一章02「トラブル襲来」

 日向邸は学園から徒歩で二十分圏内と比較的近い場所にある。自転車を利用してしまえばもっと早く通うことができるがそうしていない。

理由は運試しである。

 歩いていれば何かが起こるかもしれない。大抵は起こらないが起きることもある。起きた時に自らに降りかかるかどうかを試しているという話。自転車通学だとその時間が短くなるからというだけ。

 この街では直接的にトラブルに巻き込まれた記憶はない。ただ彼自身から仕掛けてみたことはあるかは言うまでもなく、ある。海外にいたころは何度もあった。しかし、どれも奇跡的に無傷で終わっている。

 ここでおさらいすると日向拓巳がトラブルに見舞われることはない。

 信号無視した車が突撃してくる。段差に躓いて転びそうになる。鳥の糞が落ちてきて、頭に直撃する。そういうトラブルは日向拓巳には降りかからない。

「はず、なんだけど」

 公園のトイレの水で頭を洗い終わって、鏡に映る自分を見つめていた。

「フルコースだぞ、おい」

 横断歩道を渡っていると何かに躓いて転びそうになり、信号無視した車が突っ込んできて、なんとか逃げて渡りきったら鳥の糞が落ちてきた。

 明らかに不自然なトラブルの連続にため息が出てしまう。

「まぁ家はすぐそこだし、もうさすがにないだろう」

 この公園を出て三分程度で着く自宅を目指して再び歩き出した。


「よしっ、何もなかったな」

 無事に日向邸の玄関に辿り着いたことに今度は安堵のため息がもれた。たった三分の距離だが、何が起こってもおかしくなかった。

 それほどまでに今の自分は理不尽なトラブルに見舞われてしまっている。

「あぁ、こんなにも我が家を見て落ち着くなんて知らなかった」

 住宅街に並ぶ一軒の家。庭はそこそこ広く、小さな畑を作れるほどの余裕がある。二階建てで部屋の数も多く、電化住宅というお金を持っている雰囲気が漂う。しかし、今ここで暮らしている住人はただ一人である。

「ひとりぼっちの家に入るのがこわい?」

 決して大きくない声なのに周囲を突き抜けて真っ直ぐと耳に届く声。聞きなれた、慣れすぎて見なくてもどういう顔で話しかけていたかがわかる。

「そんなわけないだろ」

 後ろから聞こえたので振り返る。大台まであと二センチ足らないほど小さな身体のためにさらに視線を落とした。

 彼女は想像していた通りの感情がのってない表情をしており、若干だが大人っぽい印象を受ける。

「そう? 今日は大変そうだったから家でも何かあるかも。そんな不安を持ってるように見えたから」

「見てたのか」

「ぴったりと後ろを尾行していたのだけど、気づかれなかった」

 つけられている気配を感じる余裕がないほどトラブルが起こり続けただけの話ではある。安全な場所を探すのに必死だったので周囲を観察できるわけがない。

「単にあゆ姉が小さいからじゃないの?」

「ち、ちっさいって言うなぁ!」

 急に年齢が下がったように声のトーンが高くなる。はっきり言えば子供っぽく、見た目にぴったりな口調に変化した。硬い表情が剥がれ落ち、怒りが浮き出ている。

「身長のことはどうでもいいのっ! う、ううん……それで今日も作りに来る?」

 言葉の途中で気づいて元の無表情に戻した彼女。しかし、もうただの大人ぶっている子供にしか見えない。

「行かない」

「……来ないの?」

「あぁ、華楽部の部長にストーキングされた日には作りに行かないほうがいいかな、って」

「ストーカーではなく、尾行」

「どう違うのさ」

「愛の重さ」

「……あぁ、なるほど」

 彼女の目的は拓巳のためでなく、彼女自身のためにつけていただけである。逆に拓巳が目的ならストーカーと言って間違いない。

「料理できないワタシの胃袋を助けて、拓巳君」

 神の舌を持つと言われる最大の弱点がそこにあった。

 料理ができない。挑戦したことはあるが、非常に不器用なために一向に上達しない。味付けをアドバイスするのは的確だが、自分でそれを実践できないのである。

「そうだな。もう華楽部に勧誘しないならいいよ」

「無理。せめて明日一日だけ」

「……わかったよ。その約束破ったらもう作らないからな」

「うん、約束。明日は、しない」

 口約束とはいえ、信用に値するものがある。付き合いの長い拓巳にとって彼女が約束を守る人間であることは知っていたから。

「勧誘を諦めてくれないかな」

「無理。ずっと言ってるはず」

「……俺がいなければ華楽部を名乗れない、だっけか?」

「うん。覚えてたのは意外だった」

「何回言われたと思ってるんだよ」

 数えるのも嫌になるほどに彼に言われた言葉。部長である彼女が拓巳にこだわる理由。その理由は本人からすればいまいちピンとこない。どうしてそこまでこだわるのか、と。

「あー、あとさ。食事中に評価を口にするのもやめないか」

「癖だから無意識でもでてしまう。勧誘と違って守れる自信はない」

「まぁそうだよな。ごめん、それは言ってみただけだ」

「いい。自分でも純粋に食事できないのは自覚してるから」

 特技を仕事にまで昇華してしまっている歩美にとって、昔のようにはできない。拓巳も思いつきで口にしたのを少し後悔していた。

「あぁ、そうだ」

 どうしたのか、と首を軽く横に傾けた。

「あゆ姉、今日はわざわざ作りに来てほしいと言うために尾行してたわけじゃないよな?」

「それは言えない」

「きっとそう返してくると思った」

 だが、その返事は答えでもある。言えないということは言えないだけの理由があるということ。素直に頼むためにつけていた、と言われたほうがわからない。

「……あっ」

 そのことに歩美も気づいたらしく、やってしまったと表情を露骨に出してしまう。

「深く聞いてほしくないみたいだから聞かないでおくよ」

「そうして欲しい」

「じゃあ着替えたら行くよ」

「待ってる。急がなくてもいい」

「ん? まぁ今まで急いだことはないと思うけど」

 言葉を返しているうちに彼女は隣の家の門を開けていた。そこが渡辺邸であり、日向邸と同じく帰ってくる住人は一人である。

「気を付けて」

「えっ、どういう意味だよ」

 聞き返しても少しの間見つめられただけでそのまま家の中に入ってしまった。尾行をして見ていたから出た言葉ということで正しいのか、と問えなかったもどかしさにことに拓巳は鼻の頭をかく。

「わからないな」

 意図がはっきりせず釈然としないままに拓巳も玄関へと向かうのだった。

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