それは言わない約束(3/8)

寝台列車が動き出すと、美咲はコートをハンガーにかけて、テレビをつけた。選挙事務所で開票結果を待つ者がインタビューを受けている。

ビジネスホテルふうの室内は四畳半ほどのスペースだ。

壁に嵌(は)め込まれたテレビ、ソファに早替わりするシングルベッド、ミニバー兼用の簡易テーブルなどが配置され、トイレとシャワーも完備している。ひじ掛け付きの椅子は古びてはいるものの、会社の応接室にあってもおかしくないものだ。

一夜を過ごすのに不自由ない空間――A寝台一人用個室ロイヤル。

二日前の電話で、柴田は「苫小牧までの交通費は請求しない」と言った。成功報酬に含めるのだろうが、飛行機の五倍以上の時間がかかる移動手段を選んだ理由が美咲には分からなかった。

そもそも、報告なら、どこかのカフェでいい。

そう告げると、彼は受話器ごしに「ご依頼の件は二階堂さんと私の移動が必要です」と突っぱねた。

スピードの加速が夜の街を融かしていく。街の灯は火の玉になって、ガラス窓のスクリーンを軽やかに流れた。

ひとつ目の停車駅を過ぎた時間に食堂車で落ち合う柴田は、自分の個室で選挙の行方を追っているだろう――美咲はそう推察し、電波の届かない飛行機ではなく、電車が選ばれた理由に気づいた。いや、飛行機なら選挙結果の出ている明朝の出発で事足りるのではないか?

テレビのスイッチを乱暴に切り、携帯電話のメールをチェックする。

新着が一件。大田からだ。

休日で妻子と一緒にいるはずなのにわざわざ送ってきた。美咲は腕時計を見て、受信してから10分も経っていないことにホッとする。

文面は短く、次の密会の確認だけだった。

もうすぐ一年になる関係の中では、長文も絵文字も必要ない。食事をしてホテルに行く。30を過ぎた大人の火遊びは、それで十分に事足りた。

ジャケットを脱いでベッドに横になると、マットレスの予想外の柔らかさで睡魔に襲われた。


西からの低気圧に捕まった寝台列車は、窓ガラス一枚で細い雨を遮っていく。


ハッと意識が戻り、美咲は体を起こした。

携帯電話のデジタル表示は、約束の時間を過ぎていた。

電車の揺れに足下をふらつかせながら部屋を出て、子供のはしゃぎ声が漏れる車両を横切り、食堂車へ急いだ。


「グランシャリオ」と名づけられた場所は、食堂というよりレストランの雰囲気だった。

すでに満席状態で、たくさんの旅行者が各々のテーブルで食事と会話を楽しんでいる。進行方向の右側が四人席で、左側が二人席。

ちょうど真ん中のテーブルで、イヤホンを外した柴田が手を挙げて美咲を導いた。

「遅れて申し訳ありません」

「いえいえ、私の勝手な予約ですから……お先にビールをいただいてます」

柴田は柔らかに応じ、イヤホンのコードを携帯ラジオに巻きつけると、「どうぞおかけなさい」という仕草で美咲を座らせた。

赤い傘のテーブルランプがビールの泡を照らし、テーブルクロスの上には、ナイフからデザートスプーンまで大小五つの食器が等間隔に並んでいる。

「ここは時間制なので、二階堂さんの分もオーダーしておきました。フランス料理ですが……私の方は和食を頼んだので、取り替えても構いません」

「いえ、わたしはコーヒーか何か、飲み物だけで十分です」

「それはいけません。ちゃんと食事しないと。電話で申し上げたでしょう。乗車前に何も召し上がってこないようにと」

先生に諭されるように、美咲はそう言われていたことを認め、なす術なくナプキンを広げた。

「せっかくこんな電車に乗ったのですから、まぁ、今晩は年寄りの言うことを聞いてください。あなたには然るべき報告をしなければなりません」

「分かりました。いろいろなご手配をありがとうございます」

満足した様子で柴田は接客係を呼び、連れの意思を確かめてから、赤のグラスワインをオーダーした。

改めて、美咲は目の前の男を見つめる。

立ち居振る舞いは矍鑠(かくしゃく)としているものの、外見があまりにも貧相だ。肌の血色の悪さと薄い眉毛も生命力の弱まりを感じさせた。

視線を外し、車両を見渡す。

このテーブルは周りの者にどう映るだろう。父娘の旅行と思うだろうか、一人客の相席と見るだろうか――そんなことを考えているうちに、柴田がビールのタンブラーを、美咲のワイングラスに近づけた。

「乾杯する間柄ではありませんが、よろしくお願いします。改めて……柴田清二郎と申します」

相手のペースにすっかり飲み込まれた美咲は、バツの悪い表情でジャケットの埃を払った。

「二階堂さん……申し訳ありませんが、私は名刺を持っていません。身分証明が必要なら、運転免許証をお見せします」

いままでにない強い眼差しに一瞬たじろいだが、美咲はしっかりと相手を見つめ返した。

「二階堂美咲です。今回はお世話になりました」

慎重に、丁寧に頭を下げる。

「いやいや、私は自分の仕事に向き合っただけです。向後くんは、かつて、私の部下でして……」



(4/8へ続く)

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