第10話


開けた草原に出ると、遠くの森から二頭の馬が出てくるのが見えた。ジェマと、もう一頭にはアビとヨナが乗っている。

おおい、と声をかけようとしたリドはあげた手をそのまま止めた。テムルが見ると、遠目にアビがヨナの髪をなで、体を寄せ合っているように見えた。リドはこれまでになく真剣な目で二人を見つめていた。


テムルは昨日とは違う、もやもやした気持ちに支配されていた。昨日二人が宴席で並んでいるのを見たときは、美男美女で似合いだと思っていたのだ。しかし今日は、二人の姿を見ると、アビの熱い頬や耳、小さな声が思い出されてもやもやした。あんなアビ様は俺しか知らないはずだ。

なぜアビはヨナと一緒に同じ馬に?もやもやを振り払おうとテムルは馬を走らせる。


「リド!テムル!」

ジェマが気づいて声をかける。二人が近づいてくる。

「何かありましたか?」

リドが少し硬い表情でアビに声をかける。アビとジェマは一瞬視線を交わし、

「いや…ヨナの馬に少しトラブルがあってな」

と告げた。

「トラブルもあったことだし、競うのは中止にして、少し休みませんか?」

ジェマの提案に全員が頷く。すぐ先にある泉のほとりで、馬を休めて休憩することにした。泉のそばで馬を降りると、テムルはアビの顔や腕に擦り傷があることに気がついた。

「アビ様、この傷…どうされたのです?」

「ちょっと転んでな」

美しい頬についた傷が痛々しくて、テムルは思わず手を伸ばす。そっと触れると、アビはびくっと震えてテムルの手を払った。

「あ…すまぬ」

「…いえ、こちらこそ、ご無礼を」

テムルは傷ついた顔をして離れる。アビはもどかしい思いでいたが、うまく説明できなかった。テムルが触ると、どうしてよいかわからなくなる。抱きしめられると、離れたくなくなる。昨日の感触がずっと肌から離れない。昨夜、アビは初めて性的な夢を見た。相手はテムルだった。

どうしよう、とアビは思った。

これはどうやら本当に自分はテムルに惹かれている。皇位継承の危機であった。


「ヨナ」

水辺で手を洗うヨナに、リドが声をかけた。

「…何かあった?」

ヨナはリドを見ないまま答える。

「何もないわ。私の狩りが下手なだけ」

ヨナは自分が恥ずかしかった。アビに、ずっとリドが自分を好きでいてくれることにあぐらをかいていると見抜かれていたのだ。

リドがヨナに初めて結婚しようと言ったのは、ヨナが八歳、リドが六歳の時だった。それからずっと、幼い少年から青年になってゆく姿をヨナは愛おしく見つめていた。ヨナもリドも、お互いの良いところも悪いところも知っている。お互いに伴侶となるならこの人だと思っている。ヨナが断っていても本当はそう思っていることはリドに伝わっているはずだと思っていた。リドを誰にも渡したくない。だが、領主の座を捨てたくない。

「…アビ様と仲良くなったんだな」

リドの声音に、ヨナは顔を上げる。リドはいつになく厳しい目をしていた。

「俺はヨナが求婚に了承してくれないのは、領地と板挟みになってるからだって思ってたよ。ヨナは本当は俺が好きなんだって」

その通りだった。リドにはお見通しだったのだ。

「でも、違ったんだな。アビ様みたいにしっかりしてた方がヨナは頼れるんだな」

「リド…何の事を言ってるの?」

「さっき、馬に乗ってる二人を見て思ったよ。ヨナがアビ様に頼ってるって」

「それは…!」

「俺とじゃ頼りなくて、お前はいつもしっかりしないとダメだもんな」

「リド、違うの!」

言うだけ言って、リドはヨナから離れ、ごまかすようにテムルの肩を抱いて話し始める。

違うのに、とヨナは小さな声で言った。リドと一緒だからいつも頑張れるし、頼ってない訳じゃないのに。


「では、そろそろ行くか」

太陽が西に傾き始め、アビが声をかけた。

「ヨナはリドの馬に乗っては?」

提案したのはジェマだった。

「アビ様もお疲れでしょうし、私の馬にはこの通り獲物が乗っているので…」

ヨナはジェマの気遣いに心から感謝した。先程のアビとの話も聞いていたジェマは、泉での様子を心配したに違いない。

「俺は、いいですけど、ヨナはアビ様と乗りたいんじゃ…」

リドがもごもごと口にしていたが、ヨナはかまわすリドの鞍に足をかけた。腕を伸ばし、引き上げて、とリドに眼で伝える。リドは黙ってヨナを引き上げる。

「では、戻ろう」

アビが馬を走らせ、ジェマとテムルが続く。最後にリドとヨナが追う。ヨナを前に乗せたリドは、背筋を伸ばしたヨナを見て、いつも通りだなと思う。ヨナはいつもすっと背を伸ばして、気が強くて、頭がいい。でも時々すみっこで泣いているのを見て、リドは自分が守るんだとずっと思っていたのだ。こんなに強くて賢いヨナだけど、ピンチの時には自分が助ける役目なんだと思っていた。アビとヨナの仲睦まじい様子には自分を否定されたような気がした。


「リド、わたし…」

ヨナが何か言いかけたが、びゅうと風が吹いて声が聞こえない。

「なに!?」

リドが叫ぶように尋ねた。

「負けたくないの!!」

風に負けずにヨナが叫んだ。

「何に?」

「お母様によ!」

リドはよくわからず、馬を走らせながら黙って聞く。

「お母様は女は早く結婚すればいいと思ってる。領主なんかなれないって思ってる」 

「…なるほど」

風でなびいたヨナの髪がリドに当たる。

「でも私、領主になりたいの」

顔が見えないが、ヨナが泣いている気がする。


馬を止めて、リドはヨナの顔を見た。ヨナは少し泣いていた。

「領主になりたいの…!私でもできるって証明したいの」

リドはそっと後ろからヨナを抱きしめる。

「うん。ずっとそう言ってたもんな」

「アビ様は、待たせ続けるのはずるいって」

そんな話をしていたのかと驚く。

「…リドとしか結婚したくない。だけどまだ、ダメなの」

しゃくりあげながら泣くヨナを撫でながら、リドは結局いつもこうなるんだよなと思った。だけどどうしようもない。ヨナが泣いたら自分は慰めるしかないし、リドだってヨナとしか結婚したくない。解決する方法は思いつかなかったが、泣いているヨナにわかったよとリドは答えた。

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