第二話

 学校の授業を聞き流してノートにペンを走らせる。

(俺の名前は……っと)

 氏名、外家ナオ、年齢、10歳。わかっている範囲で自分についての情報を書き出して確認していく。

(ヒーローになりたくて、実際なってて……仲の良い友達が一人――いや、恋人って書いてもいいかな? ヌフフ)

 鹿児さんのことを考えていたら、ちょうどその顔が目の前にあった。

「顔がふやけてる。なにしてるのー?」

「ん、ああ――いやなんでもない!」

 慌ててノートを閉じて机にしまう。

「久しぶりに修行の計画? 危ない所はやめといてよね、滝に飛び込んで大ケガした時、すっごい心配したんだから」

「俺は……そんな恐ろしいことを?」

 記憶は無いものの想像するだけでゾッとした。

(痛がりの癖は――前はなかったんだな。やっぱり事故が原因か)

 その辺りの事情を宇宙人に確かめることはできない。求められていない以上記憶は自力で取り戻す必要がある。

「えーと、それで何か用?」

「さっきの算数、わかんないとこあったから教えてもらおうと思ってさー」

 言うなり開くだけはしてあった教科書をペン先でつつく。

「ああ、そこは前のページの応用で――」

 説明してやると鹿児さんは話を聞いているのかいないのかいないのかフンフンと鼻を鳴らして納得した音だけ出す。瞳が羨望で輝いていた。

「ナオ、すごーい! 先生の質問にもスラスラ答えてたし、いつの間にそんな勉強できるようになったのー?」

「え? はぁ……だって習った範囲のことで……」

 答えかけてドキリとした。

 鹿児さんの反応からして以前の自分は勉強ができなかった。ヒーローになりたがっているようなまっしぐらにとぼけた子供なのでそれはそうだ。頭が良いわけがない。

 しかし痛がりと違って、事故のせいで急に勉強が身についたというのは考えにくい。隠していたと考えるのが自然だ。周囲に秘密にして宇宙と関わっていたくらいなので知識がこの町の小学生より進んでいても不思議はない。

 ならここで取るべき行動はひとつ。

「なんつってなんつってー! 実は今のテキトーに言っただけなんだよ。間違ってるから、ちゃんと先生に聞いてきたほうがいいよ」

 おどけたポーズを取って誤魔化す。冷や汗が流れたが、鹿児さんは膨れ面でブーと非難めいた声を出した。

「なんだー、残念。これからは宿題とか全部やってもらえると思ったのにー」

 秘密を抱えた身の上が憎い。せっかく尊敬されていたというのに、これからは授業やテストでバカを演じなくてはならなくなった。

「くそう、泣ける。こんなんじゃそのうち見限られてしまうんじゃないか俺。

いやでも良く考えたら元の俺に合わせる必要ないんじゃないか? でも宇宙人に何か言われるかもしれないし……」

「どうしたのブツブツ言って。それより先生に質問に行くからついて来てよ。一人で職員室入るのなんか緊張するし」

「うぅ、わかった」

 今はまだこんなことでも頼りにされてることを喜ぶことにして、とりあえず立ち上がる。

「あ、その前にトイレ行きたい。ナオ、一緒いこ」

「はぁっ? お前、それは一人で行けよ。なんで俺が」

「えー? いーじゃーん行こーよー」

 腕を引っ張られて動揺する。一体自分はどういう生活を送っていたのか、思い出すのがまた恐くなった。


 授業は午前で終わったので放課後は町へ出て、すぐに見かけたカツアゲ現場を解散させて一息ついた。

「ぬぎっ」

 顔面のバンソウコウに指を入れて引き剥がす。それで変身が解ける、というか、見た目の変化としてはその覆面の他は何も無い。

「前進している気がしない……でもまあ、一応町の治安には一役買ってるのかな」

 ヒーローなりの自覚なんて欠片もないものの、町の住人の一人としてそこに多少の満足感はある。

「宇宙にも……カツアゲとかあるのかな」

 あるとしても不良を小突く程度に簡単には済まないはずだ。詳細を宇宙人に教えてもらうこともできない。宇宙に関心があると思われても困る。

(自分のこと振り返ってみてもなんにも収穫なかったしなあ……)

 最大の有効打はこの町にいるはずの両親を捜すことではあるものの、まだそこに触れる度胸は無い。それでも駄目だった場合いよいよあとが無くなる。

(つーか……どういう顔して会えばいいんだ。向こうだって俺のことわからないだろうし)

 頭をかきながら路地から表通りへ出ると、鹿児さんとばったり出くわした。

「あれ、ナオ? なにしてるのこんなとこで。私の買い物には付き合ってくれなかったのに」

 ひょいと後ろを覗き込まれてももう不良も被害者も逃げて行ったあとだ。なにを知られる心配もないけれど、動揺は起きた。

「いや何、修行だよ修行! なにしろ俺はヒーローになりたいからね!」

 リハビリ中の元ヒーローという立場を隠して暮らすのはなかなか辛い。しかもそのうえでヒーローに憧れているフリをしなければならないので隠し事が隠し事で無くなるあべこべだ。

「町で修行? いつも山とか行ってたのに。じゃあその修行ちょっと中断して、私の買い物に付き合ってよ」

「ん、おお? いいよ」

 デート、という単語がチラついて動揺が深まる。鹿児さんのほうはまるでそんなことは考えていないようだけれども勝手にテンションは上がった。

 そして連れられて訪れたデパートのテナントで動揺は極まった。

「なにしてるの? 早く入ろーよ」

「ええっ? だってお前ここはダメだろ、俺入れないって」

 所謂、いわゆらなくてもランジェリーショップ。女物の下着売り場。近寄ることだってできはしない。にも関わらず腕を掴まれずるずると引きずり込まれた。

「うわっ、イヤだ困った痛い痛い!」

「いーじゃん付き合ってよ。私だいぶ膨らんできたからちゃんとしたブラジャー欲しいんだもん」

「そういうことを赤裸々に打ち明けるんじゃありません!」

「もー、私ばっかりじゃなくナオだってちゃんと選んでよね」

 混乱した。仲が良いことはわかっていたものの、もしかすると想像以上の関係だったのだろうか。店内を見渡せば大人のカップルもいて、男が商品を選ぶ女にあれこれと話しかけている。ああいう役割を求められているんだろうか。

(いやいや待て待てまだ十歳だろ? っていうかそういうことなら憶えてないのはさすがにマズいだろ俺)

 鹿児さんとどう接していいのかわからなくなった。なにしろ自分の立場がわからない。妙に仲が良いのも精神がまだ幼いせいで性差がよくわかっていないからだと思っていたのに、ここへ来て第二次成長に適応しようしている。

「うわあぁぁ! お腹空いた俺はフードコートに行く俺だった!」

「あっ、ちょっとー」

 振り払って逃げ出す。記憶喪失やヒーローがどうとかではなく、どういう顔をして下着売り場に付き合っていいかわからない。

 しばらくフードコートで待っていると鹿児さんがやってきた。目的の買い物はできたようで小さな紙袋を提げてゴキゲンに微笑んでいる。

「お、おう。付き合ってやれなくて悪かったな……」

 元々正式に恋人だった場合を考えると微妙な発言しかできない。

「んー? いーよ。元々ムリだろーなってわかってたし」

 どうやら作り笑顔で本当は怒っているとかいうこともないらしい。ホッとする。

「それよりなにこの量。ワー、たくさん頼んだんだね。お祭りみたい」

 テーブルにはフードコート中のメニューを制覇してあれこれと積み上げてある。鹿児さんが怒っていた場合に備え機嫌を取る為に用意したけれど、徒労だった。

「いくらなんでも多いよう。晩ご飯入らなくなっちゃう。あ、回転焼き。具は何具は」

「カスタード」

「ワーイ。ねえ、ナオも食べようよ」

「いや、俺はいいや。なんか胸がいっぱいで……」

 色々と心労がかかって食欲が湧かない。

「んー? お腹空いたって言ってたのに。それにこれ、だいぶお金かかったでしょ。私半分払うよ。えっと……」

 財布を開いて苦い顔をする。

「また今度、ちょっとずつ払うよ」

「気にしなくていいって、俺が勝手に買ったんだし」

「だってナオ食べてないじゃん。じゃあ、次来た時は私がご馳走するからね」

「お、おう」

 その時もまた下着売り場に連れて行かれるのかと不安になったので曖昧に頷いた。


 フードコートで分けて貰った手提げの紙袋に鯛焼きやらホットドッグやらを詰めてデパートを出る。ケチャップソースを初めとした甘ったるい香りに包まれているせいで食欲は変わらず戻らない。鹿児さんのほうはそうでもないらしい。

「やっぱりもひとつ食べようかな。今度はポテト、ポテトがいい」

 バス停の椅子に座るなり早速紙袋を覗き込み始める。が、選び出す隙を与えずバスがすぐに到着した。歩きながら食べる習慣はないらしい。良い子だ。

 古ぼけた小さなバスの狭い座席でフトモモが触れ合うのを気にしながら、再び紙袋を覗き込んで鼻歌を歌っている鹿児さんを横目に見る。できるだけ接触面は小さくしたいものの、窓側に座ってしまったのでガラスに顔型をつけるだけで間隔を空けることはできない。

「晩ご飯、入らなくなるんじゃなかったの」

「ダイジョーブ、育ち盛りだから」

 気楽な返事に呆れていると、胸元から今日の買い物のきっかけにもなった育ち盛りの膨らみがちらりと見えていることに気がついた。

「ふおー」

「ん? ナオもどれか食べる?」

 つい猫背で覗き込んで凝視していると視線が刺さったのか鹿児さんが紙袋から顔を上げた。下心に気付かれていたわけではなかったのに、過剰に驚いて首を仰け反らせ窓枠に強かに後頭部をぶつけた。

「痛い! 脳みそこぼれた!」

「こぼれてないよう」

 一拍遅れてピンポンと音が鳴って、降車ボタンに頭をぶっつけたことを知った。

「スイマセン! うっかり脳みそをぶつけました!」

 乗る時に他の乗客がいないことは確認している。押し間違いに合わせてたまたま誰かが降りてくれるようなことにはならない。

『はい、通過しまあす』

 運転手がマイクで答えるのを聞いても少しもホッとはしない。

 既にそれどころではなくなっている。体を折って首を膝の間に埋めて、恐る恐る触って確認すると、顔がバンソウコウで覆われていた。頭をぶつけたショックでケガ人マンに変身してしまっている。鹿児さんの隣で。

「どうしたのナオ? お腹痛い?」

 幸いまだ気付かれてはいないようだ。

「ああ、大丈夫大丈夫」

 ケガ人マンはこの覆面さえ剥ぎ取れば変身が解ける。こうして顔を伏せている間に外してしまえばいい。

「ねー、大丈夫なら起きてよー。ねえねえ」

 ぽかぽかと背中を叩かれる、と同時に後頭部に鈍い痛みが蘇った。

 ケガ人マンに変身中は全てのダメージが変身のきっかけとなったダメージと同程度同種に変換される。

(嘘だろ? 鹿児さんがふざけて叩いてるだけでも効くのかよ!)

 何度も何度も叩かれているうちに痛みが重なり気が遠くなってきた。

「ねえねえねえねえ、ねえってばあ」

「痛い痛い痛い! 痛いっつーの!」

 上半身を起こしながら一気にバンソウコウを引き剥がす。

「イッ――ってえ! ヒリヒリする!」

「えぇー? そんなに強くしてないじゃん」

 横で不平を言う鹿児さんを無視して顔を撫で回す。熱を持っているから赤くなっていそうだ。

「ったく、なんで俺がこんな目に――」

 記憶喪失になってからつくづく良いことが無い。つまり記憶の限り良いことがあった試しが無い。

「やっぱりなんか変だよ」

 鹿児さんは頬を膨らませてむくれている。

「ナオ、今までずっと悩み事なんか全然無さそうでさ。毎日おいしそうにご飯食べてクタクタになるまで走り回って、そんで休んだらまたご飯食べて走り回って、ってすごい元気にしてたのに」

 宇宙と関わりなんて持っていなさそうなバカの振りは成功していたらしい。というよりも聞く限りバカそのものだ。それに合わせろと言われても無理がある。

「毎日すっごい楽しそうで、だから私ナオに憧れてるんだよ。ヒーローなんてなれなくたって、ナオはすっごくカッコイーよ。

……でも、今のナオは変。悩み事があるの? もしかしてホントは前から悩んでたの? 走り回ってたのは、なんか保健体育で習ったやつなの?」

 頬の膨れは取れて寂しそうな顔になった。自分がその原因であることを考えれば申し訳なくも思う。

「憧れが……壊れた?」

「ううん、そういうんじゃなくて。ナオに私の憧れのままでいてほしいわけじゃないし。

でも何かあったんなら話してもらえないのは寂しいな。ナオがヒーローになるんなら、じゃあ私はヒーローの助手になるっていうのはダメかな? そしたら相談してくれる?」

 鹿児さんの手が重なって温もりが伝わり、一つ大きな思い違いに気がついた。

(良いこと、あったな……)

 記憶は失ったけれど、ヒーローの仮の姿として暮らしていたこの町で凛華がまたそばにいてくれていることは大切な財産だ。

「凛華……ありがとう」

 事情を明かすことはできないにしても、そういう気持ちでいてくれるだけで泣けてきそうなほど嬉しかった。

「ナオ、涙出てる」

 既に泣けていた。

「いいや、これは違う! 悩みなんかなんにもないのさ!」

 前の椅子に手をついて飛び越え、通路に着地する。乗車客を拾う為に丁度停車したバスの降車口へ走っていって財布をひっくり返し運賃投入口にありったけの小銭を流し込んだ。

「ありがとうございました!」

 運転手に礼を言ってバスを駆け下りた。そのまま走る。目的地は無い。目的も無い。

「わぁ! いつものナオだー!」

 嬉しそうな声を背中で聞きながら、それだけを唯一の糧にしてどこまでも走っていけそうな気になれた。


 とはいえ冷静になってみれば本当に宛ても無く、結局汗だくになっただけで凛華が待つバス停に戻り、やってきたバスに改めて乗り込んだ。

「走ってお腹空いたでしょ。ハイ」

 焼きそばを差し出す凛華の笑顔だけが収穫で、それだけで心から満足した。

「あ、バスの中で食べるのは行儀良くないね。うち着いてからにしようね」

「お、おう。まあ……まだ夕方だからちょっとくらいならいいか」

 自然と凛華の家に寄る流れになっていることに逆らえない。


(凛華が助手かあ……)

 口に焼きそばを詰めたままぼうっと考える。

 今は宇宙人がその役をやっている。そこに凛華が入れ替わるとしたら、今の馬鹿馬鹿しいヒーローごっこも少しはやる気を出して望める気がする。

(いやまあ、変身してる間はやる気出てるみたいだけど)

 視聴覚室で見せられた映像を思い出して気分が落ち込む。普段は見るだけで具合が悪くなるのに、血が出るとテンションがおかしなことになってしまう。あんな姿を凛華には見られたくないので、助手の交代はあまり嬉しくない。

「あっ――そうだ! 誰かに代わってもらえばいいんじゃないか!」

 閃いてつい大声が出る。

 この町に限っても自分よりヒーローに向いた人材はいくらでもいる。とりあえず大人。ヒーローを諦めれば抹消すると脅されたが、これまでもずっと秘密を守ってきた実績がある。交渉の余地はあるかもしれない。

 となれば明日から挑戦することはヒーローごっこではなく、新しいヒーローのスカウトだ。宇宙人からも文句が出ないような打ってつけの人間を捜す。それさえできれば宇宙へ連れて行かれるというタイムリミットを気にせず記憶が戻るのを待つこともできる。

 初めて未来に希望が持てた。これも凛華のおかげだ。

 ふと、部屋を見渡す。ここは凛華の部屋で、凛華はお茶を用意しに出ているので一人だ。ただ隣にいるだけで香ってくる凛華の良い匂いが焼きそばを遠ざければそこかしこから漂ってくる。記憶を取り戻すだけではなく、これから築いていく未来が目の前に開けた今、前よりも何もかもが鮮明だった。

 学習机とベッドと小ぶりなTV、それに白い小さなタンス。タンスの下にはデパートで買ってきた小袋が置かれている。中には例の物が入っているはずだ。

「ナオー? どうしたの」

 小袋を凝視していたらいつの間にか凛華が部屋に戻ってきていた。

「うわぁ! なにもしてません! 未使用だから情状酌量の余地がある俺です!」

「なに言ってんの? それよりほら」

 凛華はミニテーブルに置いたお茶の他に何か黒い箱を抱えていた。

「なんだそれ」

「お兄ちゃんのゲーム。って、知ってるじゃん。ナオ、これ好きでしょ? 勝手に借りたらお兄ちゃん怒るけど、ナオが遊ぶんだったら平気かなって。ほら、線繋ぐのやってよ。私よくわかんないから」

「ん? ああ……」

 プラグの色を見てTVとコードを繋ぎ、テレビの前に座るとコントローラーを持たされた。スイッチを入れるとすぐにぼんやりとゲーム会社のロゴが画面に写る。

「なんか、こういうの懐かしいなあ……」

 操作に従い右に走って行くプレイヤーキャラを見ながらぼうっと感想がこぼれた。数秒置いてハッとする。

「うごげ? 記憶! なんか俺記憶! 懐かしいって今思った俺だった!」

 画面を見て、何かを操作する。確かにそんな記憶がある。

 思わず大興奮する隣で、凛華は食べかけの焼きそばをほお張りながらしれっとしている。

「懐かしい? お兄ちゃんと一緒にやってたじゃん」

「なんだそんなことかチクショー! あーそりゃそうだよなゲームくらいしたことあるよな」

 記憶の片鱗に触れたと思ったのに、とんだ肩透かしだった。

(いや、ゲーム好きってわかっただけでもいいか)

 新たに判明したプロフィールを心の履歴書に付け足す。「走り回る」だけだった趣味欄が少しマトモになった。

 もしかするとこのまま遊んでいれば何か思い出すきっかけになるかもしれないのでTVゲームを再開する。

「ねえ『懐かしい』ってそれ、『もっと遊ばせろ』ってこと? ヤだからね。

だってゲーム始めたらナオ全然私のこと構ってくれなくなるじゃん。最近はアルバムばっかりだったし。私寂しいんですけど」

 焼きそばを飲み下したはずの凛華の頬がまだ膨れている。

「きょ、今日買い物に付き合ったろ」

「えー? だって途中で逃げたじゃん。会ったのも偶然だし。また今度ちゃんとするからね。じゃないと怒るから」

 ちゃんとした「デート」、と解釈して動揺し、画面の中で走っていたキャラが穴に落ちてからなぜか一度飛び上がって死んだ。

「いやあ……そうは言っても俺にあの店はキツいんだが……。まだ早くない?」

 デート自体は嬉しいものの、想像を巡らせても自分があのランジェリーショップで楽しく過ごしす想像はできない。上級者過ぎる。

「全然早くない」

 凛華は譲る気が無さそうだ。しかしこれはそう難しい問題じゃあなかった。打開策としては凛華が飛びつくような別のデート場所をこちらから提案するだけでいい。

「どうせ出かけるならさ、もっと楽しそうなところ行こうぜ。水族館とか」

「水族館って、市内のほうにある動物園にくっついた小さいやつ?」

「いや、小さくないのあるだろ。デッカイ水槽にものすごい種類の――」

 はて、と自分で疑問に思って言葉が止まった。

(俺、今度こそ何か……)

 頭の中に思い浮かんだイメージが通り過ぎて行って呼び戻せない。この町のものでないなら、宇宙についてのことかもしれない。

 無言で固まっていると凛華に頭をいじられていた。髪をつまんで何かしている。

「うん? なにやってんだ。バスの中でのケガならなんともなってないぞ」

 本当はコブになってはいたが、一旦ケガ人マンに変身したおかげで完全に治っている。

「ううん、違うの……ほら、できたー」

 髪を引っ張られている感覚と、ほんの少しの重み。その正体がなんであるかは手鏡を渡されて判明した。頭にリボンがついている。ピンク色の腰まで届く長いリボン。

「んー、ダメだな。うまく結べない」

 よく見ると確かにバランスがおかしい。が、結びの出来はどうでもよかった。

(これは……どういうことだ)

 なぜ自分がリボンを巻かれているのか。もぎ取って捨てようと思ったものの、凛華が嬉しそうにしているのを見てそれもできなくなった。

「もー、ナオの髪が短いからだよ。長く伸ばそうねって前約束したのに」

「それは多分、凛華が一方的に押し付けた約束だったんじゃないか。憶えてないけど」

 導かれる結論が恐ろしくて直視したくない。

「じゃあしょうがない。取り合えずスカート穿いてみようよ。私の貸すから」

「なにが『じゃあ』で『しょうがない』になるのか全然わからない俺だ」

 友人関係:仲の良い異性に女装を強要されている。

 新しいプロフィールを獲得したものの、また悩みが増えてしまった。材料を集めれば集めるほど以前の自分が遠く近寄り難い存在になっていく。味方はいないのかもしれない。


 土下座までしてスカートを拒否し鹿児家から逃げ出したあと、凛華の視界を外れてからリボンを解く。自分の素性がなにやらおかしなことになってきた。

(勘弁してくれ、何もかも勘弁してくれ)

 吐き出したため息が余りにも夕暮れに似合い過ぎていて、一人で噴き出して笑いがこぼれる。本当は、悲観に暮れるほど悪いことばかりじゃあなかった。

 誰かもっと相応しい人物とヒーローを交代するという目標ができた。これがうまくいけばストレスの一番大きな部分が解消する。それに比べれば女装を求められることくらいなんてことない――とまではさすがに言えない。今の一番が消えればすぐさま同じところへ滑り込む重大事だ。

 問題回避の前例に倣えば、女装よりも楽しいことを提案すればいいはずだが何も思いつかない。欲求が一般とは別ジャンル過ぎて手に負えない。

 一体どうして、バカみたいに走り回っているだけの憧れの人物を女装させようという発想に至るのだろう。

 貰ったリボンをポケットに突っ込んでから家に向かって歩く途中、ふと妙な疑問に陥った。もしかして自分は以前、「女」だったのかもしれない。

 事故と聞かされて大爆発を想像してばかりいたが、何かの実験の結果だったのかもしれない。それに巻き込まれて宇宙レベルの不思議なことが起こり性別が変わってしまった、そうは考えられないだろうか。

(って、んなわけねーよ。だったらこの町に戻さないだろ。

受け入れるかー! こんな純朴な田舎町が。一体どんな目で見守られてんだよ、優しさが辛いわ)

 あまりの馬鹿馬鹿しさに恥ずかしくなりしゃがみ込んで頭を掻く。と、爪で引っ掻いて傷でもできれば変身してしまうことに思い当たって手を止める。

「できることを……やるか。ちゃんと前に走らないとな」

 今は記憶のことは二の次だ。なによりまず宇宙へ行く未来を変える為に宇宙人と交渉しなければならない。

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