第三話

 家に帰り着くと宇宙人はリビングのテーブルに突っ伏していた。寝ているのかと思えば、片手でグラスをゆらゆらと揺らしている。部屋全体がひどくアルコール臭い。いつもの消毒液の匂いと違って甘い匂いも混ざっている。

「なにこんな時間から泥酔してんですか、不良教師」

「フン……教師なものか。君だけはそれを知っているだろう。そもそも校医からして教師ではない」

 珍しく拗ねたような口調で話す。酒に逃げなければいけないようなことがあったのだろうか。あったとしてもこちらは子供で、気分は被害者だ。優しくする気は起きない。

「保護者として一緒に生活するうえで迷惑だって言ってるんです。反面教師なんて、自分で語るようなことじゃないでしょ」

「また教師か。まあいい。ほら、君の希望のものができたぞ」

 投げてよこされたものを受け取ると、掌で包めるほどの小さな瓶だった。中身がぼんやり光っている。

「目薬?」

「ココロゲンの薬液だ。君が注射は嫌だと言うから作ってみた。まったく……痛みを乗り越えろと言っているのに、これでは本末転倒だ。

血管に注入するものよりも濃くしてあるから、粘膜に一・二滴垂らすだけでも充分なはずだ。眼や喉でもいい。昼間の注入分の効果はもう切れている頃だろう。今すぐ試してくれ」

「おお、それは助かります! ああ、ええと……」

 もう注射されないと聞いて一瞬喜んでしまったが、そもそもケガ人マンを辞めるつもりでいるのでこの目薬開発自体徒労だ。いや、次の誰かの為にはなるのかもしれない。

 だとしても今ここでそれを試すということはこのあとケガ人マンに変身するということで、それはまた痛い目に遭わされるということを意味する。それは避けたい。

「あの、先生。俺もう――」

「ああ! いちいちグズグズと!」

 小瓶を持ったまま反応に困っていると焦れた酔っぱらいが椅子を蹴って立ち上がり近づいてきた。目薬を奪われ、ソファに投げ飛ばされる。

「君はさっさとヒーローになってくれさえすればいいんだ!」

 馬乗りになって押さえつけられる。「ヒーロー辞めます」の一言は胸を圧迫されて出てこない。

「ほら、行くぞ」

 小瓶が目の前に突きつけられる――瞬間必死になって眼を閉じた。

「なにしてるんだ。抵抗するな」

 酒臭い息が顔にかかり、強引に指で瞼を開かされそうになるのを首をよじって逃げる。

「君は……目薬すら怖いのか!」

 怒声が上から振りかかる。

「う……うるさいな。ほっといてください! だって何か落ちてくるのって、死ぬほど恐いじゃないですか!」

 どうせまた馬鹿にされる。そう予感して先にいきり立っていた感情が宇宙人の顔を見て一気に冷めた。

「そうか……そうだな」

 無様を晒したのはこちらなのに、自分のことを責められているようなショックを受けた顔をしている。そのせいで苛めているような気分にさえなった。

「悪かった。また違う方法を考える」

 体の上から降りるとテーブルへ戻り、苦い顔をして酒を煽る。自己中心的な宇宙人の姿がそこには欠片も無い。

「あの……先生」

 呼び名を迷って、結局そう呼んだ。宇宙人、とは呼べなかった。

「ん、夕飯か。悪いが今日は冷蔵庫にあるもので適当に済ませてくれ。今日はもうこれ以上何か作る気にはなれん」

 初めてのことだった。食事は今まできちんと用意してくれていた。冷凍食品ばかりが並ぶこともありはしたものの、学校の弁当に至るまで毎度用意してくれている。なんだかんだと言いながら、この仮の保護者は。

「食べ物は今日買ってきたのが色々ありますから。先生も食べてください。

それより、お酒もうやめといたほうがいいですよ。見てて心配ですから。ホントに……心配ですから」

「そうだな。君の保護者だったな、私は」

 傾けかけた酒瓶を戻して、それでも体は起こさずにテーブルにもたれかかる。

 これ以上何を話しかけていいかわからずに、まだ随分重いフードコートで貰った紙袋を横に置いてリビングをあとにした。


 自分の部屋へ戻りベッドへ寝そべってリビングでのやりとりを思い返す。

 何か動揺させるようなことを言っただろうか。ただ目薬を恐がっただけだ。

(落ちてくるのが恐い……)

 そう言った直後態度が変わった。「落ちる」に何かがあるとしたら、もしかするとそれが記憶を失った事故の内容かもしれない。

(でもそれだと、あの人には関係ないよなあ)

 ただヒーローに復帰させることだけが目的で、記憶の再生には興味が無い。本人がそう言っている。

 もう一つ、泥酔していたことも気になる。動揺といい、そうした醜態は今まで一度も見せなかった。いつも偉そうに一方的に「ヒーローになれ」と繰り返す。それだけだった存在が違う姿を見せている。

(考えてみたら俺あの人のことなんにも知らないなあ)

 記憶が無いことで自分のことばかりに執着していた。

(俺の主治医で、ヒーローを復帰させることが仕事で……)

 仕事と言うからにはノルマがあって、その納期に追われているとしてもおかしくはない。だが、そうだとしてもあそこまで深刻に追い詰められるだろうか。働いたことがないので仕事のプレッシャーがよくわからない。

 最悪、ヒーローとしての再教育が終わらなくても今のまま無理に連れて行くこともできるはずだ。そうしないだけ良心的なリハビリ業者、ということだろうか。

 どこまで考えてもわからなかった。もっとシンプルに、プライベートで何かあったということも充分にあり得る。

(ていうかなんで俺があの人のことあれこれ考えないといけないんだ)

 気がつけばいつもならとっくに寝ている時間になっている。

 諦めて眠ろうとしても目を閉じれば宇宙人の顔の苦しんでいる顔が思い浮かんで寝付けない。そのうちに喉が乾いてきた。

 リビングへ出ると宇宙人はまだそこにいた。といっても十時なので大人なら起きていても不思議はない。ただ、さっきと同じくテーブルで同じ姿勢のままだ。紙袋にも手を付けられた様子が無い。

 近づいて顔を覗くと目を閉じて眠っていた。

「ねえ、ちゃんと部屋で寝なよ」

 揺すって起こそうと手を伸ばしかけ、途中で止まった。よく見るとうなされている。歯を噛み締め唇は震え、脂汗が流れている。

「先生?」

「ふぅ――うわぁっ」

 見入っていると唐突に目を覚まし、跳ねるように体を起こした。あちこち体を撫でる仕草は悪夢を振り払おうとしているように見える。

 弾みで椅子から転げ落ちても気にする様子はなく、そのまま床に伸び顔を覆う。息が荒い。

「クソッ、なんでこんなことで」

 悪態が聞こえて、見てはいけないものを見てしまったような気がした。しかし今更立ち去ろうとしても遅い。とっくに気付かれている。

「今日は見っともないところを見せてばかりだな」

 半身を起こして見えた顔は眠る前にはアルコールで赤くなっていたのに、すっかり青褪めてしまっている。いつにも増して顔色が悪く死人にさえ見える。

「あの、大丈夫ですか? なんでそんなになってるんです」

「気にするな。いつものことなんだ。眠ろうとすると嫌なことばかり思い出す……。

君は違うのか? 記憶が無いならそういうこともないのか。羨ましいなんて言ったら怒られてしまうかな」

 この宇宙人の事情は何一つわからない。けれど、虚勢を張っていたことだけはわかった。

「別に、怒りませんけど。そのことに関しては」

 手を貸して立ち上がらせようとするとすがりついてこられた。大人の体を支えるのは少し苦しかったけれど、震えているのがわかって突き放すことができなかった。この人は今一人で立つことができない。

「嫌な思いばかりさせてすまない」

 余程疲労が溜まっていたのか、その一言だけでまた眠ってしまった。一体いつからどれくらいの間まともに休めていないのだろう。

 同じ体勢でいるのは辛かったのですぐそばのソファまで踏ん張って運んだ。座面が広くゆったりとしているお陰で二人でもつれるようにして倒れこんでもはみ出さない。

「ん……」

 弾みで目を覚まさせてしまった。体の震えまでが戻る。

「こうしてたほうが楽なら、俺はこのままでもいいですけど。ええとホラ、抱き枕みたいな感じで。安眠効果? あるかもしれないし」

 両腕を上げると枕というよりもむしろ打ち上げられた魚のような形になって、胸の上に乗った顔が笑った。嘲笑なら見たことはあったが、こういうちゃんとした笑顔は初めて見た。意外と子供っぽくてドキリとする。

「フフ、抱き枕か。ではそうさせてもらおう」

 そう言って遠慮なく抱きついてくる。背中に回る手がむず痒かった。酒臭さと、別の臭いを感じる。

「先生、なんか血の匂いがする」

「女は色々あるんだ。保健体育で習ったろう」

「あ、えーと……ごめんなさい」

 本当は縁を切るつもりでいた。それが流れでこんなことになっている。苦しんでいるからといって自分が慰めなくてはいけないような立場にいるわけでもない。自分は子供だから宇宙の平和を守る責任は無いと、ヒーローを強いられる理由は無いと主張するつもりでいた。それを本望としていた過去があったとしても、今は違う。辞められるはずだ。なにしろ子供なのだから。

 けれど伝わってしまった。今、自分にしがみ付いて震えを堪えているのは大人だ。それをここまで追い詰めるほど恐ろしい何かが宇宙にはあるらしい。

 気がついてしまったから、あんたは大人なんだから我慢しろとは言えなかった。自分は子供だから同じ目には遭わせるな、とも言えなかった。

 責任とはなんだろう。子供だから・大人だからという違いで出たり引っ込んだりするものなのだろうか。少なくとも宇宙の平和を守る責任についてはその区別によって負わされるわけじゃあないとわかっている。宇宙の平和を守るのはヒーローの役割で、記憶を失う以前子供の自分でもヒーローを全うしていた。

 ヒーローになれと繰り返し聞かされた言葉が、今はこのか弱い女性に「助けて」と言われていたように感じる。

「先生、辛かったんだね」

「事実……精神的に効果的な作用があるらしいが、やはり人と触れ合うっていうのは良いものだな。いつぶりだか、思い出せもしないが」

「別に、好きに触れ合ったらいいじゃないですか。俺が学校言ってる間、本当は校医のフリする必要なんかないんでしょ? この星で友だち作ったらいいんですよ」

 恋人でも、とまでは照れが出て言えない。そんな話題を持ち出すのは相応しくない気がした。子供が、それもこんな状態で。

「ああ、それができたらいいんだがな……。

いつまでもこの星にいるわけではないから、知り合いが多いと面倒も多くてな。

学校に潜り込んでいるのは主治医として君の傍にいなくてはならないという義務もあるが、まあそれなりに楽しんでやっていることさ」

 密着しているので吐く息の湿り気がシャツに染み込んでいく。肌が触れ合う部分が互いの体温で熱を増していく。もうどちらが汗ばんでいるのもわからない。表情を見れば、とりあえず脂汗は無くなっているようで気分が楽になった。ヒーローではないけれど、少しは助けになっているようだ。間近にある顔は安らいでいる。

 自分を弄ぶこの宇宙人をこれほどよく見つめたことはなかった。トラブルの原因と感じて、どちらかと言うと目をそらそうとしてきた。眠ろうとしている今気兼ねすることなく観察できる。

 接して得た印象よりも若い。それこそ新任の先生くらいで、大人と呼ぶにもまだ成り立てのようだ。顔つきは細く尖った唇や鼻には同級生に無い色気があった。

 これだけの美人なら幸せになる道がいくらでもありそうなのに、一体どうして何かのトラウマを引きずりながら宇宙ヒーローと関わっているのか。自分がヒーローを目指していたことと同じくらい理解できない。

「ねえ先生、先生はどうして今の仕事をしてるの?」

「大人の仕事が気になる年頃か」

 呟くように話す低音が喉を震わせ、振動が胸に伝わってくすぐったい。

「でも充分に知っているだろう。職場見学も今更必要無いほどだ。なにしろ私の職場は君だからな」

「改めて考えると先生のことよく知らないなって思って」

「私は君をヒーローにする。それだけわかってくれていればいいさ」

 思っていた通り、素直には内情を明かしてはくれない。ヒーローとして完成して宇宙へ出れば自然とわかること、そういう風にしか考えていないのだろう。

「ヒーローが必要ってことは、宇宙には悪者がいるってことでしょ? 宇宙はそんなに、危ないところなんですか?」

 自分が巻き込まれた事故とはなんなのか。もしそれが何かと戦っての結果だとしたら、記憶を取り戻す為にはこの質問も的外れにはならない。重要視されていないこともわかってはいるが。

「もちろん悪者はいるさ。大小を問わなければこの町にだっている。それは君にもわかっているはずだ」

 返事は要領を得ない。少しイライラしてきた。

「そういうことじゃなくてですね」

「一度言ったがこの星に危険が及ぶ心配はしなくていい。この星に攻め込む理由は無いからな」

 だがイライラは続かなかった。話し声で起きていた震えはもっと強くハッキリしたものになっている。背中に回った手が固く握られている。

「ごめんなさい。話さなくていいよ」

「……すまない」

 短い言葉に嗚咽が混じる。刺激してしまったようだ。

 記憶を取り戻したい気持ちは何よりも大きい。けれどその為に誰かを苦しめても構わないとまでは思わない。苛立ちは復活して自分へのものに切り替わった。

「ハイハイ! 寝ましょう。俺、抱き枕に徹しますから」

「ああ、ありがとう。でも話はしたいかな。君が話してくれ」

「そう言われても俺、あんまり話題持ってないですよ。2週間分しか引き出し無いです」

「君の知っている範囲でいいさ。そうだな……同級生の話が聞きたいな」

「同級生って、俺が仲良くしてるのって言ったら凛華……鹿児さんくらいしかいないんですけど」

 あまり手広く付き合うと記憶喪失のボロが出てしまいそうなので交友は制限している。というか、うまくコミュニケーションが取れない。どうしても振り払えなかったのが凛華だけだった。

「いいじゃないか。だったら鹿児さんの話を聞かせてくれ。君は彼女を名前で呼んでいるのか?」

「うん。ああ、はい。前はそうだったらしくて、そう呼ばないと機嫌悪くなるもんだから」

「そうか。仲が良かったんだな」

「ええ……とっても」

 女子トイレに引きずり込もうとすることや女装させようとすることは凛華の名誉の為に黙っておくべきだろうか。気にしなさそうではある。

「あ、そうだ」

 今日凛華から受け取ったリボンのことを思い出してポケットを弄る。

「これ貰ったんだけど、先生使ったらどうかな。さすがに俺には似合わないしというかあり得ないし。先生の、だいぶ古くなってるから気になってたんだ」

 言いながら、つい髪を撫でていたことに気づいた。髪をまとめる傷んだリボンはその先で頼りなく揺れている。

「うわっ! ごめんなさい。なんか触っちゃってた。その、綺麗なもんだから」

「いいさ。この距離感で今更文句も言えんよ」

「そりゃ……まあそうか」

「褒めてくれて嬉しい。なんだったらそのまま撫でていてくれ。落ち着く気がする。変なところに触ったら殴り飛ばすがな。

それより、君が貰ったものは君が使いなさい。そうしないとプレゼントしてくれた鹿児さんにも悪い」

「いいんですか? ヒーローがリボン巻いてて」

「そうだな。ヒーローと言えばマフラーだな。

いいから、もっと鹿児さんの話を聞かせてくれないか」

「あー……えーと」

 そうして聞かせてもしょうがない話をしているうちに宇宙人は寝てしまった。寝顔は穏やかで、ひとまずは抱き枕として使命を果たしたことに安堵する。ずっと抱きつかれている体勢は身動きできずに背中が痛いけれど、少しも悪い気分はしなかった。

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