

接客係が食事をサーブする間、柴田は黙った。

最初に、和食がテーブルに置かれる。

漆塗りのボックスを十字に仕切り、先付・煮物・お造り・ご飯などを洒落た容器に盛りつけた懐石御膳だ。

美咲のフレンチは、まず、春野菜のサラダ、真鯛とアスパラのクリームスープの二皿。


「本来なら、依頼された向後くんが二階堂さんに報告すべきところ、彼の都合がつかないもので……どうかご容赦ください」

そこまで言って、柴田は咳をひとつした。

走行の振動で微かに震える食器から、美咲は銀色のフォークを選び取る。

「この食堂の『グランシャリオ』という名前の意味を、二階堂さんはご存じですか?」

手を止めて、美咲は「いいえ」と迷わず答えた。

「フランス語でおおぐま座のことで、おおぐま座は北斗七星のある星座です」

「よくご存じですね」

「若いとき、フランス語に接する機会がありましてね。グランシャリオ……何だか、ここは銀河鉄道のようだ」

ビールグラスの飲み口をなぞりながら、柴田は続けた。ビニールジャンパーの襞(ひだ)が、ランプの明かりで雨を受けたみたいに光っている。

「ついでにもうひとつ。この列車のエンブレムを二階堂さんは乗車前にご覧になったでしょう。そこに『539』という数字が刻印されていたはずです。何の数字だと思いますか?」

エンブレムを見たことを知る観察眼に驚きつつ、美咲は首をかしげた。彼女の背中側のテーブルで子供が嬌声をあげ、柴田は世の中のすべてを赦す感じの眼差しを向ける。

「青函トンネルの長さですよ。53.9キロ。当時、そんなに長いトンネルを掘るのはたいへんな作業だった……あっ、話が逸れましたね。さて、何の話でしたか?」

「向後さんの……」

「ああ、向後くんか。私は探偵の下請け仕事をしてるんですよ。いまは一線を退き、年金生活の身ですが……お呼びがかかれば引き受けることにしています」

箸を置いて、柴田はジャンパーのファスナーを下げた。そうして、白いワイシャツに着けたボウタイの紐を左右同じ長さに揃える。

「かつて、向後くんにはこの仕事の……探偵業の全部を教えました。たとえば、尾行には紐のある靴を履いていくこと、ポケットの多い上着を着ていくこと」

束の間だけ聞き手を置き去りにして、語り手はグラスの水に口をつけた。

「……相手に振り返られたときに靴紐を結ぶ動作をしたり、立ち止まってポケットをさぐるふりしたり、そんなのは初歩的なことですが、たかが探偵業にもいろいろなノウハウがあります」

「下請けとおっしゃいましたよね?」

スープをひとさじ掬ってから、美咲が質問を重ねた。

「はい。実際は下請けという立場のパートナーです。探偵というのは何でも屋でもある。業界団体も存在しますが……誰でも開業できるから、請け負う仕事の幅も広い」

柴田は美咲の注目から逃れる感じで魚のしぐれ煮を箸でつまみ、品よく舌先に運んだ。

「二階堂さん、食事をしながら話しませんか? ディナータイムは20時50分までです。残すのは勿体ない」

8時ではなく20時と言うのがいかにも仕事柄らしいと美咲は思う。腕時計は、短針と長針で「へ」の字を作っていた。

「まぁ、下請け仕事にもいろいろありましてな。単に下調べして発注元に伝える場合もあれば、クライアントの許可をもらって、依頼をまるまる引き受けるケースもある。今回の向後くんは、私と組むことのお知らせを二階堂さんに端折(はしょ)ってしまい……本当に申し訳ありません」

言うやいなや、柴田はテーブルに両手をついて陳謝した。

「……きちんとお仕事をなさってくれれば構いませんが、向後さんがわたしの依頼を放った理由は何ですか?」

「いえいえ、放り捨てていません。時間の足りない向後くんを私がお手伝いし、報告まで私が請け負ったかたちです。彼もちゃんと働きました」

先を急ぐふうに、夜の雨がガラス窓を強く叩き、出入口付近にいた老夫婦が鉄道員にお辞儀して車両を出ていく。

炊き込みご飯を呑み込む柴田の喉仏が照明の具合で陰影を作り、生き物が体内に潜んでいるように上下に動いた。

「わたしみたいなクライアントも多いんでしょうね」

「夫の素行調査ですか?」

「……はい」

「多いですね。でも、最近は、奥さんの行動を疑う男性が増えている。私の若い頃には考えられなかったことです」

相手に併せて発声を抑えているため、老人の声は余計にしゃがれ、聞き取りづらい。

「柴田さんは、ずっと探偵のお仕事をなさっているんですか?」

ふと浮かんだ疑問を、美咲は言葉にした。

「いや。私は集団就職組でしてな。田舎から東京に出て、若いときはいろいろな職につきました。百科事典のセールスとか……」

「なぜ、探偵に?」

ひとつひとつきちんと答えていく柴田の誠実さが、美咲の不信感を減らし、興味心を掻き立てた。

「本当は刑事になりたかったんですよ。公務員試験も受けましたが、頭がよくないので落ちました。で、結局、探偵という仕事に落ち着いたわけです。もう何十年も昔の話です」

柴田はにやりと笑い、テーブルの端に置いていたラジオをポケットにしまった。

「まぁ、刑事にならなくて良かったと思いますよ。探偵業は私の生業(なりわい)です」

「なりわい?」



(5/8へ続く)

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