ご近所スペースオペラ 外伝 ~癒えろ! ケガ人マン~

福本丸太

第一話

 フルスイングした鉄パイプが金属質に似合わない鈍い音を立て、表通りからは視線の届かない路地を赤く染める。その場の一人が怯えた声を上げた。

「おい! マジでやりすぎだって!」

 誰もが髪を染め制服をだらしなく着崩した男子高校生が数人、たった一人を相手に取り囲んでいる。優勢にいるはずの彼らは、ところが怖れにくじけかけていた。

「ここまでやりゃ、もう向かってこれねえだろ」

 鉄パイプを振るった少年が笑みを浮かべているのも余裕からではなく瀬戸際に立つ者の引きつりだった。冷や汗で滑って鉄パイプが地面に落ちる。

「どうした。貴様たちの傷はこんなものか」

 ところが、期待を裏切って彼らの獲物は今度もまた身を起こした。

 いや、彼らが選んだ本来の獲物はとっくにこの場から逃げ出した、気の弱そうな男子中学生だった。遊ぶ金と弱者を虐げて優越感に浸る狙いで標的を選んで路地裏へ誘い込んで、その良い所で奇妙な闖入者が現れた。それが今の相手だ。

 腰に手を当て胸を反らす堂々としたその姿は彼らから見れば随分年下で、下手をすると小学生くらいに見えた。話す声も声変わり前で高い。Tシャツに短パン、それこそ麦藁帽子を被せて虫取りアミでも持たせたら似合いそうな風体をしている。

 ただ一つ異様に見えるのは、顔面をバンソウコウで覆われている。規格外に大きなバンソウコウが覆面のようにして貼り付いている。

「そちらが手を尽くしたのなら今度はこちらから行くぞ! うおおぉーっ!」

 雄叫びを上げ覆面バンソウコウが鉄パイプを持った高校生に殴りかかるが、繰り出したパンチは無様に空を切り、反対に殴りつけられて地面へ転がった。そしてすぐに起き上がる。

「なかなかやるな。だがこの程度では俺を止めることはできないぞ」

「なんなんだよ……お前一体なんなんだ!」

 もう何度も殴った。その度に血を噴き出してバンソウコウは真っ赤に染め、それでもまた立ち上がる。だからこそ彼らも引っ込みがつかず武器を持ち出して普段ならためらう行き過ぎた暴力に及んでしまった。だというのに、まだ変わらず立ち上がる。

「ナニモンだろうと――ナメられてたまるかよ!」

 遂に刃物が出た。折りたたみナイフを伸ばすと突進して覆面バンソウコウの胸に突き立てる。

 追い詰められた仲間の凶行に幾人かは青褪めたが、覆面バンソウコウは深々と刺さったナイフを無雑作に引き抜いて足元へ投げ落とした。

「この俺にこんなものが通用すると思うな!」

 ナイフで刺された箇所はTシャツに穴が空いてはいるものの、そこからの出血は無い。代わりにバンソウコウで留められなくなった鮮血が顎先から滴った。血を吸って膨らむ様子はまるで拍動する心臓そのものに見える。

「なんでコイツ、腹殴っても胸刺しても顔から血が出るんだよ!」

「もうバケモノだろ! これ!」

 とうとう恐怖心が極まった高校生たちは悲鳴をあげ形振り構わず逃げ出した。その背を指差し、覆面バンソウコウが吠える。

「バケモノじゃない、俺の名はケガ人マンだ! 絶えざる悪が栄える前にそっとフタして乱れを癒す、宇宙ヒーロー・ケガ人マンイエロー! 悪事に懲りたらお大事に!」

 誰も聞く者がいない中高笑いをして、それから捨てたナイフが足に刺さっているのを引き抜くとまた顔面から血を溢した。


「以上が、昨日の活動記録だが」

 高笑いが終わる前に映像を止めて白衣の女が振り返る。長い髪をまとめる、元の色が判らない程に古く傷んだリボンがつられて揺れる。

「ケガ人マンイエローとは? そんなことを君に教えた憶えはないが」

 彼女が見つめる先では少年が椅子に腰かけ顔を覆って赤面している。Tシャツに短パンの、麦藁帽子と虫取りアミが似合いそうな少年だ。

「やめて、掘り起こさないでください。変身中はテンションが上がっちゃって……なんかこういうノリになっちゃうんですよ」

「分泌されるアドレナリンの作用を強者としての優越感が助長しているというわけだな。こればかりは君の本来の資質だ。自主的な努力でその調子乗りな性格をなんとかしたまえ」

 少年は歯を食いしばって耐えている。反論したい気持ちはあっても、自分の行いをこうも明快に見せ付けられてはどうしようもなかった。

「君がなによりも先に克服しなければならない課題は誤ったヒーロー観だな。子供らしさとも言えるが、君は普通の子供と事情が違う。憧れの形のまま行動されては支障がある」

「いや、別に憧れてないんでスけど」

 白衣の女が締め切っていた暗幕のカーテンを開くと視聴覚室に青空が運ぶ光が入って明るくなった。空間に光源が混ざりスクリーンに映った映像は薄くぼやける。

「憧れていない? そんなはずはない。子供は皆ヒーローに成りたがるものだ。嬉しかっただろう? 自分がヒーローだったと知って」

 少年は陰気にため息をつく。

「こっちとしてはそもそもその話が信じられないんですけど。俺十歳だよ? 戦国時代でも元服まだだっていうのに、ヒーローやってたなんて実感持てないですよ」

「学校のほうの勉強には適応できているようで先生の端くれとしては安心するばかりだな。

ではヒーローではなかったと主張するのなら、代わりに『自分はこうだった』と提出できる過去を君は持っているとでも? あるなら出してくれたまえ」

 さあ、と求めるように掌を見せられ、少年は言葉に詰まる。

 少年にはここ半月より以前の記憶が無い。記憶がないと自覚する前、目が覚めた瞬間にはもうこの白衣の女が目の前にいて、宇宙ヒーローとして活動中の事故で記憶を失ったようだと説明された。今はそのリハビリとしてこの星で生活している。

「先生の端くれって……校医だしそれもニセモノじゃないですか」

 的外れの批判を返すのが精一杯だった。少年は生徒として、白衣の女は校医としてこの学校に在籍している。宇宙ヒーローであることも、記憶喪失であることも隠して。

「すまない、意地悪をしてしまったな。心配するな。君がヒーローとして再教育を受けている間に、自分が何者なのかも思い出すさ。なにしろここは君が暮らしていた町だ。確かに私はニセモノの校医だが、君はニセモノの生徒じゃない。ここでの暮らしは君が元々送っていたものなんだよ」

 白衣の女からもう何度目かになる話を聞かされても、少年は今回も納得できない顔をする。

「十歳の俺がその前から小学生しながら同時に宇宙ヒーローやってたっていうのが一番納得できないんですよ。宇宙的に労働基準法はどうなってんですかね」

「君が本当に十歳かどうか、ズボンを下ろして確認してあげようか?」

「やめろ! っていうかですねえ――」

 少年は窓辺につかつかと歩み寄りサッシを開くと腕を振って外の景色を示した。

「宇宙がどうとかいうにはちょっと文明レベル低すぎませんか?」

 見える町は低い建物ばかりで、見える限り一番高い建築物はもくもくと煙を噴き上げている銭湯の煙突になる。あとは大きく開いて公民館の三階建てがせいぜいだ。ヒーローを輩出するなど宇宙と関わりを持つ地域にはとても見えない。

「年寄りがランニングシャツでうろつき回って、八百屋じゃバナナを切り売りしてるんですよ? 俺に記憶は無いけど、なんかこう……古過ぎる」

「古いとはなんだ」

 白衣の女に蹴られ、少年は二つに折れて床に這い蹲る。

「平和で素敵な町じゃあないか。この惑星は宇宙政府と繋がりがないから宇宙に比べて文明が遅れているのは無理もないことだ。例外は私と君だけで、秘密裏に宇宙ヒーローとして活動していた君は二重生活の中にいたわけだから、文明のイメージにズレを感じるのも不自然なことではない」

 悪びれず説明する白衣の女の足元で少年は脇部を抑えて転げ回る。

「痛い! 痛い! もーヤダ痛ぁーい!」

「大袈裟に痛がるな。君は本当にヘナチョコだな」

「痛いのは誰だってイヤでしょ! っていうか、今ので変身しちゃったらどうすんですか!」

「しない。今の君は半人前だから主治医バディの私が注射をして必要成分を補給しないとスーツは癒着しないと、そう教えたはずだ。もうとっくに効力は切れている。まさかまた記憶を失ったんじゃあないだろうな? 教え甲斐の無いヒーローだな君は」

「そのスーツってのも納得いかないんですよこっちは。これスーツじゃないでしょ、ただのバンソウコウじゃないですか」

 少年は自分の鼻筋に張られたバンソウコウを指差した。

「バンソウコウだな。カットバンなど色々と呼び方はあるが」

 白衣の女は平然と答えた。少年の苛立ちが増す。

「普通ヒーローのスーツって言ったら全身でしょ? TVの話ですけど。なのになんでこれ顔だけなんですか。

いいですか? 現実はもっと説得力っていうものが必要なんです。俺が『あー、俺ってヒーローだったんだー』って納得する為にはこんなんモノじゃ足りませんよ。もっと小道具に金をかけてください」

「現に変身したじゃないか」

「そーなんですよねー」

 少年の声から一気に力が抜ける。そのバンソウコウには宇宙の力が宿っている。それだけは疑いようの無い事実だ。

 使用者がケガをすることでこのバンソウコウは宇宙の科学力を発揮し、ヒーローとして相応しい超人的な力を使用者に与える。その力はケガの重さや種類に応じて変化し一定ではなく、更に特性として変身中のダメージを変身のきっかけとなったケガの重さと種類に抑える力を持つ。

「ヒーローとしての資格を失った今の君に正規のヒーロースーツを貸し与えたままにしておけるほど宇宙は豊かじゃないということさ。

君が持っているそれは第三世代型ヒーロースーツの普及版、痛みを乗り越え戦いに慣れることを目的でヒーロー訓練生がよく使用するものだ。とはいえ大事に使ってくれ。鼻血程度では不良をあしらうのも苦労するだろうが、そいつが無ければ君は今頃顔を倍に腫らして病院のベッドの上だ」

 スーツを脱いで変身が解けた時、全ての傷は癒えるようになっている。

「あとで治るっていっても痛いものは痛いんで、ちっともありがたくないんですよ」

 少年は胸を撫でながら悪態をついた。スーツの力が無ければ、そこにはナイフで刺した穴が空いているはずだった。

「大体これさえ無ければ妙なヒーローごっこに付き合わされることもなくて、最初から痛い思いなんてしなくていいのに。くっそ、どうしてこれ剥げないんだ」

 少年はムキになって爪で鼻をこするが、バンソウコウはビクともしない。

 鼻に貼り付いた変身スーツから離れられず、無理矢理注射を打たれ顔面に膝蹴りを受けることで強制的に変身させられてしまう。そこからはハイテンションのヤケクソに流される。毎回そんな繰り返しだった。

「こらこら、無理をするな。引っかき傷になったら変身してしまうぞ」

「変身しないってさっき自分で言ったでしょ! それに、変身したらなんだって言うんですか。ヒーローごっこで町のチンピラ退治、それで何がどうなるって言うんです?」

「ヒーローとしての心を取り戻すんだ。その為にも、この町は良い所だ」

 開いたままにしてあった窓から外を見渡し、白衣の女は穏やかな笑みを浮かべる。

「何を守りたいのか・守るべきなのかを初めから見つめ直す。その為にここにいる。この町を守りたい、君はそうは思わないか?」

 そこには反論できず少年は憮然としながらも白衣の女の隣に立って景色を眺めた。白衣の女から微かに消毒液の匂いが漂ってくる。

「そりゃあ、俺だってここが悪い所だとは思ってないですよ。記憶が無いせいで、本当にここが自分の居場所なのかって自信が持てないだけで」

「焦ることはない。時間が解決するさ」

 二人隣り合ってぼんやり外を眺めていると唐突に出入り口の扉が開いた。戸口からぴょこんと女子生徒の顔が覗いて癖のある髪が揺れる。ピンクに染まった頬がくっと持ち上がって弾けるように笑った。

「あ、いたー。やっぱりヤシ子先生のとこだ。ん? でもなんで視聴覚室?」

 白衣の女――ヤシ子先生は振り返るとさりげなくリモコンを操作してスクリーンの映像を消した。

「生活指導だよ、保健体育の範疇のね。外家そといえが学校にいかがわしいビデオを持ち込んでいたから中身を確認しながら説教していたんだ」

「えー? ヤラシーんだ。ナオのスケベー」

「俺なんもしてないって! 鹿児……さん」

 名前を呼ぶと、唇をすぼめてムッとした顔をする。

「あー、またそんな呼び方して。ちゃんといつもみたいに凛華って呼んでよー、ナオ」

 この女子生徒の名前は鹿児凛華かごりんか。少年の親しいクラスメイト、という関係にあるが少年にはその記憶が無い。同じく外家ナオという自分の名前もまだ馴染んでいなかった。

「ねーナオ、最近なんか変だよ? ヤシ子先生がこの学校に着てからさー。

保健委員だからっていくらなんでも呼び出され過ぎだし。他のクラスの保健委員はそんなことないのに、ナオばっかりっておかしくないですか」

 鹿児さんは訝しげにヤシ子を見上げ、間に入って守るように少年を遠ざけた。

「もしナオのことイジメてるんだったら、私が許さないんだからね」

 少年は記憶喪失の事実や宇宙ヒーローをしていたという正体を周囲に明かしていない。秘密を部外者に漏らせば爆殺されるとか動物に変えられてしまうとかいうことを怖れているわけではなく、ただ単にそんなことを言い出せば「馬鹿と思われる」からだ。

 小学生ながら宇宙ヒーローとして活躍した経歴を持ち今は記憶を無くしリハビリにヒーローごっこを続ける。それが少年の置かれた複雑で馬鹿馬鹿しい状況だった。

 様子がおかしいと鹿児さんには見抜かれてしまってはいるものの、要所要所でぎこちなく笑う努力でどうにか発覚からは逃れ続けている。普通、同級生が宇宙ヒーローになったうえでリタイヤしているという風に想像は働かない。そんな中で鹿児さんはヤシ子を怪しんだのだから鋭い勘をしていると、少年は一人静かに感心した。いつまで秘密を守りきれるか不安だ。

 鹿児さんが睨む通り、この校医に扮した宇宙人は怪しい。

「……君は健気で可愛いな」

 ヤシ子はニコニコ笑いながら鹿児さんの頭を撫でた。愛しんで柔らかく笑う、そんな様子を見れば彼女がまるで〝良い先生〟であるかのように一瞬思えて少年は激しく首を振った。

(そんなわけあるか、俺の身近で一番悪いのはコイツじゃないか)

 ヒーローとして活動する為に散々痛い思いをさせられ、例え記憶を取り戻したとしても今度は本格的にヒーローの任務を果たしにまた宇宙へ連れて行かれる。

「ヤシ子先生、もうナオを連れて行っていいですか?」

「ああ、気をつけて帰りなさい」

「それじゃ行こうナオ。先生さよーならー」

 鹿児さんに手を引かれ、少年は視聴覚室を出た。


「痛い痛い! そんな引っ張るなって痛い」

「もー、そんなに強くしてないのに」

 廊下に出て視聴覚室から距離を置いたところで振りほどくと鹿児さんは鼻を持ち上げて非難してきた。彼女にしてみれば悪いいじめっこから友人を救出した気分でいるのだろうけれど、痛みの他に思春期に片足を乗せた身としては異性と手を繋いで学校の中を歩くことに照れも感じる。

「だってお前、人前で手なんか繋いでたりしたら……なっ?」

 今は放課後で横の教室にも廊下にもちらほら生徒がいる。中にはこっちを観察しているヒソヒソ話も見かけた。ハッキリ言って、まんざら悪い気分でもない。

 鹿児さんの態度を見る限り記憶を失う以前はかなり親密だったようだ。面倒見良く接してくれて、そのうえ見た目もやたら可愛い。記憶を失う前は片思いだったと断言できる。こんなのがこんな距離にいて好きにならないわけがない。

「手繋いだからってなんなのさー」

 ところが鹿児さんのほうにはまるで手応えが無い。不満を表す顔にも声にも気恥ずかしがっている様子は見つけられなかった。どうやら第二次成長の風はまだ吹いていないらしい。まったく意識されていない。

「トホホ……前の俺をヘタレ呼ばわりなんてできないな」

「もー、なんか元気無いなー。そんなこと言ってたらヒーローになんかなれないよ?」

 落ち込んでいたところに追い討ちをかけられた。自然と肩が落ちる。

「れれっ? なんかますますダメな感じになった」

「容赦なく悩みの根っこに触れないでくれよ」

「んー? だってナオが昔から言ってるコトじゃん。『ヒーローになりたい』って」

 周りのヒソヒソ声が大きくなった。唇を噛んで恥辱に耐える。

 なんでもそうだったらしい。幼児の間だけなら微笑ましく聞けるエピソードももう十才でサンタやコウノトリの正体も知っていながらそんなことを言っていたとなれば話は別だ。それが自分だというから少しも笑えない。鼻水を垂らして「ヒーローになるんだー」とアホ面で走っている自分を想像すると赤面を通り越して涙が出てくる。

 初めて聞かされた時は大変なショックだった。馬鹿だと思われるから隠そうと思っていた秘密の遥か上をいくひどい醜態が知れ渡っている。鹿児さんと手を繋ぐまでもなく、その恥部について陰口を囁かれその汚点について後ろ指を指される。

(殴りたい……昔の自分を殴りたい!)

 最も許しがたいのはどういう経緯か実際にヒーローになってしまったところだ。そのせいで今現在こんなことになっている。ヒーローにさえならなければ記憶喪失になることもなく妙な宇宙人に付きまとわれることも無かった。

 怨念に包まれていると横で鹿児さんが小首を傾げた。

「あれ? そう言えば最近言わないね、ヒーローになりたいって」

「今は公務員になりたい」

「えぇっ? 急に変わったね。でもそれはそれで大変なんじゃない? よくわかんないけど」

「痛い思いをしないでいいんだったらどんなことでも頑張る」

 ずっと考えているのはこの先どうやってヒーローを回避するか。けれど一向に答えは思いつかなかった。変身させるために平気で殴りかかってくるあの宇宙人がそう簡単に諦めるとは思えず、今後うまくいかなければ記憶が戻らないままでも宇宙へ放り出されるような気がする。主導権は完全にあちらの手中にある。

「ナオさあ……ヤシ子先生にイジワルされてる?」

 歩きながら黙って考え込んでいたら下から顔を覗き込まれていた。丸い瞳が不安で曇っている。

 されてる。そう答えたいとすぐには思ったものの、それを実際口にすることはできなかった。鹿児さんに心配をかけるようなことはしたくない。何も知らないのなら、このまま知らないほうがいい。宇宙人と付き合えば不幸になるとわかり切っている。なにしろ自分がそうなのだから。

「そうは見えないかもしれないけど、ちょっと他の生徒より仲が良くってさ。それでよく手伝ってるだけだから心配しなくていいよ。……ありがとう」

「うーん、変な先生だけど、優しーのは優しーんだよね」

 学校での宇宙人はまともに校医として過ごしているらしく悪い評判は聞こえてこない。ただ人知れずヒーローごっこを強要しその為にケガを負わせくるだけ。それさえもかつてのヒーローにカムバックを期待してリハビリに協力している献身的な振る舞いと見ることもできる。

 ただ記憶の無い自分だけがそのことに納得していない。ならバグは自分なのだろうか。記憶が戻った時、今こんなことに悩んでいる自分は消えてヒーロー大歓迎な人格に入れ替わるのかもしれない。それは今こうしている自分の〝死〟のように思えて不安だった。

「あー、わっかんねーわー。……鹿児さん、今日も家寄っていい?」

「凛華って呼んでくれたらいーよ」

「うぐ……凛華さん、お願いします」

「んー? なにそれ『さん』って他人行儀。まーいいけどー」


 学校帰りに鹿児さんの家に立ち寄る。これが日課になっている。そういう振る舞いをしても周りから変に思われることは無いくらい親しい間柄らしかった。

 目的はアルバムだ。鹿児さんの両親はこういうことにマメなようで、娘の成長の記録としてたくさんの写真が保管してある。その中に自分の姿もあった。運動会といった学校の行事ごとの他、遊園地へ一緒に遊びに行ったこともあったらしい。マスコットの着ぐるみを挟んで笑っている、自分の笑顔。

(憶えが無い……記憶喪失なら当たり前か)

 自分の過去に触れれば何か思い出すかもしれない。そう思って繰り返しているものの今日もどうやら収穫は無さそうだった。

(別に鹿児さんにアルバム見せてもらわなくても、この町全部が俺の思い出のはずなんだよなあ……)

 この手段自体が間違っているかもしれない。とはいえ、他に方法を思いつかなかった。ショック療法は痛いので嫌だ。

「ナオはじっとしとくの嫌いだから写真とか苦手だと思ってたけど、急にハマったよね」

 ジュースの入ったコップとお菓子を満載した盆をトレイを持った鹿児さんが部屋に入ってきたことで集中が途切れた。曖昧に頷いて、視線を戻す。

「ナオってナルシスト? ヒーローになるんだーって言うくらいだからそうかもとは思ってたけど」

 こうして毎日自分の写真を眺めに来ているのだからそう思われても仕方ない。事実は、自分を好きになろうにも自分というものがわからない。

「いや、今は公務員を目指してるから」

「それってヤシ子先生に憧れたからとか?」

「勘弁してください」

 校医という仮の顔だけならともかく、彼女と接する内容を考えればああなりたいと夢見ることはできない。それを言うならヒーローを志望した動機も理解不能だが。

「俺……なんでヒーローになりたかったんだろう」

 心から不思議に思う。つい疑問が呟きになって出てしまった。幸い鹿児さんは不自然に思わなかったようだ。

「んー? カッコイーからって言ってたじゃん」

 子供らしさしか感じられない答えで何の参考にもならなかった。わかるのは自分がいかにバカだったかということだけだ。

(小学校高学年になってもそんなこと言ってるってヤバくないか俺……それともまさか幼稚園児の頃からヒーローやってたのか?)

 ひとりで考えても不安を膨らますことしかできそうにない。

「私も『わ、まだバカなこと言ってるー』って思ったもん」

 鹿児さんは快活に笑う。悪意が感じられないことだけは救いなのかもしれないけれど、だからといって恥ずかしさで惨めな気持ちになるのは防げない。

(いや……いっそ鹿児さんに全部話しちゃうってのはアリか?)

 今後の人生を考えれば記憶を取り戻して自然に社会復帰をしたい。だがそんな安泰な未来は必ず宇宙人に阻まれる。事情を漏らせば鹿児さんの身に危険が及ぶに違いない。何をされるかは、例えばヒーローにされるとか。

(それは……ダメだよなあ)

 正規のヒーローがどういうものかは憶えていないけれど、わざとケガをして変身するような物を支給する正義の軍団がマトモな神経をしているとは思えない。独りでなくなることは心強くても自分と同じ立場に鹿児さんを巻き込んでまで安心を得たいと思うほどワガママじゃない。それに、そんなことをすればあの宇宙人と同類になってしまう気もした。

「ナオが最近アルバムばっかり見てるのってさあ、もしかして昔に戻りたいとか考えてるってこと? お母さんに相談したら『ちゃんと味方になってあげなさい』って言われたんだけど」

 次々口の中へスナックを放り込みながら鹿児さんが尋ねる。相談を受ける側として深刻にならないよう努めているのか素なのか。

「私は『ナオも悩んだりすることあるんだ!』ってビックリしてて、最近難しい顔ばっかりだから『あ! 今日も悩んでる!』ってビックリな日々が続いてるんだけど。もしかして本当に何か悩んでる? 学校つまんない?」

 とりあえず、心配はかけているようだ。

 鹿児さんを安心させるには彼女が記憶するこれまで通りにヒーロー目指して邁進するのが一番なのだと思う。それは辛い。それにそれこそ宇宙人の思う壺のように思えて選び難い。

(なあ、お前。一体全体どうしてヒーローになりたいなんて発想になったんだ?)

 アルバムの中に収まっている自分に心で問いかけても返事はしてくれない。

「鹿児さんはさ……将来なりたいものとかってある?」

「んー、お嫁さん?」

 気を紛らわせようと思ってした質問の答えを聞いてドキリとする。異性の部屋にこうして堂々進入している親密さの責任として、それを求められているような気がした。周囲からからかわれることさえない当たり前の間柄として、記憶を失う前はそういう同意があったかもしれない。

(そりゃ、正直望むところではあるけどな)

 鹿児さんを見る。ふんわりとした癖のある髪。ぼんやりした眼差し。ルックスはかなり良い。学校の誰にも負けない。母親も美人なので将来も期待できる。記憶喪失で様子がおかしくなっているのに変わらず付き合ってくれているお人好しでもある。今このわけわからない状況でも一応落ち着いていられるのは、彼女存在が安らぎになっている点が大きい。この先どんな不幸に見舞われても一緒に暮らしていれば楽しい家庭が築けそうな予感はした。

 ただしその将来に至っても記憶が戻らなかった場合、その幸せを簡単に受け取ることはできない。そうなる予定だった記憶を失う前の自分から横取りするような形になってしまうからだ。それが決定的な決別になるような気がする。

「まあでも俺たち小学生だし……そういう話はまだ早いんじゃないかな?」

 とりあえず逃げておくことにした。

「えー? ナオが将来のこと聞いたんじゃん。どうせ私はナオと違って将来の目標とかないですよーだ」

 ふてくされて舌を出した顔が死ぬほど可愛くて思わず仰け反った。

(うおわっ、昔の俺スマン!)

 心が揺れる。この際横取りでも構わない、そんな気になってきた。けれど将来結婚するとなると、こうしてアルバムに実在する思い出を共有できないのは寂しい。

「鹿児さん! 俺、頑張るから!」

 必ず、思い出してやるからな、と心の中で続ける。記憶を取り戻す決意が改めて固まった。何もかもに納得する為には、やはり記憶が不可欠だ。

「うん? 頑張るって……公務員の話? それとももっかいヒーロー目指すの?」

「う……じゃあヒーローで……」

 そこに自分がいた以上、残念ながらそこに戻るしかなかった。


 自室の窓から外を眺めた。夕暮れに染まる、2週間過ごしてさすがにもう見慣れた町。

 自分の部屋にも随分慣れた。散乱した漫画やトレーニンググッズ。どうやら小学生なりにヒーローを目指して体を鍛えていたらしい。散らかったままにしている悪癖はそれも一応は記憶を失う前の活動の証だと思えば触れる気になれなかった。遺品、そういう風にも感じてしまう。

 本音を言えば片付けたい。自分の部屋が、それも自分の物とは思えない物が転がっている状態は落ち着かない。

「黄昏が似合う年でもないだろうに、どうした」

 声を聞いて振り返ると宇宙人が学校と変わらない白衣姿で部屋の入口に立っている。消毒薬の臭いがしたので存在には気づいていた。顔色が悪く、ひどく疲れた顔をしている。

「先生がこの町を見ろって言ったんじゃないですか。言いつけ通りにやってるんですよ。素直な良い教え子でしょ」

 この家に両親はいない。さすがに家族相手では記憶喪失を誤魔化せなかったと思うので代わりに宇宙人が同居しているのが良かったのか悪かったのか。

「何か悩みがあるのかな? 主治医としてだけでなく君の保護者としてそういう部分もサポートしなければ親御さんに申し訳が立たない」

 本来ここで一緒に暮らしているはずの両親は、宇宙の不思議な科学力によって記憶を操作され別の場所に住んでいるらしい。鹿児さんのアルバムを活用すればこの町から探し出すこともできるかもしれないが、会ったところでお互いに記憶が無いのでは話にならない。

「今の俺の状況で悩みが無いわけないでしょうが。っていうか、親の記憶をどうにかする技術があるんだったらそれで俺の記憶を戻せばいいでしょう?」

 そうすれば話が早い。にも関わらず、宇宙人はフンと挑発的に鼻を鳴らした。

「教えたはずだ。私が君に戻したいのは記憶ではない。ヒーローの心だ。痛みを恐れず己の敵に立ち向かう強い意思、何よりもその覚悟が欠けていれば記憶だけが戻ったとしても意味は無い。必要なのは宇宙の正義を守る戦力であって……外家ナオという個人ではない」

「多感な子供にそんな個人をないがしろにするようなセリフを吐くべきじゃないと思います。情操教育に良くない。俺がグレて無軌道な若者になってもいいんですか?」

「そういう鬱屈や悩みは運動で発散しろ。保健体育の分野だな。そういうことを、昇華と呼ぶ。体を動かせばヒーローとしての鍛錬になっても丁度良い。なんだったら相手をしてやろう」

「……いいです。一人でやります」

 にんまり笑って手招きする宇宙人にうんざりして返す。

 宇宙人はヒーローの助手という立場で、敵の解析等が役割だと自称した割りにやたらと肉弾戦に長けていて、一度カッとなって反抗した時にこっぴどく叩きのめされた。弾みでケガ人マンに変身しても戦局は覆らなかった。

「非戦闘員などというか弱い理屈が通じるほど宇宙は甘くはない。だから、私にも敵わないうちは君を宇宙に戻すことはできないな。君には記憶よりも戦う心が必要だ。経験はあとからついてくる」

「別に宇宙には戻りたくないんですけどね。欲しいのは記憶だけです」

 記憶を失ったままではこの町に溶け込むことができない。今の生活を続けてもアルバムを見せてもらっても、何もピンと来るものが無かった。だったら自分を模索して演じるのはもうやめて、いっそ記憶喪失であることを打ち明けてしまいたかった。それで楽になれる。ニセモノを辞められる唯一の選択だ。

 だがそれは宇宙人に禁じられている。ペナルティで鹿児さんが脳改造されてしまうようなことは避けたい。

 逆らえないのだから現状は言いなりになる他にすることが無いとも言える。即ち、立派なヒーローになること。とは言えそれで記憶が回復するとは期待できず、なによりこの宇宙人そのものが信用できない。

「どうした。そうしてじっとしていても何も進展しないぞ。なんだったら強制的にでも体を動かさせてあげようか」

 自由を獲得する為にはいつかこの宇宙人と対決しなければならない。その為にも、鍛錬は積んでおいて無駄にならない。

(待てよ、方法はもう一つあるか)

 閃きが走った。考えるうえでは通る理屈だ。

「よしっ……それじゃあお願いします」

 振り返ると宇宙人はゆっくり首をねじって既に準備運動を始めていた。余裕から笑みが出ている。それを許すほどの実力差がある。

(だからこそ通じるかもしれない)

「やる気はまんざら、無いわけでもないようだな。

私は君の肉親じゃないからこれはDVにも当たらないし、ここは校内でもないので校内暴力にもならない。そもそもこの星で人の道理に縛られるつもりもない」

 両腕を小さく畳んだかと思うと一瞬で間合いを詰められ、目の前に火花が散った。後ろへ仰け反って窓から落ちそうになりながら、血が伝う熱で鼻を殴られたと知る。ケガ人マンに変身する為に何度もこうして殴られているというのに一度も見切れた試しが無い。

「イタイ! 少しは手加減ってものを――」

「加減をしないのも同じ理由からだが、更に主治医として君のことを思って忠告しておく」

 部屋へと引っ張り戻されたかと思いきや胸倉は掴んだまま額をぶつけて凄まれる。

「君の方こそわざと手を抜いてさっぱり見込みが無いように演じれば解放されると思っているのなら、それは勘違いだ。その場合私は宇宙ヒーローの痕跡を君ごと抹消するから君は助からない」

 狙いは完全に見透かされていた。

「くそっ! なんでバレるんだ? 手を抜くタイミングなんか無かったっつーのに」

「怖気づいて逃げようとする弱虫の匂いがプンプンするからさ。そういうのは隠そうと思っても伝わってしまうものだ」

 戦力として宇宙に送り出されるのを避けたいだけで自分としては特別臆病風に吹かれたつもりはなくとも、やはり男としては情けない風に言われるのは面白くなかった。かと言って急にやる気が出てくるわけでもない。宇宙ヒーローに相応しくない取っ組み合いの喧嘩だろうと恐いものは恐い。

 血が垂れないように鼻をつまみながら反論する。

「自分の身を護りたくて危ない目に遭わないようにするのが弱虫なんですか?」

「言いたいことはわかるが、一度でもヒーローを志した人間が口にするセリフではないな。

痛いのは嫌か、恐いのは嫌か。それはヒーローを諦めてしまうほどのものなのか。あんなになりたがっていたヒーローだった。だというのにそのザマはなんだ!」

 額が触れるほど間近で凄まれる。その瞳には怒りが燃えていた。

「だってそれは……俺、憶えてませんから」

 反論が震える。情けないことに涙ぐんでいた。

「忘れているからこそ、私は君に問いたいんだよ。ヒーローとして力を持つものの責任とは何か、それを果たすことの意義とは何かを。

……すまない。つい興奮してしまった」

 宇宙人はシャツの襟を整えてから一歩下がる。

「難しくて何言ってるかわからないです」

 鼻から手を離すと血は止まっていた。注射をされていないので変身もしていない。

「君は記憶を失ったが、ヒーローとして力を奮うことは今でもできる。守らなければならない平和も宇宙では脅かされ続けている。それでも君の行動は変わるのかどうか、というのが問題だ。怖いから、痛いのが嫌だから、そういう回答では納得できないんだよ、私は」

 話す宇宙人は暗い顔をしていた。疲れが伺える顔色と相まって荒んでみえる。誰かが助けなければそのまま壊れてしまいそうに儚い。

「先生、もしかしてこの星って悪い宇宙人に狙われてたりとかするんですか? それで先生は俺を急いでヒーローに戻そうとしてるとか」

「侵略する価値がこの星に無いから、そういう心配はしなくていい。しかし危機が直近に迫っていないからといってゆっくりしていていいという道理にはならない。焦っているように見えるかもしれないが、私は君の主治医だ。君の復調を最優先で考えるのは当たり前のことだ。

さあ、それより早く外へ出なさい。その傷の治療をしよう」

 落ち着いた声のトーンに、黙って従いそうになって慌てて踏み留まる。

「いや待って。ケガの治療をするのにどうして出なきゃなんないんですか」

「一度変身しないと傷を治せないだろう? おっと、その前に注射だな」

「普通に傷の治りを待つっていう考えはないんですか!」

「宇宙は待たない」

 やはりこの宇宙人は信用できない。


 反論しても聞いてもらえず意地を張れば叩きのめされるので渋々別室に移動し椅子に座らせられる。手首を上へ向けて右手を前へ出し、顔を逸らしてぎゅっと目を瞑る。

「なあ君、さすがにそこまで恐がられるとやりにくいのだが」

 慎重に瞼を開いて首の向きを戻すと宇宙人は呆れ顔をしていた。肘の内側を平手で叩く手が止まっている。

 ケガ人マンに変身する下準備に宇宙の不思議物質然とした光る液体を注射される。体内にココロゲンとかいう物質を通わせることで変身が可能になるらしい。これがとても苦手だった。

「いやだってそりゃあ怖いですよ。それいかにも人体に悪影響がありそうじゃないですか。なんか光ってるし。注射が嫌なわけじゃありません。言わば改造人間の心境ですよ」

 シャツの裾をつまんで脂汗を拭うと宇宙人は注射器を空のものに持ち替えた。

「なら採血だけしようか」

「クぅ~~――」

 すかさず首を捻って力いっぱい目を閉じる。チクリと来るのを待ったけれど、乾いた笑いが聞こえただけだった。

「まったくもって酷いな。いつも無理矢理やっていたから、君がここまでとは思わなかった」

「いや、だって血を抜くとか拷問じゃないですか!」

「わかったわかった。仕方ない、注射に代わる手段を用意しておこう」

「本当ですか? 約束、絶対ですからね! 破ったら二度と変身しませんよ!」

 心の負担がぐっと軽くなった。これでひとつ痛い思いをしなくて済む。

「でもできるんだったら最初からそうしてくださいよ。変身スーツみたいな変なのがあるくらいなんだから、こんな古臭い注射器に頼らなくても何かあるんでしょ? 全然憶えてないけど。

ていうかケガ人マンじゃなくって、ちゃんとしたスーツ貸して下さいよ。ケガしなくても変身できるやつを」

 例え注射器の負担が無くなったとしても変身するには結局痛い思いをしなければならない点は何も変わっていない。

「教えたはずだ。君は修行中で、苦痛を避けては進めない。君の言う――ケガ人マンスーツもそういう目的の物だと、何度もした説明だ。注射とケガ人マンが嫌なら今すぐヒーローとして宇宙に行くという手もあるんだが、君はそれも嫌がるだろうからな」

 当然、そう思いはしたものの、寂しそうな顔で見つめられると自分が期待を裏切っていることがわかって申し訳ない気持ちになった。期待自体不本意でとても従えないものだといっても、そう拒絶する自分が正しいと言い切れない。

 戦う力と責任。鹿児さんが言う記憶を失う前は自分からヒーローになりたがっていた。ならこの誘いには大喜びで飛びつくのが本来の反応だと想像はつく。

(けど……今の俺は嫌なんだよな)

 もしかするとその違いこそが記憶が戻らない原因なのかもしれない、とぼんやり見当をつけている。詳細は教えてもらっていないが、事故があって記憶喪失になったと宇宙人には聞かされている。事故というからには痛いことくらいあっただろう。その体験が恐怖心を生んで記憶を封じているとしたら。

(それが俺の痛がりの秘密か?)

 我ながら注射を嫌がるようではヒーローをやれていたとはとても思えない。だからきっとそこも以前は違っていたはずだ。

 きっかけとなった事故の話を聞けたら話は早い。しかしこの宇宙人は何かと秘密主義で、「自分で思い出せばいい」と言ってほとんど何も教えてくれていない。記憶喪失だということと、ヒーローをしながらこの町で生活していたこと以外は漠然とした宇宙ヒーローについての説明だけだ。改めて質問したところで教えてはくれない。

 それに、本音では真実を知るのが恐かった。記憶を取り戻すのが怖いと言い換えてもいい。全て思い出したら今の自分はどうなってしまうのか。別人としか思えない自分に戻ることは、別人としか思えない自分を消してしまうことのように思えた。

 このまま記憶が戻らなくてもヒーローごっこに慣れてしまえば事情もわからないまま宇宙へ送られる。ヒーローとして芽が出なければ地上で酷い目に遭い続ける。

「もう注射はしまったぞ。いつまでそんな顔をしているんだ」

「いや別に、ただ悩んでるだけです」

 どうにかしてその掌の上から抜け出す方法を考えているなんて言えるわけがない。

「そうか。悩みは運動で発散するのがいいぞ」

 言い終わるとすぐさま手首に注射器が突き立った。光る液体がぐいと注入される。

「ギャア! 注射しないって言ったのに!」

「宇宙ではすぐ事情が変わる」

 自分の身体に異物が入り込んでいる光景に気が遠くなりかけたかと思うと頬を平手で張り飛ばされ、すぐに意識はハッキリした。

「痛い痛いイィッタァーイ! これ折れてる絶対折れてるぅー!」

「平手で何が折れる。歪んだ性根がしゃんとするくらいだ」

「注射針が折れて俺の心臓が八つ裂きになる!」

「君は本当にしょうがない奴だな」

 ヒリヒリ痛む頬を撫でると既に絆創膏に覆われ、ケガ人マンに変身している。

「ああもう! いっつもこうだ! またこうだ! 性懲りも無い宇宙の暴力反対!」

「グズグズと見苦しい態度を見せられるこちらの気持ちも察してくれ。君はヒーローなんだぞ。言いたいことがあるなら鉄拳で来い」

「反対の声が聞こえないのか暴力! ケガ人マンは君に反対する!」

「そのアドレナリンで我を失う癖を直しなさい」

 また鼻先を殴られて、頬を張られる痛みが走った。筋違いの痛みがショック療法になって記憶が呼び覚まされたらと、せめて願わずにはいられない。

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