Ⅱ 進歩なくして
「それは災難だったね」
他人事のように言う彼女に、ぼくはわざとらしくため息をついた。「生きた心地がしませんでしたよ」なおも、あははと笑う彼女を恨めしく見る。
「でも、ほんとにあたしが居た頃もよくあったよ。あそこは」
そうなると、目の前の見るからに華奢で、箸より重いものを持ったことがないと言われてもあるいは信じられそうな薄倖の少女も、あんな無骨な暴漢を取り押さえたりしていたのか――
「……なんか、失礼なこと考えてない?」
「え、いや。総務ぐらい大きい組織だと問題も多そうだな、と」嘘です。
「言っておくけど、総務委員会の全員が全員ミツキさんみたいに、その、あれだけ強いわけじゃないからね?」どうやら何を想像していたのかバレているらしい。
ぼくの顔色で図星と見抜いたのか、ヨスガは呆れたように吐息した。ほんわかしているようで案外にこういうことに鋭いと、ぼくはここ数日ヨスガと接してわかってきた。対して我らが委員長は、ほとんど印刷室に来ていないのでそもそも接点を持てないのだが。
「あたしはああいう……戦ったりするのはてんでダメで。だからシオリちゃんの側近があたしからミツキさんになって、よかったと思ってるんだ。あたしが評議会に申請して、自分から総務を脱けたのも、どんどん荒事が増えて、そっちの面で力不足を感じたからだし……」
ヨスガは懐かしそうに目を細めていた。「ミツキさん、すごいでしょ?」ぼくは肯く。
「彼女は《二条》――風紀委員会から、シオリちゃんの護衛のために、あたしと入れ替わりで今年から総務に出向してる、借り物の人員なんだ。武闘派揃いの風紀の中でも特に優れた、指折りのエリート。シオリちゃんはいつもミツキさんがあたしとよく似てるって言うけど……何にもできないあたしなんかとは、全然違うよ」
ヨスガの声は少しずつ力を失っていた。けれど無理して虚勢を張っているように聞こえた。印刷室は俄に静まりかえる。ぼくは気の利いた言葉なんか何一つ思いつかなくて、結局そのまま手持ち無沙汰に席を立った。
「ヨスガさん。今日も仕事ないんですよね?」彼女が肯いたのを見て、ぼくは荷物をまとめていく。「昨日は疲れたので、今日は早く上がらせてください。寮に帰って寝たいし」
「あっ、うん! 待って、あたしも準備――」
「ぼくは、ヨスガさんが何にもできない人だとは、思いませんけどね」
「……?」準備をしていたヨスガの手が止まる。
「現にぼくは、あの日ふざけた先輩に拉致されて、ヨスガさんがいなかったらいま、どうなってるかわからないし……いまこうして一緒に仕事して、いろんなこと教えてもらって……ぼくも、それなりに楽しいし」
ちっとも整理がついていなくて自分でも何が言いたいのか、よくわかっていないままだけど。
「少なくとも、ぼくにとっては――ヨスガさんは大事な先輩ですよ」
荷物をまとめ終えて印刷室を出ようとして、ヨスガを振り返った。
「帰りましょうか、ヨスガさん……あれ?」
さっきまで帰り支度をしていたヨスガは、どこか惚けた顔をしている。ぼくは妙な心地がしながらも、もう一度催促するつもりでヨスガを呼んだ。
「……これから、フルーツタルトでも食べに行こっか」
とびきり甘い、蕩けた声。
「……え、ほんとだったんですかその話」なんとか平静を装った言葉に、ヨスガは肯いた。
「ほら急いで! 置いて行っちゃうよ!」彼女はやけに楽しそうだ。
「ちょっ、待ってくださいよ! さっきまでのんびりしてたのに……」
ぼくの荷物も拾って駆けだしてしまうヨスガを追いかけて、ぼくは印刷室を出る。
なにはともあれ彼女の顔はようやく、生来の明るさを取り戻していた。ぼくはそれだけでも喜ばしいことだと、妙な眠気の靄に包まれた頭でも、はっきり思っていた。
私が凡庸な人間であることは、私が一番よくわかっている。だからこそ私は自分の足りない才を、能力を補うためにどんなことでもしてきた。時には自分より優れた非凡なものに仕える道を選び、時には気の遠くなるような努力を重ねて実力を磨こうとしてきた。その結果がいまのこのポストであるのだから、私は自分を誇りに思っていいのだ。もちろんそのはずだ。
「――おい、例の件はどうなっている」
低い声でいかにも威厳のあるように振る舞う。これこそが私の人心掌握術。部下もこの私の威光に平伏し、恭しく傅いて頭を垂れ――
「例の件って何です? つーかおれら、備品の整備で忙しいんですけど」
「えっ」おかしい。別のやつにも聞いてみるか。
「お、お前はどうだ? 例の件だ、例の!」
「サーセン、あたしもちょっとなに言ってるかわかんないッス。え、てかあたしお腹空いたんですけど。ノゾミちゃんなんか食べもの持ってない?」
「ノゾミちゃんって言うな!」一発軽く頭を小突く。「あと、お芋ならあるから食べな」
しようがない部下だ。しかし腹を空かせているというなら分け与えてこそ真のリーダー。
「てて……お、あざーす。ノゾちゃん芋だー、へへ」
「私が芋みたいに言うな!」ぺしっ。
「えー、ノゾミちゃんの芋なんかパサついてて微妙じゃね?」
「おいそんなこと言うならお前にはもう芋あげないからな!」ぺしっ。
「うまうま……うっ! い、芋が……のどに……!」
「そんな一気に食べるからだ馬鹿! ほら水、水飲め!」さすさす。
「おれも腹減ってきたわ。ノゾミちゃん芋もらうね」
「しょうがないな……ほら、お前もゆっくり食べろよ?」ぽいっ。
「うぅ……ず、ずび、ノゾぢゃんありがど……」
「ほら、気にするな……おい。口と鼻を拭け、汚いぞ!」ふきふき。
いや、なんだこれちょっと待て。
――どう考えてもおかしい。私のリーダーとしての威厳は? 部下からの敬意は?
思えば特務の委員長を務めるようになってから、一度として自分のリーダーとしての尊厳を感じたことはなかった。簡単なことだ――私はこれまで必死にその事実から目を反らしていただけなのだ。なんたる不合理。なんたる無様。
私は《市ノ瀬》――特務委員会を率いる首席であるというのに!
「おい、貴様らぁ……」私の押し殺した声に、「はい?」「なにさ」のんきに答える部下ども。
「例の件と言ったら、出版委員会の件だろうが!」
口々に「あ、そうだった」とか「そういえばそんなこと言ってましたね」とか言い出す部下たちに呆れつつ、私はナイフを取り出した。先代の委員長から受け継いだ愛用のナイフだ。切れ味はもちろん、ぶれない軸や軽い刀身は完全に手に馴染んでいる。
「あの女……いまは《篠宮》だったか……絶対に、一度は私の手で……ぎゃふん! と言わせてやらなきゃ気が済まない……出版委員会だと? ふざけるのもいい加減にしろ……」
「うわ、やっぱノゾミちゃん怒ってるよ。バタフライナイフちゃかちゃかやってるし」
「そういえば風紀に居た頃から、そうとう私怨あるみたいだしね~」
そうだ。私とあの女が初めて出会ったのは風紀委員会――ヤツの憎々しい白服姿を、ヤツの忌々しいあの顔を、思い出すだけで虫酸が走る!
「手段は選ばない。ことによっては暴力に訴えても構わない……」
執務室の窓から雨の降り続く空を見ながら、呟いた。
《二条》にも《三枝》にも、《梧桐》にだって邪魔はさせない。これは私のやるべき仕事なのだ。あの憎い《篠宮》の独断専行を、ヤツの得体の知れない目論見の出鼻を、私の手でくじいてやるのだ。私は確かに浅学で、非才で、凡庸で、能のない女かもしれない。それでも――
学園の治安維持を司る特務委員会の、そして私の《市ノ瀬》としての面子にかけて。
「――我々、特務委員会はどんな手を使ってでも、出版委員会を潰す」
夜中に目を覚ました。どうやら寮に帰ってすぐに寝落ちて、そのまま眠りこけてしまっていたらしい。ぼくは水飲み場まで出て口をゆすぐと、適当に散歩することにした。寮の玄関から外に出て、あてもなく歩いて行く。夜の学園はまるごと静謐だ。プールの水中にいるみたいな錯覚さえ覚える。広大な並木道を抜けて校舎に出た。
こうして歩くことは嫌いじゃなかった。歩いている間は何も考えなくて済むから。あるいは歩きながらの考え事は、不思議と穏やかだから。地面のコンクリートは少し濡れていた。寝ている間に雨でも降ったのかと、空を見上げて思いつつ、校舎の中庭に足を進める。
巨大な校舎を中庭から眺めると、学園に来てからの一年間がおぼろげに思い出された。第四学園はかつて日本と呼ばれた国家の支配していたちっぽけな島の、最北端に位置している。ぼくはそのことを知っている。日本が巨大な覇権国家の影響を受けながらも、けっして単民族の閉鎖された文化を固持して失わなかった、ある意味で特異な国家であったということも。
学園はその国家の、大学と呼ばれていた施設をもとにして作られた。第四以外のほかの統一教育機関もほとんど同じ、かつて巨大な教育機関だった場所。そこに集められた子供たちは、画一されたカリキュラムによって成熟する。生まれた環境や親に影響されない、純粋に子供の
教育のためだけに整備された施設。モラトリアムを経て、労役や公共への奉仕を学び、財産の共有や生産手段の共有の何たるかを学べば、彼らはすぐに統一政府のもとで生産し分配された財産で生きる、ひとりの市民となる。そこには、本当の平等がある。
春先とはいえ、シャツ一枚で外にいると身体が冷えた。そろそろ寮に戻って、明日のために寝直そう。中庭を一回りして戻ろうとすると、茂みの中に何か見えた。猫か何かかと考えて、ぼくは暗い草木の隙間を覗き込んだ。何の気なしに。
はじめは水たまりができているのだと思った。雨上がりだし、そこに布の塊か何かが落ちていて、雨水をめいっぱい吸い込んでいる。そう思った。
だがそこにあったのは、暗い色の血に汚れて蹲る、人間だった。
「ッ、あ……」そうとわかった途端に呻き声が聞こえる。ぼくはすぐに駆け寄ろうと思った。あるいは一刻も早く逃げ去りたいとも。身体はそのどちらにも反して、あるいはそのどちらも相克して、ここから一歩たりとも動こうとしなかった。
かろうじて足踏みして、何か割れる乾いた音がした。慌てて足下を見る。小さな枯れ枝を踏んだらしかった。
「きみ、は……」ぼくに気付いたのか、倒れている人が顔を上げる。その顔に、ぼくも見覚えがあった。「……先輩?」彼女は他でもない、ぼくの所属する委員会の代表だった。
「私と、したことが……すこ、し、しくじった」声は弱々しい。
「な、何やってるんですか……!」ぼくも動転して声が裏返る。
彼女はよく見ると、右腕を抱くようにして抱えている。出血は肩が特に酷い。灰色の一般制服が黒く染め上がっている。その中心には、布が裂けて真っ赤な肉が見えている。まるで尋常とは思えない、大きな切り傷だった。
それを見た途端、弾かれたようにぼくは彼女に駆け寄った。
「……い、医者、呼ばなきゃ」しかし、衰弱した彼女のものとは思えない強い力で急に腕を掴まれて、ぼくは言葉を失う。
「自分で……できる。私がここで、無様にもこうしていることは、できる限り……誰にも、知られたくないんだ」
ぼくは自分が過呼吸に陥りかけていることに気付いて、息を止めた。そして改めて深呼吸すると、そっと言う。「……ぼくにできることは?」
彼女は相変わらず弱々しいけれど、ようやく出会ったときのような不敵な顔をした。
「近くに、セーフハウスがある……アジトと言うには、人も、設備も足りないが」
ぼくは彼女の身体を背負って、歩き出した。さっきまでの余裕はもう、ぼくにはなかった。
「そこの救急箱だ。包帯と、創傷被覆材……あと水を汲んで持ってきてくれ」
部屋に入ってすぐ先輩をベッドに横たえると、ぼくは言われたとおりのものをかき集める。セーフハウスとやらは想像していたのと違って、何の変哲もない寮の一室だった。汲んできた水を渡すと先輩は自分の傷跡に水をかける。固まった血がベッドのシーツに流れ落ちて、彼女はぼくの名前を呼んだ。ぼくは傷の手当てを手伝った。
「……死んだ生徒の部屋なんだ。ここは」
不意に彼女は口を開く。時々痛みに顔を引きつらせながらも、どうしても伝えなきゃならないことのように。息を振り絞って。
「死亡報告を私のところで止めて、総務の部屋の接収を遅らせた。だから死んだ連中も、ずっと私たちの力になってるんだ……無駄死にしたヤツなんか、一人だっていないんだよ」
「死んだ、って……」本当に? ここで、この学園で?
自分に言い聞かせるような口調だった。「そうだ。もう何人も、何人も何人も死んでる……」罪を刻みつけるように。罰を与えるように。
「だから、私は戦ってる。自由を勝ち取るために――希望を取り戻すために」
思わず口走った。「戦うって……」いったい誰と。その瞬間、先輩の目がぼくを捉えた。自然に背筋を緊迫させられてしまう。
「《二条》――風紀委員会の連中だよ」
「……風紀の人たちが、生徒を殺してるって言うんですか?」
俄には信じられないことだけど、ぼくの目の前にはこれだけの怪我を負った先輩がいる。
「誰も知らないだけだよ。反体制派だと判断されれば、生徒は秘密裏に排除される。個籍は労役中の事故として抹消。労働者が集会すればそれだけで、学生自治の転覆を狙う、革命勢力扱いだ。集会が見つかれば、力なき一般生徒などは簡単に粛正されてしまう」
――脳裏に三枝委員長の言葉が鮮明に蘇った。
『当方も勤勉な生徒の一人を、粛正などしたくはないのだが』
あの温厚に見えた三枝シオリも生徒を、罪のない子供たちを、殺しているのか?
「三枝も二条と変わらないさ……表立っては暴力による自治を肯定しないが、風紀委員会の活動を黙認している時点で同じだ。積み重なっていく死体を見て見ぬ振りしている。犠牲を認め、易きに逃げる。だが我々は、本当にこのままでいいのか? 働いても働いても楽にならない生活を、求めても与えられない現実を、少しでも変えようとすれば、巨大なシステムに人間ごと圧殺される理不尽を! 受け入れて生きることが人間なのか? 目を反らし従うことが人生なのか? ――断じて、違う、はずだッ!」
彼女は血を吐いていた。ぼくは慌てて止めようとするが、先輩は聞こうとしない。
「我々は、戦わなきゃならない……革命が、新しい渦が必要なんだよ……」
そう言ってなおも怒りを吐き出そうとしていた先輩は、突然ベッドにぶっ倒れた。
ぼくは窒息しないよう先輩を横にしてから、その顔を眺めた。まだ新しい血に汚れて、普段は飄々としているくせに、みっともないほど必死な顔。怒りだけで、憤怒だけで視線の先をすべて焼き尽くしてしまうような先輩の姿に、不思議とぼくの脳内に鎌首を擡げたイメージは、たったひとつだった。恐ろしいほど切実で、危急で、本能の中枢に訴えかける声。
――この女は、危険だ。
瞬間、内心に疑問が浮かび上がる。危険? 何が危険なんだ。知らないうちに手が震えている。先輩を傷つけたのは風紀委員たちのはずだ。危険なのはむしろ、風紀委員のはず。それなのにいまのぼくには、目の前の女が、何物よりも恐ろしい脅威に思えて、仕方ないのだ。こんなにも弱々しく、呼吸さえ浅い女のことを、ぼくは震えるほどに恐れているのだ。
「……先輩、あなたは、いったい何者なんですか……」
まるで凍り付いたように、血に汚れたベッドの側で、ぼくは一歩も動けないままだった。
ぼくが出版委員になってから一週間が経った。携帯端末の液晶に照らされて、ぼくはこの世で一番退屈な時間を過ごしている。印刷室の椅子は固かった。委員長の執務机の椅子だけは、高級そうな柔らかいクッションを備えている。ぼくはそれを時折恨めしく見遣りながら、相変わらず印刷室に顔を出さない、椅子の主のことを考えていた。
「あ、そういえばさ」ヨスガの何気ない声に振り返る。「何です?」
「あのあと、委員長に会えた?」
端末を弄る手を止める。ぼくはなるだけ平静を装って答えた。
「見てませんけど。というか、あの人……何やってんですかね」首を傾げる。
「だからねー、あたしは全然知らないの。教えてくれないんだよ、あの人」
この話は、実は初めてじゃなかった。何度さりげなく聞こうとしても、同じ答えが返ってくる。だからヨスガは、嘘をついていない。そう、思いたい。
「それにしても――暇だねえ」ヨスガは気の抜けた溜め息をつく。気付けばぼくも釣られてしまっていた。気疲れするようなことが多かったからだろうか。実はしばらく不眠気味だ。
「まともな仕事が欲しいですよ。それこそ、総務みたいにトラブルが舞い込んできたりとか」
「あはは、あたしはやだなあ。だって危ないの怖いもん」
相も変わらずほわついているヨスガを横目に、今日も委員会活動が終わろうとしていた。しかし、これはこれで悪くない。ぼくは盛大なあくびをして――
「危ないッ、伏せて!」悲鳴が空気を劈いた。同時に地面を転がるからころという乾いた音が耳に届く。いやだ。いやだいやだ。これじゃまるで。
煙が噴き出る間抜けな音がした。途端に目が焼けるように熱くなって、咽に噎せ返る刺激を感じた。痛い、苦しい、耳鳴りがする、大きな足音がいくつも、いくつも近付いてくる。
「――もう一人はどうした、ああもう、構わん! 拘束しろ!」
まさか、これは人生で二度目の。いやこんなに短いスパンで起き得るのか。とにかく逃げなければ、と思った瞬間、不自由な視界に加えて痛みに意識をかき乱されていたのか、後ろから腕をねじり上げられてあっさりぼくは前のめりに倒れる。固い床に頭をぶつけて、思わず涙目になる。頭がじんじんと響く。前後も左右もまるでわからなくなる。
「――おい。お前は出版委員だな」さっきと同じくぐもった声が、ぼくの名前を呼んだ。ぼくが痛みで答えられないでいると、ぼくを床に押さえつけている男が腕を引っ張って顔を上げさせた。中途半端に腕だけでつり上げられて、身体は立ち上がれないまま。
「なんとか言いなさい。さもなくば、安全は保証できない」
顔をなんとか見てやろうと首をねじって、涙にまみれて充血しているであろう目を無理やりこじ開けると、そこにはまっ黒の、気味の悪い怪物がいた。
「ああ、もう鬱陶しい――なんで《篠宮》のヤツ、居ないんだよッ……!」
乱暴に窓が開けられる音がして、ぼくは身を竦めた。直後、髪を引っ張られる強い痛みが頭皮を走った。思わず目を開ける。怪物が顔の皮を剥いで見せてきた。
「覚悟しなさい、反乱分子……あんたみたいな小物、粛正する価値もないけど」
化け物に見えていたのは防塵マスクだった。その顔は暗い部屋の中でも、前髪を掴まれて、額をつきあわせるほど近付けられているから、わからないはずない。小柄な顔はぼくを侮蔑に満ちた表情で観察していた。
「私が誰だか、わからないって顔ね……けほ、けほっ、ちょっとまだ煙残ってるじゃないの! 誰か量間違えたんじゃない!?」
「えー、装備とかぜんぶノゾちゃんが決めたじゃないッスか!」
うるさい、とよそ見して毒づいてから、彼女は短いナイフを取り出した。その刃渡りを向けて、ぼくのほうを改めて睨み付ける。
「どうしようもない小物のあんたにも、仕方ないから教えてあげるわ。私は《市ノ瀬》――特務委員会首席、市ノ瀬ノゾミ。あんたらのしみったれた潰れかけの委員会を、完膚なきまで潰してやる、女の名前だ」
そう一方的に宣言すると、彼女は高らかに宣言する。聞きたくなかったその一言を。
「現在より評議会規定に則り、貴様の身柄を特務委員会が確保する。その身体の安否はこれより、委員長である市ノ瀬ノゾミに一任される」
そしてぼくの目を冷ややかに覗き込み、囁くように言った。これがぼくの人生の、記念すべき二度目の拉致の顛末である。
「《篠宮》は何処に居る――さっさと知ってること、ぜんぶ吐きなさい」
焼けた瑞夢と鉄の墓標 くすり @9sr
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