それは言わない約束(2/8)

桜の開花予想が出たのに、苫小牧の春は遠い。

選挙速報の特別番組がスタートすると、部屋のストーブが給油を促すチャイムを鳴らした。

キッチンで夕飯の洗い物を終えた法子(のりこ)は、リビングに戻り、日誌のメモ欄に「灯油」と記す。

六歳になったばかりの息子が隣りに座り、台本の横のクレパスを開けた。

「つばさ、お絵描きはあとにして、もう一度だけ練習する? ママが青鬼になるから」

素直にうなづく息子に微笑んで、母親は台本の一頁目を開いた。

「赤鬼くん、元気ないね」

「うん、ボクのことを、ニンゲンがきらっているんだ」

息子の翼は文字を追わずに母親に続いた。感情をしっかりこめて。

次のセリフを言いながら、法子がリモコンでテレビのボリュームを下げると、翼が「パパ、パパ!」と画面を指さす。

「テレビにパパは出てこないのよ。会社でこれを見てるけど、パパは新聞を作る人……文字を書く人だから。分かる?」

母と子の二人暮らしには広すぎるテーブルに、携帯電話と日誌とネブライザー、それに水の入ったグラスが置かれている。

超音波式のネブライザーは東京から持ってきたもので、ミキサーに似た形状だ。以前はジェット噴霧式を使っていたが、医師の勧めで超音波式の吸入器に替えた。振動子で霧を発生させるマシンとの相性が良いのか、それとも空気のきれいな環境に変えたからなのか……母親の法子には分からないが、翼の発作は東京を離れてから頻度を減らしていた。病状を書き留めた日誌でも、それは明らかだった。

「あした、きゅうにパパがこれればいいのにね」

翼がポツリと言う。

子供を産んでからも、「急に」夫の仕事が家族に幸せな時間をもたらすことはなかった。むしろ、外出の約束が消えてしまったり、連休がなくなったり……ディズニーランドも戦隊ヒーローショーも、一人息子への口約束に終わっていた。

新聞記者の忙しさは結婚前から分かっていたものの、夫の仕事への理解は、妻のストレスに姿を変えていた。

携帯電話を見つめて、法子は自問する。

多くの家庭がそうかもしれない。でも、翼は他の子とは違うのだ。両親のどちらかが二十四時間ずっと一緒にいなければ、体が壊れてしまう。

東京に住んでいても治らない。状態は悪くなる一方だ。

だから、「札幌に嫁いだ姉を頼って、北海道に移り住みたい」と夫に持ちかけたが、家族三人で暮らし続ける打開策は見つけられなかった。

そうして、永住する決意のないまま、とりあえず、父親を残してこの土地にやって来た。

もう二ヵ月が経つ。しかし、テレビチャンネルの数字にさえまだ慣れることができない。

画面では、ネクタイを締めた評論家が政党代表に質問を投げていく。

「つばさ、パパはね、お仕事が忙しいから、明日は来られ――」

言葉が終わりかけたとき、翼が小さな体を反らせて肩を震わせた。

思いがけなく吸い込んでしまった異物を吐き出すみたいに「コン」と咳をし、瞬く間に三度繰り返す。

発作が起きた。

母親は息子の椅子を引いて、急いで向き合った。

「大丈夫よ、大丈夫。力を抜いて、何も考えずにね」

顔がみるみる赤くなり、ゼーゼーヒューヒューという呼吸音で、母親にすがりつく目になる。

「すぐに良くなるから。お腹で息を吸って、少しづつ吐き出すのよ。ふー、ふー、はー」

吸うときにお腹を出っ張らせ、吐くときにへこませる。速やかに新しい酸素を取り入れ、古いものを出していかなければならない。腹圧を高め、胸部を圧迫していく。

「お腹を突き出してぇ、大きく息吸ってぇ、ゆっくり吐いてぇー」

母親は息子のお腹に手を添え、息を吐き出すタイミングでゆっくり押し上げた。翼のおでこの汗が前髪をうっすら濡らす。

やがて、打ち寄せた荒波が穏やかに海に還っていくように、呼吸音が鎮まり、顔色が戻っていった。

法子はもう一度お手本の腹式呼吸を見せてからグラスに手を伸ばし、翼の口にあてた。

「もう大丈夫よ。お水を一口飲んで」

腹式呼吸と水――医師から止められている古い治療法を東京にいる頃と同じやり方で実践した。薬の投与だけでは安心できず、つい、手馴れた方法を選んでしまう。

「……ママ、ぼく、もう大丈夫だね」

「うん、すぐに治ったでしょ。だんだん良くなっている証拠よ。これでいいの……これでいい」

法子は、携帯電話に表示された時間を日誌に書き留め、ふうっと息を吐いた。

テレビのスピーカーが拍手を小さく送り出す。

「つばさ、一緒にお風呂に入って、寝る前にあと一回だけ練習しようか? ママが青鬼と村人役ね」

頭を撫でられた翼は、数分前の出来事を消し去る笑顔を見せた。



(3/8へ続く)

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