焼けた瑞夢と鉄の墓標

くすり

Ⅰ 停滞とは死である

 先輩の話をしよう。

 こういうとき、ふざけた人間の話をした方が面白い。ぼくのようなつまらない凡人の話をしても、いまいち盛り上がりに欠ける。そういう意味で先輩は語り種にうってつけの、とびっきりふざけた人間だった。かといって奇人変人の類いだったかといえば、特段そういうわけじゃない。確かにぼくたちの物語にはそういう、見るだけでオカシなやつらだっている。でも、先輩はそのうちどんなタイプにも当てはまらなかった。

 きみの考えていることなんてお見通しなのだ、と彼女はよく言っていた。ぼくはそれを話半分に聞き流していた。先輩は自分のことを壊れた魔法の杖だと言った。それもごく真面目くさった顔で、まるで信じてくれと懇願するような声色で。哀れっぽい目がたまらなくいやだった。

 ぼくは先輩のことが、苦手だったのかもしれない。

 今更こんなことを白状したところで、べつに先輩が墓穴からよみがえって「そうか、けれど私はもう知っていたよ」と笑うこともない。そのはずなのに、ぼくがどうしてもこの告白を口に出して言えないのは、墓でも暴かない限り先輩の不在を信じ切れないからだ。

 ぼくは先輩のことをずっと忘れられないだろう。こんな陳腐な言葉で表せるとは到底思えないほどの感慨を、ぼくは先輩の亡骸に、あるいはあの印刷室の古ぼけた執務机に、捨て忘れてしまったのだ。これからの生涯いつだってぼくは死者の目にさらされ続けることになり、死を迎える直前まで生の意味や正しさ、過ちを自らに問い続けるだろう。

 それはもはや呪い以外の何物でもない。


「私は人の心が読めるんだよ」という言葉に、ぼくは苦笑を返すしかなかった。そして彼女もまた不服そうに鼻を鳴らす。どうリアクションすればいいのか。信じるとか信じないとか、そういう問題じゃなかった。ぼくはまずもって彼女について、ひとつも知らなかった。

 拉致されたことがあるか。たいていの人間はノーと答えるだろうし、たった五分前までの自分もそう答えたはずだ。あるいは、なんてふざけた質問なんだと笑い飛ばしたかもしれない。しかし現在のぼくにとってはもはや、まるで笑い事じゃなかった。苦し紛れの「あなたは誰なんです」という質問はいささか要領を得なかったかもしれないが、動転しきりの凡人にそこまで求めるのは酷だろう。とにかくぼくは、わけがわからなかった。

 彼女はガラス玉のように澄んだ瞳をぱちくりすると、うんうん唸り始めた。かと思えば不敵に笑うと「きみのジョウシ」と言った。ジョウシ、じょうし――「上役とかの」ノータイムでふんふんと肯かれた。なるほど上司か。この人がぼくの。ふうん。

 新手の嫌がらせか。

 後ろ手に縄で椅子と拘束されているせいで、まるで身動きがとれない。

「成績優秀だそうだね」唐突な言葉。ここが進路指導の席なら多かれ少なかれ嬉しくもあろうが「自分でもオカシイと思いますよ」と皮肉る。いや、ここがどこでも本当はちっとも嬉しくないだろう。だって勉強した覚えも、努力した記憶もないのだから。

 彼女はまたニヤリと笑った。これからいっぱいに満たされたボウルをひっくり返してやるとでも言いたげな、なにかとんでもない悪巧みをしているような、いやな顔。

「その能力を、これから、我が委員会で活かしてみる気はないか」

「は?」

 こいつは何を言っているんだ、と思った。「難しく考えないで結構。ただ――そう、勧誘だ」また怪しげな言葉。「何かの宗教なら、お断りです」

「委員会と言ったろう。私とともに、この学園のために奉仕しないか、と誘っているのだよ」さっきから勝手なことばかり言うが、肝心なことはずっとわからないまま。しびれを切らしたぼくは、単刀直入に尋ねることにした。

「どうして、ぼくに」

 その質問にはすぐに答えが返ってこなかった。彼女はじっと顎を撫でたり、前髪を指でもてあそんでみたりして、ぼくの質問にいったいどう答えるべきか考え込んでいるように見えた。あるいは答えなどは質問を知ったその瞬間からとうに決まっていて、その本当の答えをぼくに話すかどうかに迷っているのか、いずれにせよ彼女はしばらくの沈黙を場に落とした。

 じりじりとさっきから耳の中で聞こえる妙な音のせいで、ヘンになりかけている時間と空間の感覚の中で、ぼくだって答えをじっと待っていた。彼女は何度か口を開こうとしてやめていたが、とうとう最後に唇を舐めて、何か言おうとする。ぼくは唾を飲んで――

「――――きみは」

「こんなところで何してるんですか?」

 出し抜けに、耳を疑うほど可憐な声がアトモスフィアを破壊した。ぼくの困惑をよそに、さっきまでぼくの目を見つめ続けていた彼女もようやく顔を上げて、ぼくの背後を覗いた。振り向けないままのぼくには見えなかったが、可憐な声の主はぼくの背後から、こちらに向かって歩いてきているようだった。

「私の邪魔をするつもりか、ヨスガ」可憐な声に反してこちらはずいぶんと険のある、まるで威嚇のような声色で冷たく言い放った彼女は、ぼくの頭上にある整った顔が、特段機嫌の悪いようにも見えなかったが、ただ声だけが異様なまでに静かで、みずからの目的を邪魔するものすべてに容赦のない攻撃を与えるような鋭さがあった。「委員長の邪魔なんかしないよ。あたしはただ、もうちょっと優しくて、正しいやり方があるんじゃないかな~って、思うだけです」ヨスガと呼んだ幼い声にそれからしばらく彼女は考え込むような顔をして、ぼくが焦れる寸前に「ふむ……一理ある」と肯く。それを確認することがいかにも他のどんなことより重要であるとでも言うように、ぼくの背中にすぐ近くまで近付いていた声はようやく、微かな衣擦れの音とともに屈んで、ぼくの手にひんやりとした感触があった。柄にもなく、ぼくは赤面した。

「ごめんね。痛くないように、すぐに外すから」その甘やかな声が脳髄を麻痺させる瞬間、ぼくの手は縄の拘束から解放されていた。立ち上がろうとして軽く蹌踉ける。

「ああ、少し落ち着いてからのほうがいいよ。急に立ち上がると危ないから」言葉の通りにすると、声は椅子をぐるりと回ってぼくの正面に現れた。初めて見上げる表情は、真っ白な照明の中に翳むことなく、くっきりと顕現して、その声の与えるイメージと寸分違わぬ、ありとあらゆる存在に対する慈愛に満ちたものだった。

 聖母の彫像を鑑賞しているような、清澄な気分。

 とかそんなことを咄嗟に考えるほどには、その少女は可憐に過ぎる。少ししゃがんでぼくに目線を合わせて話し始めた。「えっと、ヨスガっていいます。そこの委員長とおんなじ出版委員会の所属だよ」「そして、私の忠実なるしもべ」さっきまで興味なさげに口笛など吹くまねをしていた女が唐突に口を挟むが「はいはい、冗談もそこそこにね。その不用意な発言、風紀委員会に聴かれたら懲罰ものですからね」すっかり軽くあしらわれていた。いまは凍り付くような威厳も感じない。

「……っと、あの、話がつかめないんですけど」

 我ながら間抜けな質問にヨスガが慌てて答えた。「ああ、そうだった……ごめんね、ちゃんと説明しなきゃだよね」委員長と呼ばれた彼女は鼻を鳴らすだけ。ヨスガは「ええと……どうしよう」とか俯きつつも、たどたどしく話し始めた。

「あのね、あたしたちは出版委員会って言って、この学園の運営にかかわる五つの委員会のうちの一つなの。本当はほんの一年前まで凍結されてたし、現状も予算は解凍されないままで、ほぼ存在しない扱いされてる委員会なんだけど――それはまあ、いいとして」

「そしてきみは、我が出版委員会に所属し学園の自治に携わることになる」と言葉を継いだのは、その他でもない委員長だった。

「もちろん、タダでとは言わないさ。委員になればそれなりの優遇もある。たとえば労役の免除や配給品の優先的支給。さらには学内データベースのアクセス権。あるいは学食の割引や望むなら委員専用の学生寮に居を移すこともできる。それに我が委員会には、ヨスガのようなかわいい女の子もいるぞ」「ちょっと、委員長やめてください……もう、恥ずかしいなあ」

 うわ、人形みたいな顔が初めて紅潮した。照れたように髪を直す。これは反則だろ。

「その、委員になればどんな仕事をするんですか」ぼくはおずおずと尋ねた。

「学内ネットの情報フォームの管理と、年に一度の機関誌の発行くらい。たいした仕事じゃないだろう? 追って正式な辞令が下れば、きみは晴れて出版委員というわけだ」

「委員長! あくまで委員会活動への参加は各人の自由意志に基づくはずです、あたしたちが勝手に決めていいことじゃ……」

「各人の自由意志、などという言葉が能書き以上の意味で用いられたことなど歴史上なかっただろう。それに、天下の総務委員会の人事課の決定が絶対のものであることは、きみがいちばんよく知っているね、ヨスガ。……しかしどうやら、彼も乗り気のようだ」

「……ほんとに?」ヨスガが可憐に首を傾げる。

 ぼくは、確かに乗り気だった。

「――いいですよ」

 その一言を契機に空気がガラリと変わってしまったような気がした。あるいはぼくの今後を左右しうる何らかのスイッチが、音も立てずに切り替わってしまうような心地がした。

「ただし、条件があります」自分でも気付かないうちにぼくは、生唾を飲み込んでいた。目の前の存在が、へらへらと笑いながらぼくの底の底まで眼窩をとおして見通しているような、計り知れない女が、ただ恐ろしかったのか。「何でも言いたまえ。私に出来ることなら、努力しようじゃないか」

「ちょっと、また安請け合いして」ヨスガの声も、このときのぼくには不思議と、ちっとも気にならなかった。

「まずは、あなたの名前を教えてください」

 絞り出すようにそう言うと、目の前の女は少し驚いたような顔をしたが、すぐにまた、人を食ったような薄い笑みに戻る。そして片手を差し出すと握手を求めてきた。ぼくがおずおずとその手に触れると、突然ぐいと逆にぼくの手を掴んだ彼女は、ぼくを椅子から引っ張り上げた。立ち上がったぼくの目を見つめると、憮然とした声で。

「世界は腐ってる。眠りに落ちている」慌てた様子でヨスガが遮ろうとする。「ちょっ、突然なに言い出して……」

「この腐った世界を、根っこから引きずり出して陽のもとに曝して、全部燃やして更地にしてやらないと、何も変えられないんだよ」

「はあ……もう、勝手にしてください。あたし知りませんからね」

 そのとき、底の見えなかった彼女の目の中に、ようやく何かの、ひどく苛烈で触れれば火傷してしまうような――たとえば赤熱した鉄のような何かが、垣間見えたような気がした。

「ようこそ、我が革命の最前線へ。泥の中で最後の悪あがきをしようじゃないか」

 目の前の彼女が何を言っているのかは、わからない。けれど彼女の言葉は、いまにも叫び出したくなるほどに、力を持っていた。はじける直前のポップコーンみたいに危うい、真の芸術を前にしてひとが居ても立ってもいられなくなるような、人間性の根幹に訴えかけるような、圧倒的な声だった。言葉だった。まなざしだった。

「私の、名前は――」


 重ねられたトレイを一枚とって長く続く列に並ぶ。ひとりひとつの皿を受け取って、適当な席を見繕うと、ぼくはようやく一息ついた。今日のメニューは青菜の和え物と温泉卵だ。あとはいつもと変わらない、白いご飯と味噌汁。ぼくは食にさほど興味がない方だからこれといった感想を持たないけれど、嗜好としての食事を楽しんでいる向きはここの食堂がはなはだ不足らしい。まあ、そのお陰でこの学園でも外れにある第二食堂はそれほど混まないから、ぼくは毎日利用している。確かにバリエーションは少ないかもしれないが、このご時世に食を楽しもうとするのは土台無茶な話なのだ。とかそんなことを考えていると、ぼくの前に座って窓から差し込む光を遮る影があった。

「おつかれさま、昨日はごめんね?」顔を上げる前からすぐにわかった。「ぼくじゃなければトラウマになってたかも」

 ちょっと意地悪を言って顔を上げると、可憐な彼女が眉を下げていた。とたんに後悔する。

「でも、貴重な経験だったかもしれません」ぱあっと顔が明るくなる。「許してくれる?」

 自分の流されやすさをひしひしと感じながらも肯いた。彼女はそうしてやっと、自分の食事に手をつけはじめる。メニューはぼくのと同じ。当然、この食堂にはA定食しかないからだ。

 会話がないのも不格好だから、適当に切り出す。

「いつもはここじゃないですよね。副委員長はこういうとこ、あんまり似合わないし」

「えっとね、だいたいあたしは第三食堂。どっちかっていうと洋食が好きだから」

「第三はちょっと洒落てる感じがして、なんとなく敷居が高くて」

 あはは、とヨスガが笑った。花が咲いたみたいに空気が明るくなるのは、本当にたちが悪いと思った。すぐに口を押さえて、ごめんね、と謝る。

「そんなことないよ。こんど一緒に行ってみようか」

 ぼくは味噌汁に口をつけていたから、返事をしなかった。

「ああ、それからあたしのことはヨスガでいいよ」

「ええと、ヨスガさんは、どうして出版委員会に?」

 そうぼくが尋ねると、ヨスガはくすっと笑って、ぼくだけに聞える小さな声で囁いた。

「じつはね、委員やってると第三は、フルーツのデザートがつくの」

 にやっと笑ってから慌てて内緒だよ、と付け加える。ぼくもつられて笑ってしまった。

 「まあ、それは冗談にしても」ちょっと真剣な顔をしてぼくの目を覗きつつ。「きみは本当によかったの?」

 「まあ、悪い話だとは思いませんでしたから」

 「労役の免除が? それとも配給品? まさか、食堂のフルーツタルトじゃないでしょう?」

 「……ヨスガさんみたいな、かわいい同僚ですかね」

 冗談交じりにそう言うと、ヨスガはすぐに顔を背けてしまった。おそるおそる顔色をうかがうと、また消え入りそうな小さな声で、ぼくを非難した。

 「……やだ。そういうこと言う人、あたし嫌い」もう春なのに、すこし耳が赤かった。

 「すみません。慣れないことはするもんじゃない」

 「……わかってくれたら、いいの。代わりにって言ったらなんだけど、このあとは?」

 「確か、第十五番温室で仕事がありますけど……」

 「ああ、それなら大丈夫。もう総務委員会にきみの労役免除は申請しておいたから」

 食べ終えた食器を持って立ち上がると、彼女はごちそうさまでした、たまには和食もいいね、と笑った。そしてぼくに向き直ると、少し恥ずかしそうに切り出した。

 「もし、このあと暇なら――印刷室に来てみない?」

 ぼくは素直に承諾して、ヨスガの後をついて行った。印刷室までの道のりは奇妙なものだった。大まかに言って学園の中心に向かっていくのだが、少しずつ景色が古くなっていく。最後には踏み抜きそうな木造の廊下と、押し開ければ重苦しい音が鳴りそうな金細工の扉が現れてぼくは内心で舌を巻いた。一年前にこの学園に移ってから、労役や所用のたびいろいろな場所へ行ったつもりで居たが――

 「驚いた?」何を察したのかヨスガが言う。「いえ、古いものばかりだなと」

 どういうわけかヨスガは誇らしそうに胸を張って答えた。

 「我が第四教育機関は、欧州の第一教育機関に次いで歴史がありますからね! ――それに、一年前の《災禍》で、第一学園はほとんど燃えちゃって、いまではぴかぴかの新設校舎だから、校舎の古さではうちが実質一番かも」

 話を聞きながらこっちだよ、と導かれたドアをくぐると、どこか見覚えのある部屋だった。思えば印刷室への道のりも、昨日は日が落ちていて暗かったからわからなかったが、一度通った道だと気付く。

 「ここ、昨日の……」ヨスガがニコニコしている。「そう、正解!」

 拉致のショックで動転していた昨日と違って、落ち着いて部屋の中を見渡してみると、大きな旧式の機械がいくつか並んでいて、妙な音を立てていた。

 「ちょうどいま、機関誌の発行中なんだ……っと、わすれてた」

 ヨスガがいくつかの機械を操作して音を止める。こちらに向き直ると、明るく言った。

 「ここが出版委員会の本拠、委員長がきみを拉致しちゃった場所で、あたしたち出版委員の仕事場です。普段は執務室としても使ってるよ、委員長の机しかないけど」

 そう言ってヨスガが指さした無駄に立派で重そうな執務机は、主の不在にさみしそうに佇んでいた。「その委員長は?」とぼくが尋ねると「うーん、さあ?」とヨスガは首を傾げる。

 「ええと、他の委員のみなさんは……」

 ぼくの苦し紛れの質問に、ヨスガはハッと気付いたような顔をして口を押さえた。

 「……あれ。言って、なかったっけ?」

 「聞いてませんけど」

 うーん、うーんと唸って困り果てた様子のヨスガだったが、ぼくがジッと見つめると観念したように口を開いた。まるで死刑を宣告する裁判官のような口ぶりで。

 「他の委員は……いません」

 「は?」

 「わかった、言い方を変えるね。出版委員はあたしと、きみと、委員長の三人です」

 今度はぼくが頭を抱える羽目になった。「三人しか居ないって、どういうことなんですか」

 「言ったでしょ、出版委員会は去年まで凍結されてたって……去年はどの学園も《災禍》の影響か、トラブルが多かったみたい。うちも例外じゃなくて、風紀委員会どころか特務まで出張ってきてだいぶ荒事もやってたの……だから委員会の改組もかなり緩くなってて、そこに委員長が――あ、その頃はまだ委員長じゃなくて、風紀の人だったんだけど。無茶して評議会に出版委員会の凍結解除案をねじ込んだみたい。あの人、そういうことばっかり得意だから……もっと詳しくは、委員長に聞いてみて」

 わからない言葉に目を白黒させていると、ヨスガが慌ててフォローしてくれた。

 「要するに、出版委員会は今年の頭にできたばかりの弱小組織だってこと!」

 「いや、そんなことを、そんなにスッパリ言い切られても……」

 「言ってみれば、きみは出版委員会のオープニング・メンバーってわけなのよ。なんだか、名誉な役職の気がしてこない? うんうん、この際だから委員会に関することでも、なんでもあたしに訊いていいよ! これから一緒に活動していくわけだし、遠慮なんていらないからね」

 混乱している頭を無理に切り換えて、それじゃあと尋ねるには。

「じゃあ……これからぼくは、何をすればいいですか」

 「特にないかな」即答。

 「は?」思わず耳を疑った。失礼な返事も今日で二回目だ。

 「いや、ないかな。特に」またもや即答。

 「えっ、ぼくに仕事、ないんですか」

 「うん。機関誌の印刷も昨日からやってるからもう終わるし、学内HPの更新も月初にしたばかりだし、ましてやそういう雑務はこれから折を見てじっくり覚えてもらえばいいことだから、いまはこれといってやってもらわなきゃならないことは、ないかな」

 「そうですか……」まさか仕事場に初出勤して肝心の仕事がひとつもないとは思わなかった。

 「あ、でも委員長が、来たるべき時に然るべき仕事をしてもらう、って言ってたよ」

 いくらなんでもアバウトすぎる。

 「よし、わかった。じゃあきみには、いまから総務委員会に出向してもらいます」

 「総務ですか?」ヨスガはもっともらしく肯いた。たったいまの思いつきのくせに、整った顔立ちのせいでそれらしく見えるからずるい。

 「きみは新入りなんだし挨拶も兼ねてかな。仕事と言えば総務ってくらいには、あそこ万年人手不足だし。あたしはもともと総務にいたから、ちょうど紹介状も書けるしね」

 「はあ、わかりました……」

 ここで安請け合いしたことを、たった数十分後に後悔することになろうとは。


 「ごめんね、よその人にこんな仕事やらせちゃって……実はまた、部活動予算の割り当てを多くしてほしいって求める陳情や、労役の軽減を求める訴えが立て続けに何件も……こっちも対応しきれないって何度も断ってるんだけどしつこくて……一昨年まではこんなことなかったんだけどなあ……あ、愚痴にまでつきあわせちゃ悪いね。これ、新しい書類です。さっきのと処理の仕方は同じだから。ほんと、ごめんね」

 一方的にまくし立ててから仕事だけ置いていく三年生の彼女は、ぼくにとって差し詰め悪魔のように見えた。総務委員会。学園の五つの委員会の中で最も多くの委員を擁し、学園運営の多くを担う学生自治の砦。その牙城である総務委員会本部は、まぎれもなく――

 「ブラックだ……」

 「あ、おかわりですか? 私の、分けたげますね」

 親切にもぼくのマグカップに薫り高い液体を注いでくれた隣の席の女子委員は、ぼくと同じ一年生のはずなのに、目の下にくっきり隈ができている。

 「あ、ありがとう」そうお礼を言って、ありがたくコーヒーを一口飲むと、その驚くほどの濃さに思わず吹き出しそうになった。これを平然と飲んでるのか。どれだけ寝てないんだ。

 「いえいえ、お気になさらず。ウフフ……」

 心なしか笑みが引きつっているように見える。ぼくは心底から思った。十分でもいいから、いますぐ仮眠してくれ。

 それにしても、とカップを見つめながら思う。顆粒状のインスタントではあるが、コーヒーはこのご時世、嗜好品にあたる貴重な品だ。普通に暮らしている分にはまず、出会えないものでもある。こうしてコーヒーがガブガブ飲まれているのを見るに、委員会が物資配給における優遇を享受しているというのは本当のことらしい。

 せっかくなのだから適切な濃さで飲みたかった、とぼくは仕事の山に攪乱されてキーボードを叩く手を止めないまま、漠然と思った。

 「今日はどんなご用でここに?」隣から不意に、何気ない声がした。相変わらず打鍵の音は止まないので、ぼくもそのまま答える。「ああ、総務委員長に挨拶したくて」

 「御大に! ふふ、それは楽しみですね」

 「楽しみ?」ぼくが首を傾げると「あれ、御大に会われるのは初めてですか?」

 「そうですけど……」気付けばこっちを向いていた彼女は妙ににやついていた。

 「じゃあ、楽しみにするといいかもしれませんよ?」

 「それは、どういう……?」

 「ああ! すみません、ヘンなこと言って――大丈夫、怖い人じゃありません。ちょっとルーズですけど、私たち十人分は仕事できるし。とにかくすごい人ですから」

 「楽しみに、というのは?」ぼくの疑問は結局解決しないまま。

 「――フフフ。会ってみれば、すぐにわかりますよ」


 しばらく山積みの仕事と格闘しているうちに、気付けば日が暮れ、途方に暮れ、いつ終わるやもしれない課題の割り当てに、ちょうどようやく目処が立ったと思えたときだった。

 「お待たせしました、仕事を手伝ってくださり本当に助かりました」

 三年生の先輩の声に、また新しい仕事かと身構えたが、さっきまでとは打って変わった妙に改まった口調からして、どうやら違う用件らしかった。

 「――総務委員長がお会いします。執務室へどうぞ」

 妙に緊張して、ぼくは気付かぬうちに唾を飲んでいた。

 執務室に通されるとその広さにまず驚いた。優に印刷室の二倍はある。ずらりとパソコンの並べられた総務本部を見たときにも驚いたが、こちらは委員長個人にこれだけの部屋が当てられているのか。うちとは組織の規模も、予算も、すべてにおいて格が違うのだ、と肌で感じた。

 「お掛けになってお待ちください」

 やけに柔らかいソファーに座って居心地の悪さを感じてから、五分と待たなかった。

 「やあやあ、よく来たね!」

 音高くドアを開けて入ってきた彼女は、開口一番そう言い放った。

 「…………」思わず、停止した。

 なぜなら彼女は、想像よりずっと、小さかったからである。小さな少女はその小柄な体躯を一般生徒とは異なる真っ黒い制服に包んで、これでもかとばかりに誇らしげに胸を張っていた。背中まで伸びた長い黒髪が印象的だった。

 「いやいま来たのはシオリのほうでしょ!」ぼくの代わりにツッコミを入れてくれた声で、ようやく我に返る。ぼくは慌てて立ち上がろうとするが、

 「あは、みっちゃん相変わらず鋭いなあ! そうだった、では言い直そうじゃないか」

 「なに言ってんですか……活動監査六件、事務処理十二件、クレーム対応二十八件で、とうとう頭くたばりましたか?」

 続く会話の応酬に圧倒される。シオリと呼ばれている背の小さい少女と、反対にものすごく背の高い女性がぼくをなかば無視して喋る喋る。

 「まさか! 当方がその程度の仕事でくたばるわけがないだろう! 当方は我が総務委員会を統括し、さらには五つの委員会の指針を定める評議会の議長さえ務め、第四統一教育機関の運営という大任の要石を担う女だぞ! 職責を果たしてから見事にくたばるならともかく、何も成せぬままのうのうとくたばってやるものか! あっはっは!」

 なんだこの人――身体の大きさに反して、異様に声がデカい。

 「あ……待ってくださいシオリ。私としたことが……私たち、お客様を放置しています!」

 「あちゃあ! そうだった……先方に失礼があっては総務委員長の名折れ! まずは粗相のあった挨拶からやり直さねば!」

 ようやくぼくのほうに向き直った。そして何を言うかと思えば――

「やあやあ――よく来たぜ!」

「何の挨拶だよ!」

 思わずツッコんでしまった。「えっ」背の高い、みっちゃんと呼ばれた女性が驚きの目でこっちを見ていた。「あっ」ぼくも呆然とする。

「え、ええと……」

 よく考えたら、とんでもなく非礼な行いだったんじゃないか。目の前の小さな女子は、いや女性は、どうやら総務委員会の総元締めで、つまり学園で一番、シンプルに偉い人で――

「いや、その……なんというか、すみま」

「いいっ!」

「えっ……」やはり無駄によく通る声で、逡巡を断ち切ったのは他でもない、ぼくが失礼を働いたその少女で。しかし彼女はそれを全く気にしていないように見えた。

「いやはや、当方に対するその遠慮のない物言い! 実に気に入った! 素晴らしい……いいっ! なるほど、なるほど……いや待て。ふむ、そうか……」

 なにやら勝手にうむうむ唸ってから、急に顔を上げて、言った。

「みっちゃん、お茶を入れてきなさい」

「あっ、いえお構いなく」ぼくが固辞しようとしても「コーヒーしかありませんが」すぐに背の高いみっちゃんは出て行ってしまった。

「さて……それでは、本題に入ろうか」

 彼女の目は、やはりどこか不敵でありながらも、我が出版委員会の委員長とは決定的に異なる、人を寄せ付けて止まない光が宿っていた。あるいはカリスマと呼ぶべきか。

「当方はシオリ。《三枝》の名を先代より預かっているから、三枝シオリだ。きみのところの委員長が《篠宮》を名乗るようにね」

 その言葉で忘れていた疑問が俄に立ち上がった。「その、名前の前につくのはなんですか?」それは、初めてうちの委員長と話したときからの疑問だった。

 シオリは暫時考えてから、迷いなく言い切る。

「――名誉であり、責務である」

 その言葉は、ただの綺麗事と切って捨ててしまいがたい、あるいはおぞましく触れるに躊躇うような、純粋な力があった。確かにうちの委員長も彼女と同じように自分の名前の他に、特別な名前を持っている。ぼくやヨスガは自分の名前しか持っていないのに。

「もちろん、特権階級を意味しているわけじゃない。このへんは委員会活動の優遇なんかも絡んできて、厄介なことにデリケートなんだ。悪しからず頼むよ」

 ここでみっちゃんと呼ばれていた背の高い女性が帰ってくる。彼女は木製の重いテーブルの上に二人分のカップを静かに置いた。磁器が触れあう音さえしなかった。

「ありがとう。そうだ、紹介しなくちゃね。ここにいる背の高い子はミツキ」

「……先ほどは失礼しました。私もシオリも、連日の不眠でおかしくなっていました」

 申し訳なさそうに話しながらソーサーの上のカップにコーヒーを注ぐ彼女の姿があまりにも美しく、ぼくは言葉を失った。この感覚は、不思議と初めてじゃない気がする。

「きみはどう思う? ミツキはヨスガに似ているだろう」

「なっ……!」ミツキが言葉を失う。ぼくも答えづらい。「……そ、それは」だけど確かに、デジャビュの正体はシオリの言うとおりだと思った。

「うんうん、わかってくれるか。当方の好みなんだ。お茶を入れるのも当方に一時も離れず付き従って補佐をするのも、みっちゃんの前はヨスガの役だった。彼女はまだ総務に居た頃、当方の一番のお気に入りでね。言うまでもないが――主に顔が」なんだそのドヤ顔。

「……シオリ。そういうこと、初めて会った方に言います?」どこか照れ、呆れた顔で言う。「拗ねるなよ。いまはみっちゃんが一番だなんて、つまらないことを言わせないでくれ」

「シオリの馬鹿」

 俯いたミツキのそんな恨み言さえ全く意に介さない様子で、シオリは続けた。

「――ヨスガは、元気にしてるかい?」

 ぼくは黙って肯く。それを確認して、シオリは少し神妙な顔になった。

「それじゃあ、そろそろきみの話をしようか」

 ぼくを覗く愉快な彼女の目は、全然違うはずなのに、やっぱり委員長と似ていた。

「――きみが何者なのかについて訊かせてくれたまえ。要するにきみの本心が何で、きみの身上は如何で、きみの目的が何かについてをね」

 ぼくはじっとひと呼吸おいて、口を開こうとした。そのときだった。

「ちょっと! 勝手に入られては困ります!」その悲鳴じみた声と不作法な闖入者が、場の空気を破壊した。「三枝ッ! 聞いてくれ、おれは――」

 筋骨の逞しい男が二人の委員の制止をものともせず、ずんずんぼくたちのほうへ突き進んでくる。ぼくは事態が飲み込めず、唖然としていた。その一瞬の混乱の中を切り裂いたのは、清冽な声だった。

「ミツキ」その刹那、視界の端に影が走ったような気がしてぼくは瞬きした。

 直後だった。

 「――がッあ!?」さっきまで暴れていた男が、一瞬で組み敷かれていた。その太い腕を、信じられないしなやかな腕で、ねじり上げているのはミツキだった。

 「……ふむ、総務に話があるなら決められた時間に決められた手続きをとってもらわないと困るんだ。きみは、どこの所属?」

 男が答える。「三年、港湾施設管理の担当者だ! 三枝、頼む聞いてくれ!」

 「……まったく。最近の客人と言ったら……」ぼくは本能的に身を竦ませていた。彼女の目があまりにも、鋭かったから。「港湾での労役作業が厳しすぎる! 増員がなければ成り立たん! 三枝……頼むッ!」

 「当方も勤勉な生徒の一人を、粛正などしたくはないのだが」その一言で、暴漢が黙った。蛇に睨まれた蛙のように。

 「――なんならいますぐ《二条》を呼んでもいいんだ。当方は風紀の連中と違って温厚だから、奴らのやり口も好かない。だが当方の手に負えないなら――あの野蛮な白服どもに任せるほかあるまい? ミツキ……」

 「……」男は完全に沈黙してしまっている。「お引き取り願いますか?」

 ミツキの伺いにシオリは肯いて答えた。ミツキが男を引き立てると、男は勢いを取り戻して叫ぶ。「港湾はもう限界なんだ! 頼む、三枝ッ、三枝委員長――」

 シオリは黙って男に一瞥もくれなかった。それからしばらくして、立ち尽くすぼくをようやく思い出したように、シオリは言った。初めて会ったときとは一変した、冷たい、しかし思えば同じ意思の鋭敏さを持った言葉で。

 「すまない。きみのことは、またの機会に聞かせてくれ。今日はもう、お互いに疲れたろう。こういうことは珍しくないんだ、怖がらせたらすまない」

 彼女は重いドアをやっと押し開けて、最後に言い残す。

 「――ここはこういう場所だ、きみにもいずれ、わかるよ」

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