第28話 決戦、そして…

 街の外に魔物が出たり、ドラゴンに乗って空を飛べたりしてしまうこの世界。

 建設中のテーマパークとアクリーは言ったが、お化け屋敷やら絶叫マシーンやらのアトラクションになど需要はあるまい。


 遠目ではお城のように見えたその建物は、巨大な円形闘技場コロッセオだった。

 冒険者や魔物の戦いを見世物にするための場所だ。


「……すごいです」

「間違いない。ご主人の反応は、この中だ」

「ふーん。イカれた儀式にお似合いの悪趣味な場所ね」


 石造りで、巨大なアーチを連ねた外観。

 入り口前の広場には、見上げる私たち三人以外に人っ子一人見当たらない。トーマたちが敵の注意を引き付けてくれたおかげだろう。


「よし、トーマ殿に連絡を」


 ついに突き止めた目的地だが、私たちだけでは心許こころもとなさすぎる。はやる気を抑えて、私は通信のためセカンダリを起動しようとした。


「もうっ、ばかぁー来ないでよおっ!」


 空に、間延びした罵声が響く。


 甘ったるさに聞き覚えがあった。

 最初に迎撃してきた相手――魔導士のエージィ。絨毯じゅうたんに乗った魔女っ娘はしかし、こちらには目もくれず空中戦の真っ最中だ。


 私たちのときにもけしかけた羽根つき骸骨ヘッド軍団をエージィがお星さまステッキで指揮、対する騎士はドラゴンを駆って次から次へとそれを斬り捨てていく。


 勇壮にして華麗なるその姿に、アクリーが場違いな嬌声を上げる。


「トーマ様ぁっ!」


 ええい、うるさい。耳元で叫ぶな。お目々をハートにしてるような場合か。


「このっ、このっ、あっち行けー!」

「――っ、はぁっ!」


 戦況は多対一ながらトーマが圧倒的な攻勢で、エージィは逃げ腰の撤退戦模様だ。味方のいる闘技場まで退くつもりだろう。


「トーマ殿っ、ご主人はその中にいる! おそらくここが敵の本拠だ!」


 地上から声を張り上げた私に、トーマは視界の端で頷き返す。


「心得ました! あとは我々に――」

「はうっ、だめー! こっちには何もないんだからぁ!」


 魔導士と聖騎士がやり合いながら、そびえる闘技場の外壁を越えていく。我々に、とトーマは言うが、彼女に続く援軍の姿は今のところ影も形もない。

 あそこには、あと二人も魔族がいるかもしれないのに。


 ……どうする?


「行きましょう!」


 迷う私に、勇者が言い切った。


「ほら、ぼやぼやしないで。あんた、そのためにここまで来たんでしょうが」

「……勇者殿、アクリー殿」


 お前ら、ほとんど雑魚のくせに。

 どうしようもなく頼りない奴らが、なぜか最高に頼もしく見えた。私一人じゃ絶対無理だけど、一緒だったら、もしかして――


「すまない。恩に着る」


 私たちは、また走りだした。



 入口を抜けると、そのまま客席に出た。

 闘技場の構造は掘り下げ式で、すり鉢状に下る段々の底が広い円形の舞台になっている。まっ平らに整地された、土がき出しの硬いグラウンド。


 そこに、祭壇が設けられていた。


 複雑怪奇な紋様をなす魔法陣と、魔神への供物くもつを捧げる台座。赤いスポットライトのように光の柱が降り注ぎ、一人の少女を照らし出す。

 今しも、天に召されるかの如く。

 吊り下げる縄や、くくりつける十字架があるわけでもなく、地面からわずかに爪先を離して全身を宙に浮かべている。


 力なく項垂うなだれ、両手足をだらりと伸ばした、一糸まとわぬその姿――


「ご主人っ!」


 夢にまで見た、あの顔、あの姿。ついに、ついに、たどり着いた。


「シロ殿。それに、勇者殿とアクリー……」


 客席の下段から、トーマが私たちを振り返る。騎竜は既に還らせたらしい。彼女の行く手を阻むように、魔族がその先に立ちはだかっていた。


「うあー、増えたぁ~」

「……見たような顔だな」


 魔導士のエージィと、冥戦士ヘルバトラーのボズィマー。


 そして、祭壇のすぐ下に手配写真で見た魔道司祭ダークプリーストのターツが控えている。フードはないが、キシャと似たようなローブ姿だ。


「エージィ、偽装空間は放棄よ。今は、侵入者の排除に全力を」

「え、そうなの?」

「……いいのか、ターツ?」


 儀式を仕切る魔道司祭の指示に、魔族二人が首を傾げた。


「ええ。この儀式が完成するまで食い止めれば私たちの勝ちだわ。たとえ、こちらが全滅しても……」

「おー、私たち殉教者?」

「ハッハッハ。面白ぇ。燃える展開だぜ」


 盛り上がる敵に、トーマが舌打ち。


「させるかっ!」


 剣を構えるが、敵のほうが早かった。

 いきなり、照明を消したみたいに空の色が元の夜に戻って――


「今までみたいには、いっかないよぉー?」


 エージィのお星さまステッキが、トーマにビーム攻撃を放つ!


「くっ」


 身をかわすトーマ、吹っ飛ぶ客席。トーマの剣にも光が宿り、続く第二撃は刀身で受け散らす。


「はあああっ!」


 ビームの連撃をくぐっては剣で退け、トーマは前へ突き進む。


「どかぁんっ!」


 エージィが擬音を叫び、その通りの爆発がトーマの足下を襲う。


 飛んでかわせば、もう一発。さらに続けて二発、三発。

 再び、トーマは後退を強いられた。


「さーて。こっちも、いつぞやの続きといこうか」


 ボズィマーが剣を呼び出す。切っ先が向くのは、もちろん私たち三人だ。トーマは手一杯で、助けは期待できそうにない。


「そら、行くぜ?」


 軽く地を蹴り、右手一本の片刃剣で斬りつける。それだけの動きが、とんでもなく速かった。


 がきぃん! と、剣が金属音を鳴らす。


「へえ……よく受けたじゃねえか」

「うっ、ぐう……ッ!」


 両手持ちの剣で受け止めた勇者は、歯を食いしばって必死の形相だ。あざけりを含んだボズィマーの余裕に、ふと警戒と疑念の影が差す。


「……ほう。てめえ、勇者か? 嫌な気配をさせてやがる。まあ、問題になるようなレベルじゃねえが」


異端者ヘレティック〉上位クラスの冥戦士と、特殊クラスの勇者。

 レア度で言えば勇者が上だが、実力差は如何いかんともしがたい。


「おらおら、どうした? そんなもんかぁッ!?」

「くっ……、はあぁぁっ!」


 片手で悠々と剣を振るうボズィマーに、勇者は押されまくっていた。


 私とアクリーは手出しができない。

 動きの素早い接近戦で隙が無いのも理由の一つだが、下手な加勢はそれ以上に藪蛇やぶへびだ。向こうを本気にさせてしまえば、おそらく勇者などひとたまりもなかろう。


 とはいえ、ああやって時間を稼がれるだけでも私たちの『負け』になる。それならいっそ、二人はこのままにして私たちは――


 祭壇に視線を向けると、苛立いらだたしげにターツが怒号した。


「ボズィマー、さっさと片付けなさい! 弱い者いじめが嫌いなのは知ってるけど、何か、嫌な予感が……」


 言葉が途切れる。


「おや、気付かれたか」


 ――フェンリルの杖。

 背後を襲う光刃の一閃を、ターツは間一髪でかわした。


「……イクゼルテ! この裏切り者!」

「やあ、久しぶり。やっと見つけたよ。君らと仲間だった覚えはないけどね」


 ターツの悪罵をさらりと聞き流し、キシャは祭壇の手前に着地する。魔法的な手段で転移してきたのだろう、空に開いた穴が塞がっていく。


「よくも言えたものだわ! 教会の犬に成り下がった魔族の面汚しが……!」

「我が意思は、常に我がしゅもとにある。八魔神将きっての壊し屋『魍魎もうりょう』の現臨など以ての外だ。その目的が同じなら、教会でも何でも利用するさ」

「二十年前にもそう言って『道化師どうけし』は私たちを裏切ったわ……でも今回は、そうはいかない。至高なる混沌『夜叉神やしゃがみ』の名の下に、背約者と龍神の使徒に滅びを――」


 ターツが右手を天高く掲げた。魔法陣の紋様が光を放ち、地鳴りを伴って闘技場が震動する。


『ググォォォォォォ…………』


 天地の鳴動とは明らかに異なる、遠雷のうなりが夜気をどよもす。


 ――声だ。


 私は直感で悟る。ただの音ではなく、意思を持つ声。一個ではなく、バラバラでもない。完全に統一された獣どもの和声。


 これが……これが、そうなのか。


「いいぞ! いよいよ来やがったか!」

「神様っ! エージィはいい子にしてました!」


 異変の出来しゅったいに戦う手も止まり、魔族たちが快哉かいさいを叫ぶ。


 夜空の星が、掻き消えた。闘技場全体に蓋をするように、深い闇の色をしたもやが渦を巻いてうごめいている。

 祭壇から立ち昇る、赤い光の柱を芯にして。


 やがて、垂れこめた闇の触手が、つたうように柱へ入り込む。光に浮かぶ少女の体にまとわりついて絡めとっていく――


 やめろ……やめてくれ……!


「ご主人っ!」


 私の声など、届きはしなかった。


 光と闇をなす祭壇の前で、ターツがキシャに杖を突きつける。


「私たちの勝ちよ! 邪魔はさせないわ!」


 闘技場のあちこちに無数の魔法陣が発生――そこから、例の灰色覆面ローブ軍団が包丁片手に何十、何百と姿を現す。


「趣味が悪いねぇ、相変わらず」


 苦笑しつつ、キシャも杖の先を軽やかに躍らせた。対抗の魔法陣――そこから姿を現すのは、細腕に斧槍ハルバードを構えた美少女メイドさん軍団である。


「行け、闇の申し子たちよ! 魍魎の名に従い、全ての敵に死を!」

「蹴散らせ、人形ども! 正義はなくとも、可愛いほうが勝つ!」


 たちまち、剣戟の音色が闘技場を埋め尽くす。飛び交う烈光と爆炎の嵐。彼方かなたでは魔導士と聖騎士、こなたでは魔道司祭同士、まるでもう魔法大戦争だ。


「…………っ」


 人知を越えた凄まじい力の応酬に、私は言葉を失っていた。

 急速に遠ざかる現実感。こんなところで、私は何をしているのだろう。ちっぽけな仔犬に過ぎない分際で。


「遊んでやる余裕も、どうやらなくなった。とっとと逃げるか、ここでくたばるか。生きてるうちにさっさと選びな」


 両手で剣を構え直し、ボズィマーが私たち三人を威嚇する。


 勇者は気圧けおされ、半歩後ずさった。無理もない。最前列で向き合いながらあれだけの殺気を浴びせられたのだ。


「勇者殿……」


 逃げろ、と私の意識は告げていた。

 このままでは、彼女はやられる。大した時間稼ぎにすらなれずに。私やアクリーも同様だろう。化け物どもの戦場では、所詮、場違いな未熟者たち……


 ダメだ。こんなことで、私の都合で、二人を死なせるわけにはいかない。


 燃えたぎっていた血が、冷めてゆくように。恐怖が意志と希望をくじき、気持ちをあきらめに傾かせる。


「待たせたな、シロ殿」


 背後に、一人の気配が立った。


「隊長……」


 アクリーが息を呑む。ひるんで立ちすくむ私たちを追い越して、白羽織はおりの剣士が悠然と敵前に歩み出ていく。


「事情は聞いた。懺悔ざんげみそぎはこの剣で果たそう。今は、一刻も早く御主君を」


 ああ、もう。

 邪魔するときも助けに来るときも、いちいちカッコイイな、この人は……!


「クソっ! まーた、てめえかよ!」

「聖都第二聖護騎士隊隊長、ナガテ・アズマがお相手つかまつる。魔族よ、年貢の納め時と知れ!」


 ナガテの乱入で、情勢はまたにわかに一変した。さしものボズィマーも、私たちと彼女を全員同時には相手にできまい。


「ナガテ殿、助太刀すけだち感謝っ!」

「あっ、待ってよ!」


 私は駆けだし、アクリーが続く。すぐに勇者も追いついてきた。


「シロっ、私たちどうしたら……」

「とにかく祭壇だ! どうにか儀式を食い止められれば――」


 三人で客席の階段を駆け下りる。魔族も覆面も邪魔てはしてこられず、最下層の舞台にまで一気に飛び降りた。


 ご主人は、もう目の前だ。禍々まがまがしい光の中で、闇に取り込まれようとしている。何よりも、誰よりも大切な私のご主人が……


 させられるものか!


「――シロっ!」


 勇者の制止に耳を貸さず、矢も楯もたまらずに私は飛び出した。光に包まれた台座を目指して、魔法陣に足を踏み入れる。


 走って、走って、ご主人に向かって、走って、そして撥ね返された。


「うあっ!?」


 まるで蛇のように、ご主人に取りついた闇の一部が私へと伸びて体に喰らいつく。伸びた部分はすぐに消えたが、私はあえなく魔法陣の外にまで吹っ飛んだ。


「シロっ!」

「もうっ、無茶ばっかりして……」


 HPゲージもやばかったらしい。アクリーが駆け寄ってポーションで回復する。


「無駄だわ! その子はもう既に『魍魎』の器よ!」


 キシャに攻撃しつつ、ターツが勝ち誇った。


「いいや、まだだね。魔神よりも上位の存在に浄化されればそれまでだ」


 攻撃をかわし、キシャがやり返す。私たちに視線を投げかけて、


「勇者ちゃん、彼女に洗礼を施せ! 龍神の力なら『魍魎』に勝てる!」


 いきなりの指名に、勇者は困惑を露わにした。


「えっ……わ、私ですか? 私のような未熟者が他者に洗礼なんて……」

「君も、人を救う聖職者だろう!? 未熟なら未熟なりのやり方があるはずだ!」


 人を救う聖職者。

 勇者の使命を与えられた少女に、その言葉は重く響いたらしい。


「勇者殿……頼む」


 頭を下げる私に、彼女は頷いた。


「わかりました。私に、できるなら……」

「一応、援護するわ。役に立つかわからないけど」


 アクリーが、手にアイテムを呼び出す。ポーションとは違う形状の小瓶。『祝福の聖水』とウインドウが表示する。

 瓶を持つ手をこちらにかざし、彼女は呪文を唱えた。


「プロテクション、テイルウインド――ホーリーブレス!」


 最初の二つはキシャも使った補助魔法だ。最後の一つで、小瓶が弾けて消滅した。こっちはおそらく、魔族のキシャには使えない。


 私たちの体を、白く神々しい光が包み込む。


 混沌の力を退ける龍神ヴォルザークの加護――神聖魔法というやつだろう。神官系のクラスに固有のスキルだが、アクリーは不足をアイテムで補ったのだ。


「かたじけない、アクリー殿」


 私も右手に武器を呼び出した。盗賊のナイフは、いつもと違って聖なる光に輝いている。これなら、少しはやれるかもしれない。


「何としてでも、道は開く。どうか、ご主人を頼む」


 言い残して、私は再度突進した。


『闇』の迎撃――

 来るとわかっているものに、むざむざ私もやられはしない。


「てやぁっ!」


 ナイフで斬り裂き、止まらず前へ。体は軽いし、力も溢れている。もっと、もっとやれるはずだ。


 今なら――そう、今だけでもいいから。神様、ご主人、私に力を!


「はああああっ!」


 ナイフを逆手にしてジャンプ、飛び越えざまに闇の触手へ斬りつける。私のほうが動きは速い。『次』が来る前に、ご主人の裏手にまで走り込んだ。


「今っ、助けるから……!」


 私は台座へよじ登り、ご主人を後ろから抱きしめる。懐かしい匂いが記憶と感情を一気に呼び起こす――でも、まだ早い。泣いてる場合なんかじゃない。


 私は、ご主人を助けるんだ!


 腰に回した左手とは逆、空いた右手でナイフを突き立てた。ご主人を取り込もうとする、真っ黒な闇の指先に。


『グァオォォォォッ……!』


 遠く魔神が苦痛に叫び、深い闇のこごりがのたうつ。同時に、私の体にも次々と黒い触手が喰らいつてきた。


「シロぉぉっ!」


 剣で闇を斬り払い、勇者が走り込んでくる。いいぞ。敵の攻撃はまばらだ。私は、ちゃんとおとりになれてるな。


 ……痛いけど。きついけど。すごく、苦しいけど。このくらい、なんてことない。ご主人に受けた恩を思えば。ご主人からもらった愛情を思えば……!


「私のことはいい、早くご主人に洗礼を!」

「……はっ、はい!」


 勇者は涙目で、口を引き結ぶ。ターツが声を上ずらせて叫んだ。


「無駄よ! たかが仔犬ごときに、魔神を抑えていられるはずが……ッ!」


 おお、言ってくれるな。たかが仔犬とは。そりゃあ確かに、私は仔犬だが。


「ああ、無理だろうさ。私には、な……」


 闇に呑まれ、締め付けられながら、私は無理矢理に笑ってやった。笑うしかない。だって、こっちには切り札がある。ものすごく下らない最後の切り札が。


 セカンダリを起動する。通信モード。相手は、リリディア大司教だ。


『……シロ。私です』

「導師リリディア、時が来た。例のアレを頼む」

『承知しました。成功を祈ります。遥かなる天上と、今ここにまします神に』


 瞬間、まるでその祈りに応えるかのように――何百、何千という大量のウインドウが闘技場にポップした。


 大きさはまちまちだが、表示は全て同じだ。『♪』のマーク。ただそれだけ。


「なっ、何を……」

「うわ、これって……」


 ターツが目を剥き、対峙するキシャは耳を塞ぐ。正解は後者だ。


『歌いまーす! 讃美歌ゼロ番、「サクラに捧ぐ歌」!』


 闘技場に、アホの声が元気良くこだまする。


『ら~ら~ら~、かわいいよ~。る~る~る~、かしこいよ~。さくら~さくら~、女神さま~。みんな~大好き~サクラさま~』


 調子っぱずれの、絶妙に音痴な女神サクラの独唱、絶唱――ここまでのシリアスを木っ端微塵に破壊する威力だった。


『愛と~、平和と~、慈しみ~、この世にあまねくもたらす光~。ふぶき~よりも~かわいいよ~。ふぶき~よりも~かしこいよ~。あ~、ありがたや~ありがたや~』


 しかも、壊したのは雰囲気だけではない。


「ぐっ……何だ、こりゃ」

「やぁー、これきらーい!」


 ボズィマーとエージィが苦痛に呻き、ターツも顔を青ざめさせる。


「ま、まさか……こんな……!」


 聴覚野から脳細胞組織全体を汚染しそうな怪音波ボイスが、最も効いたのは『闇』そのもの――サクラ神と敵対する魔神『魍魎ヴァラサークル』だった。


『グァオァゥゥゥゥゥッ……!』


 悲鳴じみた哀れっぽい声。ご主人と私を縛る触手が、消えかけた火のように千々に乱れ細る。


『あ~あ~あ~、さ~く~ら~。みんなの偶像アイドル聖母マドンナ女神ミューズ~。さくら~さくら~、超偉い~。さくら~さくら~超すごい~。あ~あ~、さ~く~ら~』


 今だ、と呼びかけるまでもなく、勇者は聖句を唱え始めていた。


「偉大にして慈しみ深き、天なる龍神ヴォルザークよ――」


 リリディア大司教とは違い、胸元に両手を組み合わせて目を閉じている。これが、未熟なりのやり方というやつなのか。


 いや――違った。正確には、それだけじゃなかった。一通り詠唱を終えた勇者が、おもむろに台座へ上がってくる。


 人を一人、乗せるためだけのごく狭い台座だ。私と勇者で、裸のご主人を挟み込むような体勢になっていた。


 勇者の頬が、微妙に赤い。そうか――これは、そういうことなのか。聖職者として勇者が未熟だから、そうせざるを得ないということか。


 勇者はちょっと背伸びして、ご主人の顔を引き寄せる。躊躇ためらいがちに。そして洗礼を施した。


 ……ちゅっ。


 その小さな接触が、世界の全てを一変させた。


『グギャアアアアア……!!』


 空に断末魔の悲鳴がとどろき、ご主人の体から噴き出した光がまつわる闇を消し飛ばす。温かく、とても優しい。私の体もその波に洗われ、闇のくびきから解き放たれた。


 清浄な風が天へと吹き抜け、夜空の星が還ってくる。


 静かな、とても静かな夜だった。



「……終わったの?」


 アクリーが、ぽつりと口を開く。


「そう、終わりだよ。戦いはこれまでだ」


 耳栓代わりの指を外しつつ、疲れた笑顔でキシャはそう宣言した。大勢の足音が、闘技場になだれ込んでくる。


「隊長っ、勇者殿! ご無事でありますか!?」


 男の声と、赤い制服の群れ。トーマの率いる第三聖護騎士隊の部下たちだ。


「ご主人……」


 赤い光の柱が消え、ご主人の体は今や床の上で私の腕に抱かれていた。ぐったりと全身の力は抜けて、両目も閉じられたまま。でも、ちゃんと息はしている。


 よかった……


 確かな重みと、温かさと。何も知らないこの世界で、唯一私が知っている匂い。私の全て、最愛のご主人だ。


 でも、ちょっと、うまくいきすぎだろうか。


 私がこぼした涙の雫で、ご主人が目を覚ますだなんて。


 嘘みたいだけど、睫毛まつげが震えて目蓋まぶたがゆっくりと持ち上がった。大儀そうに瞬きをして、瞳がぼんやりと焦点を結ぶ。


「…………?」


 目が合った。合ってから、初めて私は慌てた。どうしよう?


 ここまでずっと会いたい一心で、会ってからのことを何も考えていなかった。私はもう、ご主人が知っている私ではないのに。


 こんな変わり果てた姿で、どうやってご主人に接しろというのだ?


「あ、えー、あの……」


 あからさまに挙動不審な白髪犬人間(女・11歳)を見上げるご主人は、軽く小首を傾げて呟いた。


「………シロ」


 うっすらと、とても穏やかに微笑みながら。そして、再び眠りに落ちた。


「あ、あら……?」


 いかにも私はシロですが。これはこれで、どうしよう?


「大丈夫。疲れてるだけだよ。しばらく休めば元気になるから」


 いつの間にやら覗き込んでいたキシャが、私の肩をぽんと叩いた。


「よく頑張ったね。お疲れ様」


 短く私を称賛すると、彼女はぐるりと円形の闘技場全体に視線を巡らせる――頬を染めてくちびるに指先を当てる勇者、もらい泣きで目が真っ赤のアクリー、安堵した表情のトーマ、凛々しい微笑を浮かべるナガテ、敗北と歌のダメージで憔悴しょうすいしきった魔族ども、慌ただしく突入してくる赤い制服たち。


「――さて。魔族である私としては、この場はさっさと退散するに限るんだけど……どうする、三馬鹿ども。潔く散華さんげして殉教者になるかい? 素直に『ごめんなさい』できるんだったら、一緒に連れてってやらなくもないんだけど」


 ふふん、と勝者の余裕を漂わせてキシャは鼻を高くする。

 三馬鹿の筆頭格、一番近くで聞いてきたターツが屈辱と憤懣ふんまんに口元を歪ませた。


「ふん。随分と安く見てくれたわね……犬畜生風情に頭を下げろですって?」

「敵の情けなんざ真っ平御免だぜ。小屋には一匹で帰りな、ワン公」

「いーっ、だ。ソリでもくなら乗ってあげるけどねー」


 続いて、ボズィマーとエージィ。

 敵ながら天晴あっぱれな覚悟である。望み通り火あぶりにでもしてくれよう。イヌ科動物の誇りにかけて。


「ふふっ、いざというときの退避手段ぐらい用意しないと思ったのかしら?」

「ま、そういうこった。あばよ、教会の犬ども」

「ばいばーい」


 あれ、逃げるのか。

 三馬鹿どもは祭壇に集まり、何やら変なポーズをとって。


「…………。」


 えーと。どうなるんだ、これ。何も起きないけど。


「あー、無理無理」


 愉快そうに肩を竦めて、キシャは大袈裟にかぶりを振った。


「さっきの歌のせいで、君らのMPゼロになってるから」


 と、いうことで。


「…………え。」


 間抜け顔の三人とキシャを、トーマとナガテとその他大勢の教会の犬が武器を手に完全包囲。


「イクゼルテ様! ごめんなさいっ!」

「あっしらがわる御座ございました!」

「おたすけー!」


 おい、さっきまでの威勢とプライドはどこ行った?


「やれやれ。じゃあ、そういうことで。シロちゃん、またねー」


 キシャが私に手を振る。と、足下に真っ暗な穴のような円が生じ、魔族たちの姿を呑み込んだ。


 ほんの数秒の出来事だった。穴は見る間に消え去り、後にはもう何も残らず。


「……逃がしたか」

「やり合えば、ただでは済まない相手です。今日は引いてくれたと思いましょう」


 口惜くちおしがるナガテをトーマが慰める。

 私もその意見に賛成だ。これ以上の厄介やっかい事はもう勘弁してほしい。


「みんな、無事でよかったです。神殿に帰りましょう」


 本当は、捜査とか現場検証とか色々あったんだろうけど――勇者の言葉に反対する者は、その場には誰もいなかった。

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