短篇小説「それは言わない約束」
トオルKOTAK
それは言わない約束(1/8)
上野駅13番線。約束の時間に現れた男は、美咲の想像からかけ離れていた。
電話での低くしゃがれた声で年長者とは分かっていたが、仕事をとっくに退いたような老人が目印のハンカチをショルダーバッグに括りつけ、待ち合わせの五ツ星広場に立っていた。
プラットホームは鉄骨の屋根に外光を遮ぎられ、蛍光灯が無機質な明かりを落としている。
「二階堂美咲さんですね。柴田と申します」
痩身の老人はイヤホンを耳から外して一礼すると、美咲の返事を待たずにハンカチをほどき、ポケットにしまった。
色褪せた合成革のバッグと着古されたジャンパーは、顔に刻まれた深い皺とともに生い先の短さを示している。
腕時計をちらりと見た後で、老人は美咲に微笑んでみせた。入れ歯なのか、年の割には頑丈そうな歯並びだが、右の八重歯が欠けている。
「私は予想と違いましたかな?」
相手の心を読み取る調子で、柴田はホームに停まっている電車を指差した。
「利用するのはこの電車です。寝台車ですが……これも、二階堂さんの予想とは違いましたかな?」
美咲は、繰り返される「予想」という言葉に居心地の悪さを覚え、コートの襟を立てた。
「これは古いタイプの寝台列車で……いまは、『カシオペア』なんてしゃれた名前の新型もありますが、性能は変わらない。年輩者や電車マニアの間では人気です」
柴田と名乗る男は自分に言い聞かせる調子でそう発し、イヤホンを再び耳にあてる。
「……お耳のそれは?」
補聴器という単語を伏せて、美咲は恐る恐る訊(たず)ねた。
「あっ、失礼。ラジオです。でも、ちゃんとあなたの声は聞こえています。ボリュームを最小限にしていますから」
鼻の頭を掻き、また無防備な笑顔を見せた。七三分けの乏しい白髪が、頭部の地肌をかろうじて隠している。
「……ラジオ、ですか?」
「ええ、私の甥が今日の選挙に立候補してまして。その結果が気になるもので……たったひとりの親戚なんですわ」
返答に困り、美咲は電車の車体に視線を向けた。
ボディに付いたエンブレムには、七つの星と一緒に「HOKUTOSEI」というアルファベットが刻まれている。
ふと、彼女は既視感(デジャヴ)に囚われた。パンツスーツにベージュのハーフコートを併せた格好、ホームの車両――たしかに見たことがある。
駅員のアナウンスが、発車5分前を告げた。
「切符をお渡ししますね」
柴田は茶封筒にしまっていた寝台券と特急券の二枚を、血管の浮き出た手で揃えた。
「チケットを取ったのは向後(こうご)くんではなく、私です。向後くんには、あなたと今晩ここで落ち会うことは伝えていません。まぁ、我々はそんな関係だと……そういう流れになっているとご理解ください」
「そういう流れ……と言うと?」
美咲の問いかけに、柴田はおでこに下りた頭髪を掻きあげ、思案の表情を浮かべた。
「つまり、すべて私の裁量です」
「……向後さんは、何もご存じないんですか?」
「はい。後で私から彼に報告します……とりあえず、電車に乗りましょう。我々の席は10両目だから後ろの方だ」
背を向けて歩き出した柴田に、美咲はためらいながらついていく。とにかく、いまは従うしかない。
それにしても……と彼女は思う。それにしても、あまりに失礼ではないか。親戚の選挙速報か何か知らないが、ラジオを聴きながら接するなんて。
「あのぉ!」
突然の呼びかけに柴田は立ち止まり、イヤホンを外した。
「どうかなさいましたか?」
「あの……やっぱり、わたしはこの電車に乗らなければいけないんですか?」
美咲は相手の目をしっかり見つめ、ヴィトンのバッグを握る手に力を入れた。
「あなたが……柴田さんが、電車のチケットを用意したとおっしゃいましたが、わたしは向後さんに仕事を依頼しました」
「二階堂さん、私は向後くんから仕事を預かっています。向後くんは私を信頼しています。後できちんと話しますので、いまはご了解いただけませんか?」
落ち着いた口調の後、柴田はにわかに咳込んだ。体を前に折り、薄い胸板を右手で叩く。耳の上からぶら下げたイヤホンが前後に揺れ、心配顔で歩み寄る美咲を片手で制する。
「失礼しました。お知りになりたいのは、乗車の理由でしたね……二階堂さん、あなたの旦那さんは昨日からご旅行中ですね」
背筋を伸ばし、軍人を思わせる直立姿勢で言葉をいったん止めた。
「その旅行の意味……つまり、あなたが向後くんに依頼した件の答えのため、どうか一緒に来ていただきたい。私の仕事です」
(2/8へ続く)
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